『誰かのためになるならば』をテーマに書かれた作文集
小説・日記・エッセーなど
誰かのためになるならば、とはいうものの、その『誰か』に心当たりがなく自分は宙ぶらりんでただ漂っている。もちろん日々仕事で金銭を得ている以上何か役に立ってはいるのだろうけれど、余りにも社会奉仕的観念が胸のうちに存在しない。翻って、誰かに何かしてもらいたいという欲求も特になく、都市の中において孤立した存在を案外満喫しているのだ。
続ける理由は解らないけど、
終わらせる理由も解らない。
いつか終わると解っていて、どうして体は続けるの?
心はフラフラ、僅かなバランスで揺れている。
だから、せめて思いたい。
誰かのために生きているって。
誰かのためになるならば
なんて綺麗事だ、と思った。よく顔も知らない人間のために献身できるものだ。これは私が斜に構えているからなのだろうか。ため息をつき本を閉じた。
休憩がてら、コンビニに飲み物でも買いに行くことにする。財布だけ持って家を出た。
家すぐ近くのコンビニは小さいが妙にラインナップが豊富で、店長の趣味じゃないのかと思わされる。小さい頃は、ドリンクコーナーになんだかワクワクしたものだが、もう見慣れてしまったよな。適当にジンジャーエールを取りレジに向かう。
ふと、レジ横の募金箱が目に入り、先程の本のセリフを思い出す。
誰かのためになるならば……
私は、誰かのために自己犠牲を払うなんて、してやらない。ただ、これが誰かのためになっていたらと願うだけだ。
500円を入れておいた。
誰かのためになるなら僕は身を引くよ
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theme 誰かのためになるならば 2024-07-26
誰かのためになるならば自分を犠牲にできる、
そんな人間に憧れていた。
小さい時から将来の夢なんてなにそれ?って
理想の将来像もやりたいこともなかった。
人のためになる仕事がしたいと話す兄を見て
自分にそんな気持ちは全くなかったけれど
そんなことを思えたら素晴らしいと思った。
そして実際に今、人を助けられるのではないかと
自分が感じた職業についている。
でも根本の自分にはそんな気持ちはないわけで、
毎日何か違う、楽しめない、ストレスに思う、
そんな日々が続いている。
結局どこまで行っても自分のことが一番大切だし、
自分の人生が豊かになることを何よりも優先したい。
好きな人、大切な人のためにならいくらでも
自分の時間、労力、すべてを尽くしたい。
頼りにしてもらえる人になりたいな。
誰かのためになるって
そう考える気持ちなんてない
余裕もない証拠だ
誰かの為になるならばという考えでしてきたこと(被災地への募金、今は服薬上できない献血、マナー遵守くらいか)より、その気持ちでしていただいたことに恩恵を得ていることの方がはるかに多い人間です。
かつて電車内で身体の具合が悪くなってしゃがみこんだ私に席を譲ってくれた方ありがとうございます。
幹事役員引き受けてくれた方にもその気持はあったでしょう。
救急車で命を救っていただいたこともありました。
医療従事者だけでなく、夜間や土日祝に対価はあっても仕事をしてサービスを提供してくださった方にその気持ちがなかったら、きっと。
私は善人ではないので、善意でしたことが悪意で返ってくることを恐れて行動できないこともあります。だからこそ新渡戸稲造さんの言葉を自分に言い聞かせていたりします。
"施せし情は人の為ならず おのがこゝろの慰めと知れ
我れ人にかけし恵は忘れても ひとの恩をば長く忘るな
出典:[新訳]一日一言"
誰かの為にといっても結局は自分の為
批判的な意味も含めてそんな主張はありふれている
人間の根源にエゴがあるのだから何を今更感が否めない
自分の為にやっているから優しさではない偽善だ
こんな風に優しさと善性を持ち込むから話が拗れる
それらの概念は社会秩序を保つ為の概念であって
どんな意図や目的で行為をしたかはそんな重要じゃない
優しさや善意を持っている"ように見える行為"が重要で
別にそれが本心であるかなどこだわらなくてよいのだ
エゴイズムに従って見返りを求めて優しいふりをする
別にそれ自体はまったくもってなんら問題ない
優しいふりも優しいということに変わりない
相手や自分を騙しているようでどこか気持ちが悪い
そんなふうに感じるならさっさとその行為をやめればいい
やめて事態が改善するのか悪化するのかを知ればいい
恐ろしいほどに自分の内心とは関係なく物事は進む
自分の中の善性にどこまで拘っても悪いやつは消えない
"善人は報われない"ようなことを言いたいわけじゃない
その善悪という概念を自分の価値軸とは分離することで
あくまで社会的なものであると捉えてほしいのだ
善悪を含め倫理的な概念たちは強迫観念に近い
だからこそ少し離れて冷静に見つめる必要がある
そしてその位置から改めて独自の善を目指せばいい
独善とは違う再解釈された善を目的地へ
『誰かのためになるならば』
なんのために生まれてきたのだろう。
なんのためにこの世に生を受けたのだろう。
そう、自分に問いかけると、
答えは全く出てこない。
でも、今なら言える
今は、もう覚悟してる。
この命が、誰かのためになるならば
この生命が、誰かのために有るならば。
誰かのためになるならば。
なんて素敵な言葉だろう。
私は私の事で精一杯なのに
誰かの願いの為に生きる事が出来るなんて。
私もそんな生き方が出来るような
完璧な人間になってみたい。
今日詩じゃない話になりますが、
このお題を見た瞬間、
ドナーソングって曲思い出しました笑
素敵な曲です。良かったら聞いてみてください_
【誰かのためになるならば】
空を見上げて心に浮かんだのは
遠い日の記憶。私だけの。
ふと落とした視線の先には
私の名前が書かれた手紙。
そこには
"あなたが今一番欲しいものはなんですか。"
なんてかわいい字で書かれていて、
もしもタイムマシンがあったなら。なんて考えが浮かんできた。
たくさんの風鈴が、花が咲いたように揺れていたあの日のあの場所。
その中に、風に吹かれてあなたがいた。
私たちの出会い。
何度だって目に焼き付けたい。
私とあの子の間にあるのは友情のように思えるけれど、そんなことはどうでもいい。
ねえ、私ね、現実という鳥かごから二人で手を繋いで飛び出してどこかに行きたいって、よく思うんだよ。
でも、あなたのためになるならば、そんな事は言わないでおく。
さて、お手紙になんて返事しようかな。
30作突破記念
「誰かのためになるならば」
7/15 20作突破記念の続き。
これまでのタイトルを並べて繋げたもの。
内容は続いていない。
◯作突破記念とか言っているがあくまで目安でけっこうてきとうに発動。
反応に関係なく自分が楽しいのでやってる企画。
インターバル的なもの。
誰かのためになるならばって、
動ける人になりたくて。
でも理想とは程遠い、
今の自分を好きになれない。
理想の自分になりきれない、
自分の演技の下手さを、
思い知らされてる。
誰かのためになるならば、誰かの為になればいいね!!
誰かのためになるならば
「はいこれ。保険証ね。無くさないように気をつけて」
3度目の転職先は大手製造会社の子会社で、主に販売を行っている店の販売員だった
1度目は高卒で入社した事務職
いわゆる社会の荒波にまだ18だった私は耐えることが出来ず、半年で退職
その後1年かけて資格を取り医療の仕事に携わり約4年勤めたが、3年目の時に上司が代わり、馬が合わずやけくそになって退職した
今年26になる私は未だに恋人はおらず、友人と呼べる相手も思いつくことはない。
高校の同級生とはほとんど連絡を取っていないし、SNSも随分前に辞めてしまったので必然的に関わりがなくなっていった
その日も8時間の労働を経てワンルームの部屋に滑り込む
渡された保険証を眺めながら、タバコに火をつける
どの保険証にも変わることなく書かれている私の名前、生年月日
住所、そしてウラ面の臓器提供の意思表示
タバコはまだ半分ほどもなくなっていない。火が消えないよう灰皿におき、ペン立てからサインペンを取り出した
1.私は、脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも、移植の為に臓器を提供します。
2.私は、心臓が停止した死後に限り、移植の為に臓器を提供します。
3.私は、臓器を提供しません。
躊躇うことなく1に丸をつけた。
タバコの火はまだ燃えている。
〈1又は2を選んだ方で、提供したくない臓器があれば✕をつけてください〉
【心臓・肺・肝臓・腎臓・膵臓・小腸・眼球】
一口だけ煙を深く吸い込み、既にフィルター近くまで燃えていた火種を灰皿へとこすり付けた。
肺のみにバツをつける。
喫煙者の肺など、誰も求めてはいないだろう。
生年月日を書き、署名欄に名前を書き並べた
私はおそらく社会のなんの役にもたっていない。
税金は納めているし、仕事もしている
コンビニで買い物したお釣りの100円以下はいつも募金箱に入れているし、この間は具合の悪そうにしている人に声をかけてスポーツドリンクを買って渡した
だが、私はたまにこの世が滅べばいいと思うし、嫌いな人には消えてしまえとも思う
生きることに難しさを覚えるし、価値を見出せない
そんな人間でも、もし誰かのためになるならば、
社会の役に、誰かの役に立てるならば、
それが例え自分の死後だとしても。
そんなことを考えて、保険証を財布にしまいこむ
今日はもう休んでしまおう。
明日もまた働かなければならない
まだ生きねばならないのだ
いつか役に立てるその時まで。
【誰かのためになるならば】
もう、足はない。右腕もない。眼球も取り出され、内蔵もあちこちない。残った内蔵は薬剤漬けだ。皮膚もだいぶ取られている。
腕や眼球や皮膚は移植のため。残った部分は薬や治療の実験のため。
そのために、自分は生かされている。
「しかし、こんなになって生きてるって、どんな気分なんでしょうね」
「そういうことを言うものじゃないけどね。でも、彼に限って言えば」
「言えば?」
「幸せそうだよ」
そう。
誰かのためになるならば、こんなに幸せなことはない。
ほぼ、動かない頬の筋肉を使って、ほほえんでみた。
『誰かのため』という、一聴して耳あたりの良い言葉。
しかし、こうは考えられないだろうか。
『己の行動の原理・責任を、他者に依存している』と。
『誰かが喜ぶ』と『自分が嬉しい』。だとすればそれは、自分自身の為に他ならない。
ならばそれは『誰かのため』ではなく『自分のため』であろう。
自身の行動原理を他者に預け、失敗しても『誰かのためになると思ったから』で済ませる。
そんな言葉が、考えが、とても嫌いだ。
私の今の役目は、戦争を起こさせないこと。または、仲裁すること。
要は外交。国家間の外交とは異なる、個人間の外交。
『調停者』とでも言うのだろうか。
それが、我が家の代々の務めだった。
何時の頃からか、始めていた『調停者』。
記録も曖昧なほど昔に、先祖が流れで始めた務め。
その務めを代々受け継ぎ、我らは努めてきた。
もしかしたら、今の世にはもう必要の無い務めなのかも知れない。
しかし、私は『調停者』という務めを辞めない。
何故なら、私は知っている。我が家の人間なら、必ず教わる。
『正解とは、百年後の世の人間が決めること。
今を生きる人間が決めることでは無い。』
だから、私は続ける。この務めを果たす。
今、私に出来る最善を尽くす。
成果など全く挙げられなくとも、この務めを放棄する訳にはいかない。
先祖から受け継いたものを、後世に伝えるために歴史を紡ぎ続ける。
この『調停者』としての務めを、次の世代に繋げる。
それが今の私に出来る、唯一のこと。
だから、私はこの『調停者』という役を務める。
この『調停者』という務めは、私が後世のために出来る、
最善で在ることを願い、祈る。
もし私が
誰かの役に立つのなら
もし私の行動が
誰かのためになるのなら
私はそのことに全力で取り組みたい
誰かの役に立ちたいんだ
って思ってても
中々行動に移せないんだよね…。
そんなの私が
一番よくわかってるよ
お題「誰かのためになるならば」
誰かのためになるならば
と思って頑張ってきたけど
これからは
自分のために
自分に優しく
生きたい