『愛を注いで』をテーマに書かれた作文集
小説・日記・エッセーなど
梅雨の明けた、まだジメジメとした夏の始まりこと。
いつもの外回り、いつもの顧客の嫌味に辟易しながら、いつもの会社への帰路、いつもとは違うその真新しい店に目を奪われていた。
こんなところに喫茶店なんてあっただろうか。
そう思いながら、俺はその喫茶店のドアを開けていた。
「いらっしゃいませ。」
中から声を掛けてくれたのは、大学生くらいだろうか、明るい笑顔と髪色、そして大きなピアスが印象的な青年だった。
喫茶店の佇まいは、純喫茶を彷彿とさせるレトロな雰囲気だったが、迎えてくれた彼は、あまりにもその空間から浮いているように思えた。
だが、コーヒーを注ぐその姿に目を奪われたのは間違いなかった。
ぼーっと見ていると、
「お客さま、お好きな席へどうぞ。」
そう彼に声を掛けられた。はっとしながら、思わず彼の目の前の席に座ってしまった。
「メニュー、お決まりになりましたらお声がけください。」
そう言いながらニコッと笑う顔が、たまらなく可愛い。
『可愛い?』年下だろうが、男に対して『可愛い』とは。暑さで変な思考になっているのだろう。子どもを『可愛い』と思う、そう母性本能をくすぐられる可愛さ!
半ば自分に言い聞かせるように、心の中で叫びながらメニューを見ているかのように、暑くなった頬をメニュー表で隠した。
「外、暑かったですよね?」
「うぇっ!?」
急に話しかけられて、思わず変な声が出てしまった。俺の変な声にくクスクスと笑う顔が、いたずらっ子のようでたまらない気持ちになる。母性本能恐るべし!と思いながら、不審に思われないよう返事をする。
「はい、とっても。本格的な夏が来るなって感じましたよ。暑さと営業回りで歩き疲れて喉がカラカラです。」
「それはお疲れ様でした。ゆっくり休んでいってくださいね。」
「ありがとうございます。あー、店主オススメブレンドコーヒーをアイスでください。」
「かしこまりました。」
彼は目を細めて、穏やかに微笑み、慣れた手つきで豆を挽き始めた。ゴリゴリと一定のリズムで豆を挽く音が心地いい。
ゆっくりと丁寧に挽かれた豆は、俺の知っているものよりずいぶんと細かいような気がするな。
まじまじと手元を見ていると、彼がクスクス笑いながら、挽いた豆を見せてきた。
「アイスの場合は、細かく挽くと甘みが出やすいんですよ。冷たいと甘さを感じにくいっていうでしょ?」
「あはは、見てるのバレちゃいました?」
「お客さんにそんなまじまじと見られることないですからね。」
そう言って、彼はニッと笑った。
さっきまで店員然とした態度だったのが、急にフレンドリー話しかけられ、思わずドキッとしてしまった。
「お客さんはコーヒー好きなんですか?」
「そうですね、休日は家でよく淹れますし、営業回りの癒しですからね。時間のある休日は自分でも豆を挽くんですが、こんな細かく挽いたことないんですよね。そっか、アイスの時は細かい方が美味しくなるのかー……って喋りすぎました!邪魔しちゃってすみません!」
「気にしないでください。僕の仕事に興味を持ってくれて嬉しいです。」
ふわっと目を細めて笑った顔は、なんとも言えない美しい顔だった。
何故だかドキドキと鼓動が小刻みで頬が熱い。
「次はお湯注いでいきますよ。ゆっくりと注ぐのが、豆の甘さを引き立たせるポイントなんです。」
そう言って人差し指を立てて口元に添えている仕草が、俺の心をどうしようもないくらい惹きつける。
「ちょっとお兄さん聞いてます?」
そう言って彼がグッと顔を近づけてきた。
「うわぁっ!」
急にドアップになった彼の顔にビックリし、大きくのけぞって椅子から落ちてしまった。
「イッッ、たた……」
「大丈夫ですか?すみません、僕が驚かしちゃったから。」
そう言ってしゅんとする彼は、子犬のようでとても可愛い。
落ち込んでいる彼を気遣うように、何事もなかったように椅子に座る。
「いや、俺が悪いんだよ。ちょっとぼーっとしちゃって。それより、もっと美味しいコーヒーの淹れ方教えてくれる?」
そう言うと、彼はパッと明るい笑顔になり、コーヒーの淹れ方を色々話してくれた。
「お湯をゆっくり注いでいきます。だいたい2分半くらいで全部落ち切るくらいで淹れるのが僕のポイントなんです。」
「へぇ、注ぐ時間とか考えたことなかったなぁ。」
ドリッパーを上から覗き込もうと、カウンターに手をつき身を乗り出す。
「ちょっ、ちょっと!近いです!」
しまった!つい真剣になりすぎて彼に近付きすぎていた。
慌てて離れると、彼は「ふう」と息を吐いた。
「真剣に見てくれるのはとても嬉しいんですけどね。」
少し頬おを赤く染めながら、彼は嬉しそうに言った。コホンと咳払いをし、再びお湯を注ぎ入れる。
「本当、どの工程も優しくやってるよね。愛情いっぱいって感じ。」
「えっ……」と驚いた声はっとして、思い切り顔を上げた。彼はなんとも言えない目をしながらぎこちなく微笑んでいた。
「あはは、ありがとうございます。お客様のため、愛情いっぱい込めさせてもらいますね。」
笑いながら冗談を言ってはいるが、確実に傷付けてしまった。
「あっ、ご、ごめん。俺、いつも余計なこと言っちゃうから、気に障ること言ったみたいで、本当にごめん!」
精一杯の謝りは届くだろうか、できればさっきみたいに楽しそうに話してほしいと思う。
「気にしないでください。『愛情いっぱい』とか恥ずかしいこと言うから、反応に困っちゃっただけですよ。お兄さん意外とロマンチストなんですね。」
「ほ、本当か?俺よくひと言余計で、よく怒られるんだ。」
さっきまでのぎこちなさはなく、穏やかに微笑んでいる。本当に驚いただけのようだ。
「確かに、変なタイミングで、突拍子もないこというのは直す努力をした方がいいですね。」
クスクスとさっきみたいに、いたずらっ子のように笑って見せた彼は、本当に気にしていなさそうだ。
良かったと胸を撫で下ろした。
「直せたら苦労しないよ。余計なこと言って何度上司や営業先で怒られたか。無神経なつもりはないんだけどな……」
ブツブツと愚痴をこぼしながら、頬杖をついた。そんな俺を見かねたのか、話題を変えるようにアイスコーヒーを俺の前へ置いた。
「落ち込まないでくださいよ。ほら、余計なことでも人によってはよく捉えてくれる人もいますよ!それより、アイスコーヒーお待たせいたしました。」
「ありがとう。さっきの説明聞いて、楽しみだったんだ。どれくらい違うんだろう。」
そう言って、子どもみたいに目をキラキラさせた俺を、彼は安心したような顔で、優しく微笑んだ。
その笑みはどうしようもなく心を高鳴らせる。緊張のせいで、ついつい彼から目を逸らしてしまった。その時の彼のしゅんとした顔に俺はまだ気付かなかった。
「いただきます」とストローを加えてコーヒーを飲む。
「んっ!これ、いつもより甘みを感じる……!うまい!こんなうまいコーヒー初めて飲んだよ!」
興奮気味に早口で感想を言うと、呆気に取られたような顔をした彼が、カウンター越しに真っ直ぐ手を伸ばし、俺の頬にそっと触れ、だんだん近付いてくる。
「おっ、おい!」
温かい……彼の触れた手は心地いい温かさをもっていた。
今度は俺が呆気に取られていると、彼ははっとして手を離した。彼が触れたところがじわじわと熱を帯びていく。その場所にそっと触れると、胸が弾んだ。「嬉しい」と何故だか思ってしまい、はっと緩んだ口元を思いっきり押さえて目を顔をあさっての方向に向けた。
「すみません、僕……急に……」
とんでもないことをしてしまったと言う顔で彼は謝ってきた。『いや、いいんだ。嬉しかったと思った自分が恥ずかして、目を合わせられないだけなんだ。』そう言いたいのに言葉が出てこない。ドキドキと心臓が早鐘を打ち、俺と彼の2人きりの空間にうるさく響く。
静まってくれ俺の心臓!早く何か言わないと!そう思いながらも鼓動はどんどん早くなっていく。
カウンターのみの小さな喫茶店で、彼と俺の2人だけのこの状況で、微妙な気まずさを打ち消す何かはなく、俺はアイスコーヒーを一気に飲み干し気持ちを落ち着けた。
「コーヒー美味しかったよ!会社と顧客の行き帰りの道に、こんないい喫茶店ができたなんてラッキーだったよ。ごちそうさま。代金はここでいい?」
サッと立ち上がり、何事もなかったように代金をカウンターの上に置く。
「はい、喜んでいただけて何よりです。ぜひまた……来てください。」
ぎこちなく笑いながら、代金を手に取る。きっと彼も、俺はもう来ないと思っているだろう。
『もちろんまた来るよ』と彼を励ます言葉を掛けようと思ったが、気落ち姿を見て、俺は不意に中学生の頃好きだった人のことを思い出した。いたずら好きのくせにそのせいで他人が傷付くと自分も傷付く奴だった。
そうか、俺は彼に恋をしてしてしまったのか――
先ほどまでの感情に名前が付いたら、心にストンと落ちた。『こんな気持ち、男に向けられたら嫌だろう』気付いてしまった気持ちと『もちろんまた来るよ』の言葉をそっとしまい込んで、俺はドアノブに手をかけ、重たく感じる扉をグッと思いっきり押した。瞬間、彼が俺の手をギュッと握ってきた。
「待ってください!」
「ど、どうした?」
「待ってください!また、また絶対来てください。」
「もちろんまた来るよ。」
(嘘だ――)
「嘘……そんなの……さっきはごめんなさい、キ……変なことしちゃって何も言えなくてなっちゃって……その……」
彼は瞳を潤ませながら、きゅっと唇を結んだ。
「そんな焦んなって。」
そう言いながら彼の頭をポンポンと軽く叩いた。
慌てて俺を引き止めてくれたことが嬉しくて、ついつい口元が緩む。ダメだ、しまい込んだ想いが溢れ出しそうだ。
また来てもいいだろうかと欲が出る。
「コーヒーもうまいし、お前は弟みたいに可愛いし。さっきの頬に触ってきたのだっていたずらだろ?だからそんな顔するなよ。」
『また来るよ』そんな不確定な言葉を使わないように気を付けながら彼に声を掛ける。
途端に握られた手をさらに強い力でギュッと握られる。
「また来るって、言ってくれないなら……」
「えっ?」
くぐもった声で彼は何か言っていたが全く聞こえなく、聞き返す。するとキッと力強い顔をして、思いもよらない言葉を綴った。
「また来るって言ってくれないなら、もう会うことがないなら、僕のこの気持ちを言ってもいいですよね?あの!僕ずっとあなたのこと知ってました。ずっとずっと想ってました。好きです。」
「えっ……今……」
聞き返そうとした途端、彼はまた矢継ぎ早に話を続けた。
「向かいの路地で雨の日に捨て猫に傘あげてるの見てました。少し先の横断歩道で、点滅信号を渡りきれないおばあちゃんを背負って渡ったこともありますよね?それも見てました。最初は優しい人だなって思いました。ただそれだけ……でも2先の信号のコーヒー豆専門店で、コーヒー豆を真剣に選んでたあなたを見て声を掛けて色々教えた時、すごく喜んでくれて、僕を温かい気持ちにしてくれました。好きなことに対して突っ走る僕の話を長々と聞いてくれました。楽しかった……あんなに好きなこと話せるのは初めてで、嬉しくて、好き……好き……」
(こんな息を切らしながら……俺のことを――)
この可愛い生き物を抱きしめたくてたまらなくなって、次の瞬間には思いっきり抱きしめていた。
何が起きたのか分からないと目を丸くしながらパチパチしている。本当に可愛いと思う。
「俺も、君のこと好きだよ。コーヒー注ぐ姿がカッコよくて、好きなことを目をキラキラさせながら話してくれるところ、夢中になると割と周り見えなくなるし、いたずら好きだと思ったのはいたずらじゃなかったけど……自分の行いですぐ他人を傷付けたって思い込んで自分を傷付ける。でも今回は君が悪いわけじゃなかったんだ。俺が、その……好きかもって気付いて、男にこんな気持ち向けられても迷惑だと思って去ろうとした。ごめん。」
俺からこんな話が出るなんて思わなかったのだろう。いまだに、ありえないという顔で呆気に取られている。
そんな彼の手を取り、自分の胸に当てる。
「こんなにドキドキしてるんだよ。嘘じゃない。」
「嘘……じゃない……」
そう呟くと、わっと大粒の涙をこぼしながら泣きじゃくった。
「よしよーし、嘘じゃない。またここにも来る。君の話もいっぱい聞くよ。」
頭を撫でながら、カウンターの椅子に座らせる。目を逸らすために下を向いていて気付かなかったが、ずいぶん唇を噛んでいたようだ。少し血が滲んでいる。告白なんて勇気のいることそう簡単なことではない。相当の思いをもって告げてくれたのだと思うと胸の奥底から温かい気持ちが湧き上がってきた。
一頻り泣いた彼は、目を赤くしながら嬉しそうに目を細めて笑って、隣に座り直した俺の肩にそっと寄りかかってきた。
「嬉しいです。同じ気持ちだったなんて。夢じゃないですよね?」
「夢じゃないよ。俺も夢じゃないかって思ったけどね。」
そう言って俺も彼に寄りかかる。
ゆるやかな時の流れを感じながら、今この瞬間が現実なんだと確認し合うように、彼の髪の毛を指ですいたり、赤くなった目元をそっと指の腹で撫でたり。彼は少し大胆な性格のようで、俺の頬に手を添えチークキスをしたかと思うと、唇に触れ形を確かめるように左端から右端へと親指の腹を優しく動かす。
くすぐったい感覚と、そわそわする気持ちが一気に押し寄せてくる。
「ふふっ」
思わず笑ってしまう。彼もつられたように笑い返す。さっきはあんなにも恥ずかしかったのに、もう顔が近いことなんて気にならない。こんな穏やかな気持ち何時ぶりだろうか。
コツンと額を彼の額に押し付け、俺の唇に触れていた手にそっと触れ唇から離す。
「唇、少し血出てるよ。痛くない?」
「えっ、気付きませんでした。言われるとちょっと痛いかも……あ、そうだ、よかったら撫でてくれませんか?」
俺の手を取り、唇へと運ぶ。そっと触れるとピクッと彼の身体が少し跳ねた。
「悪い、痛かったか?」
「いえ、大丈夫ですよ。それよりもっと欲が出てしまいました。」
「なんだ?」
「傷、舐めてほしい……です」
「えぇっ!」
驚きのあまり、後ろにのけぞって離れようとする俺を、すかさず腕を掴みグッと引き寄せる。
「うわぁっ!」
急に引っ張られバランスを崩してしまい、唇と唇が触れるスレスレまで彼に近付いてしまった。鼓動が彼にも聞こえるんじゃないかと思うほどにドキドキと大きな音を立てている。
(こんなに近づいてしまったら、もう腹を括るしかないのか……)
意を決して目を瞑り、舌を伸ばし彼の唇の傷を舐める。少しの鉄の味とコーヒーの苦味、それに甘い彼の味が俺の口の中で混ざり合って入ってくる。
とろんと薄く目を開けて彼を見ていると
「もう我慢できない。」
そう呟き、にゅるりと舌を舐め、グッと絡ませてきた。
「っんん!……あっ……」
(俺、キスしてるのか……今日初めて会って、一目惚れの彼に?一体今何が――)
されるがまま唇を舐められ、舌を絡められ、にゅるりと口の中に舌を押し込まれる。頭がふわふわするような気持ちよさにおそわれ、今の状況を理解できない。
「ふっ……っ……あぁ…………」
目尻に涙を溜めながら、またとろんと熱っぽい視線を彼に向ける。すると彼は急にそっぽを向いて、グッと肩を抑えられ引き離されてしまった。
「あの……すみません、自分でしといてなんですが、お兄さんにとって今日は初対面で、ぼ、僕は嬉しいんですが、成就したわけですし、でもなんかその、そんな顔で見られたら抑えがきかないというか……」
ごにょごにょと最後の方はほとんど聞こえず、聞き返そうと抑えられた肩に反発するように顔だけ前に出す。すると、さっきまでも真っ赤だったが、さらに耳もうなじも全部を真っ赤にして、ギュッと目を瞑り
「ちっ、近いです!」
と思いっきり頭突きをされてしまった。
「いっってぇ!何すんだよ!」
あまりの痛さに額を抑え、先ほどの甘い雰囲気はどこへという感じで、ぷくっと頬を膨らませ抗議する。
「ダメ!ダメです!ついつい流されてしまいましたがお兄さんにとっては初対面ですし……というか1回会ってるのに忘れられてること、言ってて急に悲しくなってきました……」
告白からタガが外れたのか、よく喋るなと面白くなってしまい、ぷくっと頬を膨らませていた空気を一気に吹き出して笑った。
「ぷっ、あはははは!スゲー喋るじゃん。」
一頻り笑い、そういえばと好きなことに対しては突っ走ると言っていたことを思い出し、ニヤニヤしながら俺は、余計なひと言を言ってしまった。
「もしかして俺のことすごい好きだったりする?」
またも彼は身体中の皮膚が真っ赤に染まっていた。
「えぇ好きですが、お兄さん、それは誘っているんですか?」
何かのスイッチを入れてしまったのか、彼の目が据わっている。即座にヤバい空気を察知し、椅子から立ち上がろうとするが、彼の方が先に立ち上がり、両手をカウンターに付き、俺に覆い被さるように立った。
何も言わずにじっと俺の顔を見つめてくる。
唇にキスを落とし、目元に鼻、頬に額と色々なところに柔らかなキスの雨を落とす。それがくすぐったいような気恥ずかしい気持ちにさせ、彼の檻から逃げようと身をよじる。しかし逃げられるはずもなく、抱きしめられカプっと首筋に歯を立てられ、ビクンと身体が跳ねた。
「んっあぁっ!何して……あっ、はぁ……」
「ほんと、お兄さん煽りすぎですよ。どうしてくれるんですか?」
言いながら俺の手を掴み、彼の下半身へともっていく。
これはシたいという意思表示なのかと、窮屈そうにズボンを持ち上げているそれを見て、戸惑っていると、冗談だとでも言うかのような笑顔で下半身から手を退けた。
「冗談ですよ、そんな困った顔しないでください。でもいずれは、お兄さんとシたい……です。」
えへへと笑いながら、彼はまた隣に座った。
ホッとしたような残念ような複雑な思いを吐き捨てるように「はぁ……」と息を吐いた。
そんな俺を見て苦笑いしながら、彼は今さらな質問をぶつけてきた。
「あの、今さらなんですけど、名前聞いてもいいですか?」
そうだった、俺たちはまだ【お客】と【喫茶店店員】としか知らない。名乗りもせずあんなことしていたのかと、俺も苦笑いをしながら名乗る。
「本当に今さらだな。俺は二階堂拓真。改めてよろしく。」
「拓真さん……僕は一條尊です。拓真さん、改めてよろしくお願いします。」
「一條尊くんだね、よろしく。というかもう下の名前で呼ぶんだ。」
「ダメ……ですか?」
うるうると子犬のような目で訴えかけてくる彼は、とてもあざとく、とても断れない。
「ダメじゃ……ないです。」
「ありがとうございます!僕のことも尊って呼んでください、拓真さん」
そう目を細めて穏やかに微笑む彼は、最初ここに入ってきた時と同じだった。これからもこの穏やかな微笑みを見られると思うと、ついつい嬉しくなってにやけてしまった。
「そういえば、拓真さん会社は大丈夫ですか?」
「あぁっ!俺会社に帰る途中だったんだった!」
はっとして時計を見ると18時になるところだった。喫茶店に入ったのは15時だったので、3時間も滞在してしまったことになる。予定通りに帰社しなかったこと、上司に詰められると思うと、大きなため息が出た。
「すみません、僕が引き止めてしまったので」
申し訳ないとしゅんとする彼はやっぱり子犬のようで、とても庇護欲をそそる。ついつい頭をポンポンと撫でてやりたくなる。
「尊くんのせいじゃないよ。だから気にしないで。そういえば俺ずっと居座っちゃってるけどお店も大丈夫?」
俺も『そういえば』なことをしていた。
「大丈夫ですよ。そもそも今日は営業中看板出してないので、本当は誰も来ないはずだったんですけど、拓真さんが来てビックリしました。」
「えぇっ、そうだったのか?なら入ってきた時に言ってくれればよかったのに」
「だって仲良くなるチャンスだと思ったんですもん!営業中だと2人きりでは話せないでしょ?」
尊くんはクスクスと笑いながら、頬にチュッとキスを落とした。
なんて策士なんだ!そう思いながらキスされたところをさすりながら呆気とられていると
「さぁ早く行かないと、余計怒られちゃいますよ!」
そう言ってカバンを拾って持たせてくれた。
まったく、いたずら好きの可愛い恋人ができてしまったと、満たされた気持ちでいっぱいだった。
「拓真さんに限り年中営業中なので、いつでも来てくださいね。また『愛情いっぱい』注いだコーヒーを振る舞います。」
「何恥ずかしいことサラッと言ってるの。尊くんも意外とロマンチストだったんだね。」
ふふふと2人で笑いあい、俺は尊くんに見送られながら喫茶店を後にした。
愛を注いで
愛を注いで 白海心音
愛は限りない
湖のように
注ぎ続けても
減ることは無い
いい事をすれば
自分に返ってくる
悪いことをすれば
自分に跳ね返ってくる
憎まれるよりも
無償の愛を
かけがえのない愛を
大切なあなたに
注ぎ続けていたい
#78 愛を注いで
お酒を飲んで君と
キスしたあの時と、
お腹を撫でながら
これからの命に祈った日、
どっちが幸せだと思う?
ーー感情を捨てろ。おまえは、言われたことだけしていればいい。
そう育てられた少年は、今、体に深い傷を負い、冷たい路地裏に横たわっていた。
表通りの石畳とは違う、粗い砂利が、初めは薄い服の背中越しに感じられたが、その感覚もやがて薄れてきた。
おれは、ここで、死ぬのかな……。
少年のような、貴族の屋敷の下仕え人は、その主人によって運命が決まった。
与えられる仕事は、様々だった。草刈りや屋敷の掃除などの雑用もあれば、執事としての上等な仕事に就く者もいる。そして、彼のようなーー汚れ仕事を、させられる者も。
「……っ、」
ごぼ、という音と共に、血の混じった咳が喉から溢れた。ナイフで抉られた腹は、今はただ熱く、痛みはなかった。
倒れたまま見上げた空は、鈍色で、遠い。
首を傾けて、路地の壁の隙間から、表通りの方を見た。
小さな可愛らしい布靴が、大きな革靴と、ヒールのある靴と一緒に通り過ぎていく。小さな女の子の、こぼれるような笑い声が聞こえた。
ああ、とつぶやいた声は、音にならなかった。
もし、おれが、あんなふうな場所にいたらーー…。
年上の仲間から頭を撫でられた時に感じた、あたたかさを。道端に捨てられていた仔犬を抱き上げた時に、湧き上がった気持ちを。
言い表す言葉を、知っていただろうか。
少年にとって、その子どもは遠い存在で、羨ましいとは思わなかった。
ただ、春の日差しが降ってきたような、やわらかな思い。それを何と呼べばいいかわからないことが、ひどくさびしかった。
いつかーー…。
その感情に名前がつく日を、薄れていく景色の中で、最後に願った。
『その花が咲く日まで』
(愛を注いで)
愛を注いで
作者新田るな
俺の友達に病気の子がいる。その子の瞳はアレキサンドライトのような綺麗な色。そして一番のチャームポイントは高級感のある小さな微笑み。俺はその子が大好きだ。
だが、ある日の出来事で俺はその心を崩した。いつものように彼女のお見舞いに向かった。それで、病室に行って笑顔で花束を持って彼女に会おうとした。その時
「僕…雪菜と一緒にいて本当にいいのかな?」
と心配そうに可愛らしい男の声が聞こえた。
「歩。心配しないで。私たちは許嫁なんだから、絶対に結ばれる存在なの。歩と私はいい夫婦になれるよ。」
いつもの雪菜の声だ。
俺は固まった。俺の体から魂が抜けたような感覚。
そうだよな。雪菜はとても美人さんなんだ。雪菜のことが好きな奴だって他にもたくさんいる俺だけじゃない。でも…とっても悔しい。試合で最後にホームランが打たれた気分だ。それに許嫁…。腹が立つ。なんで雪菜は俺に許嫁なんだって言わなかったんだ!
「ねぇねぇ歩聞いて。毎日ね私だけのためにいっつも花束を持って私のことを心配してくれる人がいるの。私ね、嬉しいの。お母さんに愛を注がれているみたいで居心地がいいの。
だからね歩。私、歩と結婚したくないの。許嫁だけどそれって破棄できるのかな?破棄できたら破棄しといてくれないかな?あ、そしてお父さんにも伝えてくれる?」
優しいソプラノが病室全体に響き渡った。
「な、何言ってるの?雪菜!僕たち許嫁だよ。破棄なんてできるわけないじゃん!それに!さっき雪菜、絶対に結ばれる存在だって言ったじゃないか!」
怒っているとすぐにわかる隠れ怒り声。
「うん。確かに言ったね。でも、それも全部破棄。私が言ったことぜ〜んぶ破棄。破棄できなくても、私は逃げる。歩たちが追ってこれないスピードで絶対に逃げる。かっこいいでしょ」
少し狂ったかのような喋り方いつもの雪菜ではない。
「ねぇ、あなたそこにいるんでしょ。わかってるよ。出てきて私の元カレにご紹介するから。」
と俺は言われた。固まっていたはずの体はすぐに和らげ動いた
俺は、その歩っていう人の後ろに立った。
「あ、今日も花束持ってきてくれたの。ありがとう。いつも私に愛を注いでくれてありがとう。」
俺は嬉しくてたまらなくて涙目になってしまった。
「どういうことだよ!雪菜!たかがこんな奴に惚れてしまったのか!お前は目が腐っちまったのか!」
さっきの可愛らしい男とは一変の怖い男になっていた。
でも、雪菜は冷静にチャームポイントの高級感のある微笑みをしながら
「歩。ごめんね。いきなりここで手放すのもよくないけど、私は彼に惚れてしまったの。彼は歩とは違って愛という見えない大切なものをこんな私に毎日毎日注いでくれたの。」
嬉しい。この一言しか頭に上らない。
そして、男は悔しそうに頭を抱えながからトコトコと歩いて帰ってった。俺と雪菜は四年後に結婚をして、赤ちゃんが誕生した赤ちゃんも雪菜と同じで生まれつき病気をもっていたけど俺は毎日欠かさずに愛を注いだ。
私の創作料理のレシピを教えて欲しい?
うーん。いいですけど、これだけは忘れないで下さい。
隠し味には愛情を、たっぷりと注いでくださいね。
不味いものができたらそれは、あなたの愛情が足りなかったということで。私のレシピは何も悪くないんですからね!
(愛を注いで)
家に帰って先ずやることは金魚の餌やりだ。
この金魚は、息子が金魚すくいでもらってきた。
もちろん息子世話に飽きて、私がやっている
金魚たちは、自分が帰ってると、待ってましたと言わんばかりに催促してくる。
こちらにも準備というものがあるのだが、全くお構いなしだ。
そして充分な餌を食べれば、用がないと言わんばかりに知らんぷり。
薄情なものである。
次にやるのは水換えだ。
金魚はよく食べるのですぐに汚れる。
なので2週間くらいで一回水換えするのが普通だが、ウチの金魚はよく食べるので、すぐに汚れてしまう。
本当は餌を制限すべきなんだろうけど、金魚の催促に負けて沢山あげてしまう。
だから割と頻繁に水換えをしている。
汚れた水を吸い上げている間、金魚は特に反応しない。
まるで、息子の部屋の掃除している時の、息子の様子そのものである。
食べ物も掃除もやってもらって当然。
熱帯魚のことを自分の子供という人がいるが、言いえて妙だ。
水換えするたびに思うことがある。
金魚はこうやって世話をしてもらっていることを、感謝することがあるのだろうか?
なんか少しだけきれいになったな―、と思ってってるだけなのだろうか?
息子に置き換えて考えたら、それであっている気がしてきた。
たまには感謝の言葉くらい欲しいが、無いものねだりだりろうか。
何だかなあとも思いつつ、カルキ抜きした水を入れようとして、あることを思い出す。
今日は金魚のために糞を分解するバクテリアを買ってきたのだ
カルキ抜きした水に混ぜる。
効くかは分からないが、メーカーを信じよう。
そしてゆっくりと水槽に注ぐ。
愛情たっぷり(?)のバクテリアだ。
じっくり味わうといい。
そんな私の気遣いも全く気づかないように、金魚は悠々と泳いでいた。
そんな様子を見てると、なんだかどうでも良くなってくる。
まあ、元気であればそれでいいのだ。
そう言えば、今日は息子のためにジュースを買ってきたのだった。
愛情たっぷりのジュースなんだけど、やっぱり感謝の言葉は無いんだろうな
そのことに不満に思うんだろうけど、美味しそうに飲む姿を見たら許しちゃうんだろう
そんな事を思っている自分が妙にだけおかしい。
少し笑いながら、私はコップにジュースを注ぐのだった。
愛を注いで
最近仕事ばかりで、疲れが取れていない貴方。
今日は珍しく定時で上がれそう。
(やった!明日は休みだし、
帰ってゆっくり休める♪)
そんなことを思っていると.......。
「うわぁ〜!センパイ〜助けてくださいぃ〜」
と貴方を呼ぶ声が聞こえた。
誰だろうと分かっていながら振り返ると、半泣きの部下が貴方に重大な書類を、見せながら嘆いていた。
貴方は溜息をつきながら、部下に分からないところを聞き出そうと思い、返事をした。
「何処が分からないの?」と言うと部下は、
「いやぁ、お恥ずかしながら、全部ですwww」
と答えた。
貴方は唖然としていました。この部下はよくこの会社に入れたなと、内心違う意味で褒めてしまった。
しかも、この書類は次のプレゼンで使うとても重大な書類でした。貴方は部下にやらせたら間に合わないと思い、部下を帰らせて残業をしました。
やっと終わった頃は、もう0時を過ぎていました。
貴方は歩いて家に帰ろうとしていました。
歩いていたら、お洒落なBARを見つけました。
(こんな所にBARなんてあったけ?)と思いましたが、何となく入ってみることにしました。
カランカラン.......。
と音を立てながら扉を開け入ってみると、内装もお洒落でした。店の中には人はおらず、休業なのかなと思っていると、奥からマスターらしき人が出てきました。マスターは貴方を見ると、
「いらっしゃいませ。特別なお客様。」
と言われました。
(特別なお客様.......?)と思っていると、
「はい、貴方は特別なお客様です。どうぞおすわりください。」
とマスターに言われるがまま、カウンターに座りました。マスターはニコリと微笑むと、貴方に出来たてのカクテルを出してくれました。
「えっと...?まだ何も頼んでいませんよ?」
マスターは「いいえ、貴方は頼んでいなくても、こちらが理解していますので。」
と不思議な事を言いました。
「貴方は今、誰かに“愛を注いで”欲しいと思っていますね。」
「何故それを知ってるの?」と問いかけるとマスターは答えました。
「ここはお客様一人一人にあったカクテルをお出ししております。なので“特別なお客様”なんですよ。」と優しい笑みを浮かべながら答えた。
貴方はカクテルを一口飲んで見ました。
このカクテルは今まで飲んできた中で一番と言っていいほど、美味しいものでした。
貴方の中で何かが満たされたような気がしました。
小一時間ほどマスターと会話をした後、貴方は帰るために会計を済ませようとしました。ですがマスターは止めました。理由を聞くとマスターは言いました。「お会計は済んでおります。お客様から頂くのはお金ではございません。」貴方は払うのを辞めて、扉に手をかけました。帰る前にマスターに「また来ていいですか?」と聞くとマスターは答えました。「はい。また“特別なお客様”になられましたら。」と答えました。
後日貴方はあのBARのあった場所に行ってみましたが、そこは何もありませんでした。
【愛を注いで】
「でね、これが『愛』が入ったポット」
この淡い桃色の、ハートの装飾がキラキラと光るポットが『愛』。
忘れないように、必死に頭に刻みつける。
青色が『悲しみ』、赤色が『怒り』、黄色が『希望』…色々教えられすぎて全部覚えられたか不安になる。
先輩にもう一回教えてもらわないといけないかもしれない。
「『愛』はね、『悲しみ』よりもちょっと多めに注ぐの。そっとね、優しい気持ちで注ぐのがポイントよ」
「はい」
眼の前で『愛』を注ぐところを見せてもらう。
天使になって長い先輩は、手慣れた感じで地球に『愛』を注いで見せてくれた。
私に「優しい気持ちで」と言った通り、慈愛に満ちた優しい顔をしていて思わず見入ってしまう。
「すごい…」
私も早く仕事に慣れて先輩みたいな天使になりたいな、と心から思った。
新人天使の私には遠い未来なのかも知れないが。
「そうね、『愛』なら注ぎすぎちゃっても大丈夫だし、あなたもやってみる?」
「え、はい!」
どうぞ、と『愛』のポットを手渡される。
ポットは少し暖かくて、胸のあたりがふんわりと優しく包まれるような感覚がした。
先輩の真似をして、優しく注いでみる。
「わあ…」
ポットの中から出てきたふわふわとしたピンクの靄が、地球中に散っていく。
それを見て、胸が愛しい気持ちでいっぱいになった。
愛が届いた人に、幸せが訪れますように。
「…うん、とっても上手よ。直ぐに昇級できるんじゃないかしら」
「ありがとうございます!」
先輩に褒められて、思わずにっこりと笑顔になった。
この調子じゃあ私も抜かされそうね、と冗談を言う先輩に「まさか!」と本心を包み隠さず伝える。
「先輩みたいになれるようにお仕事がんばります!」
「ふふ、そう。頑張ってね」
笑い合う私達の横で、『愛』のポットからふよふよとピンクの靄が出てくる。
それは、知らぬ間に先輩と私の胸にすっと消えていった。
愛を注いで
たとえどんなに愛を注いでも、その愛があなたにとって必要なものなのかはわかんないんですね。
マグカップにインスタントコーヒーを入れて水を入れて牛乳を入れてチンする。温めすぎて膜が張ってしまいカップの淵がガビガビになっている。それを飲み干して、例えば私はそのカップを濯がずに水やお茶を入れだりできる。君はどう?と訊くと「ものによる」と返る。ものも何も、いま私はインスタントコーヒーでいれるカフェオレの話をしていたのだから、インスタントコーヒーでいれるカフェオレの話として答えて欲しかったのだが。「例えば私は君を飲み干してそのカップにまた君を注いだり君ではないものを注いだりして飲み干すことができる」そんな愚かな愛を私にささやく。
自分の心のコップに
愛を注ぐ
いっぱい
いっぱい
こぼれるまで
自分のコップが満たされたとき
まわりに愛を注ぐことができる
まずは自分に
愛を注いで
#愛を注いで
#59
お腹の中のあなたと早く会いたいと
毎日薄いベールの上から
一つ一つを確かめるように
ありったけの愛情を手のひらに込めて
撫でた時が
私が思いつく、愛を注いだ時
そしてそれは私が一番、
母親としての幸せを注いでもらった時
長い間、私の子ではないと知りつつ、娘に愛を注いできた。
娘がいなくなったとき、私の心は穏やかなままだった。何の感情も湧かなかった。
ただ、動転して狂ったように泣く妻の様子を見て、滑稽だと思った。
(愛を注いで)
今あなたを照すその灯りを彩る花々は、丹念に育てた
色も香りも厳選を重ねた
そして今蝋になってあなたを飾る
お題:愛を注ぐ
わたしの推しは愛の神だ。
ほんとに、まじで、まごうことなき愛の神。
某ゲームに出てくる、インド神話の愛の神様。本当は男性神だけどゲームだから女神。
彼女は、どんなに汚れた過去を持っていても、罪を犯していたとしても、見た目がどんなに醜くても、どんな人でも愛してくれる。それが仕事だから。
それと同時に彼女は、自分に愛を注げない。愛せない。
そして、注がれている愛に気付けない。
彼女の気持ちが、痛いほどわかる。
自分を愛せないから、他者を愛そうと思う。でも、何度か裏切られて、そして、「わたしはきっと人から愛してもらえないんだ」と思い初めて、愛してもらえない自分に価値はないと、それまで微々たるものではあるが注いでいた自尊心やらプライドやら、なんやらをすべて捨て去ってしまう。
念頭に自分は愛されるはずがないという思いがあるから、他者から向けられる好意に気付けなくなる。さらには、気付こうとしなくなる。
振り返って、彼女は、彼は、きっとわたしを愛していたんだろうなと気付く。されている最中は気付かなくても後から気付いてそうして、失ってしまった愛に途方に暮れる。
愛してほしいという気持ちだけが募っていく。
悪循環。自己嫌悪と欲望が巡り続ける。
朝にみそ汁を注いでくれたら
それを愛と呼んでいいんじゃない
あさり辺りを入れてくれてたらもう
そんなの愛どころじゃないね
え、あおさもいれてくれるの
じゃあもう愛とか言ってる場合じゃないね
王城の廊下を歩いていたメユールは、石畳の隙間に躓いて前のめりに倒れ込んだ。咄嗟に手をついたので、顔面から地面に突っ込むことは免れたが、掌を擦り剥いてしまった。大した傷ではないが、広範囲に擦り剥いたので、洗い物などをする際に沁みるだろう。ぼんやりと掌を見つめながら、彼女は大きな溜息をついた。
最近、気持ちがふわふわと浮き足立っている。地に足をつけなくてはと思ってはいるのに、なかなか浮遊感は収まらない。そのせいで、あちらにぶつかり、こちらに躓きと、ここのところ生傷が絶えない。
(……原因は、わかっているのだけれど)
ひと月前、彼女は彼にプロポーズされた。とても嬉しかったが、彼と自分では身分が違いすぎる。そう思って丁重にお断りしようと言葉を重ねたが、のらりくらりと躱されて、終いには押し切られそうになった。
口の巧さでは彼に敵わない。今、国内外共に混乱していることを理由に、時勢が落ち着いて平和になるまで返答を待ってほしいと、苦し紛れにメユールは懇願した。彼はそれを快諾した。それで落ち着くはずだったのだが、それから彼は目に見えて、メユールに構い始めたのだ。嬉しいけど恥ずかしくて身悶えしてしまう。彼の侍女であるメユールに、それから逃れる術はなかった。
遠くから、足音が聞こえた。彼女は急いで立ち上がった。埃などを掃って、身だしなみを整えると、先ほどのことなどなかったかのような顔をして、彼女は歩き出した。
明朗な足音はあっという間に迫ってきて、
「メユール!」
肩を叩かれる。彼女は驚いて、肩が跳ねそうになったのを堪えながら、ぎこちなく振り向いた。
「……ジルベール様。どうかなさいましたか?」
「いや、特に差し迫った用事があるわけではない」彼は快活に笑った。「お前を見かけたから、声をかけただけだ」
そうですか、と彼女は強張った笑みを浮かべた。
「お前に訊きたいことがあるのだが……」
「何でしょう」
彼は彼女の腕を掴むと立ち止まった。メユールも仕方なく立ち止まる。
「最近、傷が増えていないか?」
「ここのところ、その……上の空になってしまっていて」
しどろもどろになる彼女を見て、彼は眉を八の字にした。
「俺のせいか?」
「そ、それは違います!」間髪容れずに否定してから、メユールは俯いた。どんどんと顔に熱が集まってくるのがわかる。「嬉しいです、とても。でも……は、恥ずかしくて……」
彼は軽い笑い声を上げた。
「俺はお前を愛している。それは変わらない。仕方ないと、慣れてもらうしかないな!」
そう言うと、林檎のように顔を赤くした彼女を、彼は愛おしげに見つめるのだった。
欲しい。愛が欲しい。
君に優しくなんてできないけど、君に優しくされたい。
純然たる愛、油よりもどろどろのやつ。
甘やかして、ただ甘やかしてよ。
そうして白い息も灰色の町も、全部全部染め上げて。
嫌、やっぱり。やっぱりさ。
全て放って連れ出して、引き返せない位に。
痕が残るほどの力でこの手を引いて。
できたらそのまま私の首を絞めて。
お願いだよ君。どうか私に、愛を注いで。
【愛を注いで】
愛を注いで
朝から、何をするでもなくただボーッと虚空を見つめる。
起きたからにはベッドから出なきゃだとか、支度してご飯食べて、今日は事務所に行かなきゃならないなだとか、そんなことをグルグルと考える。
今日も生きている感じがして、自然と口からため息が漏れる。