【遠い足音】
学び舎の廊下を並んで歩いた。
俺達はあまりはしゃぐタイプではなかったから、ふたりの間にはいつも心地よい沈黙があって、足音だけが響いていた。その時間がとても愛おしかった。
あれから10年。俺達は今、別の道を歩んでいる。
もう2人分の足音が響くことはない。
だけど、あの頃の遠い足音を今も、俺は覚えている。あの頃の愛おしい気持ちを、確かに思い出せる。
それだけで、ひとりでだって歩いていけると、そう思えた。
【cloudy】
みんなの声が聞こえる。靄がかかったような意識の中、私を呼ぶ声が、聞こえる。
私はどうやら仰向けで寝ているらしい。
重たい瞼を必死に押し上げて、目を開く。
ボヤケた視界いっぱいにぐるりと囲むようにみんなの顔が並んでいて、その隙間から灰色の空が見えた。
「勇者様!」
「勇者!」
「勇者ちゃん!」
「勇者さま〜〜!」
みんなが私を呼ぶ。どうしてこんな状況になったんだっけ。頭の靄を払うように記憶を探る。ああ、そうだ。私たち、魔王と戦ってて。最後の一撃を入れようと、渾身の力で、もう身体が砕けたっていいって思いながら剣を振るったのは覚えてる。私は、生きてる。じゃあ、魔王は!?
慌てて起き上がると、目眩がした。頭を抱えながら辺りを見回す。魔王の姿は、どこにもない。
「ま、おう、は」
渇いた喉から声をしぼり出すと、仲間の1人が「勝ったんだよ!俺たちの勝ちだ!」と叫んだ。また、他の仲間が「勇者さまの剣で浄化されて消えちゃったんですよ〜〜!」と答えた。
勝った。勝ったのか。
あり得ないくらい強かった、あの男に。
私は実感が湧かなかった。だって、倒した記憶は私にはない。私の剣が最後、どんなふうに奴を斬り裂いたのか、その感触を、私は覚えていなかった。
でも、奴は消えたのだという。何の跡形もなく。何も残さず。さっきまで互いの信念をぶつけ合っていたはずのあの男は、もう、どこにもいない。
仲間たちは、魔王に勝利したことと、誰も欠けることなく生き残ったことに、喜びの声をあげている。みんな私の背中を叩き、英雄になったのだと笑う。
灰色の空の下、私だけが、勝利に酔えない。
ただ、身体が重い。こんな勝ち方だなんて、思わなかった。長い旅の終わりが、こんなふうだなんて、想像してなかった。
数日後、青空の下、王都で凱旋パレードが行われた。
民たちは皆、私たちを讃え、笑っていた。
それに応えるように貼り付けた笑顔を浮かべながらも、私の心はまだあの灰色の空に囚われていた。
私だけが、あの日消えた男に、思いを馳せていた。
【既読がつかないメッセージ】
「今日は暑かったね。熱中症になりそうだったよ。」
「今日は雨が降ったら急に涼しくなったね。風邪を引かないよう気をつけなきゃ。」
「今日は道端で偶然田中さんに会ったよ。覚えてる?PTAで一緒だったあの田中さんだよ。髪型変わっちゃってて最初全然気づかなかったの!」
並ぶ、既読がつかないメッセージ。
あの日を最後に、あなたからは永遠に既読がつかなくなってしまった。
私はそれを信じたくなくて、いつかあなたからメッセージが返ってくるんじゃないかって思えてならなくて、日記のようなメッセージを送り続けてる。
この世界のどこにももうあなたがいないなんて、嘘でしょう?
ねえ、応えてよ。既読つけるだけだっていいからさ。
ポタポタとスマホの画面に水滴が落ちる。私は慌ててそれを拭ったけれど、次から次へと落ちてきて、止まらなかった。
私は諦めて天を仰ぎ、あなたの名前を呼びながら泣いた。
やっぱり返事はなかった。ただ、それが痛かった。
【秋色】
夕方になって、すーっと涼しい風が吹いてきた。
まだまだ日中は暑いけれど、こうして夜に向けて涼しくなるのを感じると、秋が来たんだなって実感する。
空は茜色に燃えていて、アキアカネも飛んでいる。
いつの間にか秋色。季節の色は、確実に変わってきていた。
【空白】
私には、空白の1年がある。それは本当に文字通りの空白で、その1年間の記憶が全くないのである。
きっかけは交通事故に遭ったことだったらしい。6月のことだった。私は事故に遭う前のちょうど1年分の記憶を無くしていた。高校3年生の一学期の半ばから、大学に入ってしばらくの記憶が空白になってしまったのだ。
怪我もそれなりに酷かったが、それは入院して治療しリハビリすれば徐々に良くなっていった。しかし、記憶の方はどうもうまく回復せず、空白のままだった。
怪我が治って退院しても、記憶は戻らず。事故から半年、私は大学を休んだ。
なにせ、私にしてみれば、知らない間に受験して知らない間に合格して知らない間に入学していた大学である。
空白の記憶の為に困ったのは、大学のことだけではなかった。もう一つ、重大な困りごとがあった。それは、恋人のことである。
どうやら、高3の時に付き合い始めて同じ大学の同じ学部に進学したらしいのだが、私は彼をどうして好きになったのかわからなかった。クラスではかなり目立たない方の人で、私とは接点なんてなかったはずなのである。それも、両親には交際のことを話していなかったらしく、お見舞いに来た彼に、両親はひどく驚いていた。ただ、彼は真面目な好青年だったため、両親はすぐに彼に絆されていた。私も、彼の良いところは分かったけれども、なぜ付き合ったのかは全く思い出せなかった。
空白を思い出せず、苦しむ私に、彼はいつも、
「無理に思い出す必要はないよ。記憶がなくたって、僕は君のそばにいるから」
と言ってくれた。
それから5年。空白を抱えたまま私は社会人になった。彼との付き合いもまだ続いている。
そんなある日、彼とデートしていた時に、高3の時のクラスメイトと偶然再会した。
彼女は、まず、彼の変わりように「えー!垢抜けたね!」と驚いていた。
そして、私が彼と付き合っていることを告げると、それ以上に驚いていた。
「え、ふたりって接点あったの?付き合ってるなんて信じられない!」
彼はその言葉に、「僕ら、秘密主義だったからね」なんておどけて返していた。
高3の思い出話は、主に彼が相手をして、私は適当に頷くことで乗り切った。
元同級生の彼女と別れて彼とふたりで歩きながら、私は思った。ずっと彼との大切な思い出を忘れているなんて寂しいな、と。
彼にもその気持ちを口に出して伝えてみたが、彼は相変わらず「無理に思い出さなくていいんだよ」と言った。
「その頃の思い出がなくたって、今僕らはそばにいて楽しい。それでいいじゃないか。僕はこうして大好きな君と一緒にいられる今が幸せだよ」
「だから、思い出さなくていいんだ。そのままの君が好きだよ。ずっと一緒にいようね」
そのときの彼の笑顔は、何故か少しこわかった。言葉以上の感情が彼の目に渦巻いている気がしたのだ。でも、次の瞬間、何も返せなかった私を心配して覗き込んでくる彼の顔はいつも通りだったから、私は安心して、頷いた。
欠けた私を許容してくれる彼は、唯一無二の存在だ。だから私はきっとこれからも、空白を抱えながら彼と歩むのだろう。その空白に、いったい何があったとしても、知らぬまま。彼が許すまま、進むのだろう。