2年前に夫が亡くなって、3人家族だった私達は、娘と私の2人きりの家族になった。
はじめは私も娘も泣いてばかりだった。心の中で、夫の存在が大きすぎて、喪ってできた大きな穴を埋められずに、ただ泣いていた。だけど、しばらくしたら、この穴を無理に埋める必要はないのだと私は気づいた。ぽっかり空いた穴も抱えて、進んでもいいのだと思った。だけど、まだ7歳だった娘は、なかなかそれを受け入れられなかったようで、穴を抱えたまま日常に戻ろうとする私に、激しく反発した。何度も泣き叫んで、抵抗していた。私には娘の心を無理に変える力も権利もないから、ただ受け止めて、抱きしめて、背中を撫でることしかできなかった。
やがて娘は夫の死を受け入れて、その傷を抱えて立ち上がることができるようになった。
そこからが、本当の戦いだった。私の手1つで娘を育て、ひとり立ちさせなければいけない。なるべく娘と過ごせるように、がむしゃらに働いて定時で帰って、晩ご飯を作って、一緒に食べて、その日学校で起こったことを聞いて。お風呂を沸かして、次の日のお弁当を用意して。翌朝は朝ご飯を用意して、先に出かけた。娘のためにできることは何でもやった。周りには、全部抱え過ぎだと言われた。そんなに頑張らなくてもいい、他を頼れと言われた。でも、私は妥協したくなかった。娘に寂しい思いはさせたくなかったし、娘のことで少しでも手を抜いて、娘自身にそれを気づかれたらと思うと怖かった。私は娘に愛を注ぐ方法は、これしか思いつかなかった。
娘が中学生になった頃に「晩ご飯作るの、当番制にしない?私もやりたい」と言ってきたときは、すごく驚いた。試しに作ってもらったら、意外としっかりした手つきで普通に美味しいご飯を作ってくれて、それにも驚いた。
私が「すごいね」と言ったら、娘は「いつもお母さんが作るの見てたから。お母さんのおかげだよ」と言った。私はすこし泣きそうになった。私の背中を見てくれていたことが嬉しかった。
晩ご飯の分担をきっかけに、娘は家事の中で自分の力でできそうなものは「やりたい」と言ってくれるようになった。そのうち全て「やりたい」と言いかねない様子だったので、話し合って、きちんと分担することになった。任せた家事はどれも普通以上にできていて、娘の成長を感じた。
時は経ち、娘はもうすぐ社会人になる。就職祝いに何が欲しいか訊けば、「お母さんの時間、1日ちょうだい」と言われて、休日に1日一緒に過ごすことになった。
約束の日、娘はレンタカーを借りてきて、私をドライブに連れ出した。大学に入ったころに免許を取っていたのは知っていたが、思っていたより安定感のある運転だった。運転する横顔はすっかり大人になっているように見えた。
そうして連れて行ってくれたのは、私が密かに行きたかったカフェだった。テレビを見ながら私が呟いた言葉を覚えていたらしい。他にも、最近できて気になっていたショッピングモールにも連れて行ってくれた。
「何だか私ばっかりいい思いしてる気がするけど。あなたの就職祝いのはずだったのに」
私が言うと、娘は微笑んで、こう答えた。
「お母さんいつも、私が欲しいとかやりたいとか言ったこと、全部覚えてて、できる限り叶えてくれたじゃない。そういうの、嬉しかったから、お母さんにも返したいなって思ってたの。ちょっとした親孝行、やってみたかったんだよ。それが今叶ってるから、充分就職祝いになってるのよ」
今まで、娘に精いっぱいの愛を注いできた。返ってくるものになど期待しない、私がただ注ぐだけでいいと思ってやってきた。
でも、娘は私の注いだ愛をちゃんと受け止めてくれていて、同じように私に愛を注いで返してくれている。
その循環に、胸が熱くなった。愛を注がせてくれて、愛を返してくれる娘の存在は、奇跡的だと思った。
「ありがとう、大好きよ」
自然と言葉が溢れていた。
12/14/2024, 10:07:23 AM