私はあの日、君とのお別れが寂しすぎて離れがたくてつらくて泣いていた。たぶん君も泣いていたと思うけれど、私は君の泣き顔を見るのが嫌で、君の顔は見なかった。だから、最後に君がどんな顔をしていたのか覚えていない。
どんな顔で泣いてたのか。その涙はどんな色を映していたのか。私には分からずじまい。思い出すのは別れが決まる前の笑顔。純粋な君のことだから、涙はきっと恐ろしいほどに透明で美しかったんだろう。やっぱり見なくてよかった。そんな透明な涙を目にしてしまったら、私はもう何もかも捨てて君のそばにいたくなっただろうから。
週末に山登りに行こうとあなたと約束したその日に、私は交通事故に遭って脚を骨折した。なんてタイミング。ツイてなさすぎ。あなたは、私が無事であったことをすごく喜んでくれて、それは嬉しかったけど、約束を守れなくなったことに私はすごく申し訳なくて、めちゃくちゃに落ち込んだ。
私が「ごめんね」と謝ると、あなたは「気にしないでいいんだよ。今は無理でも、頑張って治せば一緒に行けるじゃないか」と言ってくれた。
そこで、私は決意した。リハビリ頑張って、早く歩けるようになって、あなたと登山に行くんだ、って。
リハビリの始めはつらかった。うまくいかないことばかりで、痛いこともあった。本当にここからまたうまいこと歩けるようになるのか?って焦る気持ちばっかりで、それを何とかかんとか落ち着けながら、地道に頑張った。
あなたはリハビリに付き合ってくれようとしたけれど、悔しさや痛みに顔を歪める姿なんて見られたくなかったし、自力で立って歩けるようになるまでは会いたくなかったから、断った。
それから時は経ち、やっと、杖もなく脚を引きずらずにまっすぐ立って歩けるようになった。
私は、2人でよく散歩していた公園にあなたを呼んだ。私は、ベンチに座ってあなたを待った。
「久しぶり!」と明るく手を振りながらあなたがやってきた。私は数メートル先のあなたへ手のひらを向けて待ったをかけ、その場で立ち止まってもらう。あなたは少し怪訝な表情で立ち止まった。しかし、その表情は、私がベンチからすっくと立ち上がった姿を見て、驚きの表情に変わる。
私は、あなたを見つめて、あなたのもとへ、一歩一歩きちんと踏みしめ、確かな足取りで向かっていく。こうして歩く姿をあなたに見せるのは久しぶりだから、すごく緊張した。
あなたは、両の拳を握りしめて、固唾を呑んで見守ってくれているようだった。
数メートルの道のりを終え、あなたの目の前に立つ。あなたは少し涙ぐんでいた。
「リハビリ、頑張ったんだね。感動しちゃった」
あなたが言う。その表情は泣き笑いだ。まったく、大げさなんだから。
「うん、頑張った。まだ山登りは無理だけど、もっとトレーニングしたらできるようになるよ。その時は一緒に行ってね」
私はそう言いながら、一歩前へ出て、あなたの首に抱きついた。
あなたは優しく抱きとめて、労うように背中を撫でてくれた。
「ぅえっ!?テントウムシ!?」
俺がダイニングテーブルでまったりコーヒーを飲んでいると、隣の和室でお昼寝をしていたはずの姉の小さな叫びが聞こえてきた。俺は一旦マグカップを机において、和室の襖を開けた。
「どした?」
「テントウムシ!テントウムシいんの!」
姉は中途半端に身を起こして、何かを必死に指差している。
窓から差した日でできた日溜まりの中心に、小さな点が見える。
俺は一応抜き足差し足で近づいてみた。しゃがんでよく見てみると、確かにそれは赤い地に黒い斑点のある羽の、テントウムシだった。
「どこから来たんだろね」
俺が素朴な疑問を口にすると、姉は肩をすくめて、
「わからん。でも、目覚めた人間の顔の真ん前にいるのはやめてほしかった……」
とこぼした。なるほど、目覚めたら眼前にテントウムシがいたのでは、叫び声も上げたくなるか。
「姉ちゃん、虫苦手だっけ?捕まえて逃してやればいいじゃん」
「昔は平気だったけど、大人になってダメになったんだよ〜〜〜。ユキくん、どうにかして〜〜〜」
姉は中途半端な体勢のまま、俺の足に縋り付いてきた。その場を動くのすら怖いらしい。
俺は和室の中を見回した。昼寝のために脇に追いやられたであろう机の上、ティッシュペーパーの箱があった。俺は姉の手から離れて、ティッシュペーパーを1枚取りに行った。そして、テントウムシに近づいて、先ほどからちょこちょこと動き回っていたテントウムシの進む方向に、ティッシュを差し出してみる。うまく乗ってくれるか、固唾をのんで見守っていると、テントウムシは思惑通り、ティッシュの上に乗ってくれた。テントウムシがティッシュの中ほどまで進んだところで、ティッシュをそっと持ち上げた。
そのまま、すぐそこの窓まで運んでいく。テントウムシが落ちたり飛んでいったりしないように祈りながら、慎重にそっとそーっと運んでいった。
俺の行動を先読みしていたらしい姉が、変な体勢からいつの間にか起き上がって、窓を開けようとスタンバっている。
ちょうどいい位置まで来たとき、俺は姉に目で合図した。姉は、窓を少し開けた。俺は、素早くティッシュを持った手を外に突き出し、ティッシュの裏からテントウムシをデコピンした。テントウムシはびっくりしたように飛び立って、近くの草の方へと飛んでいった。
俺は腕を部屋の中に戻し、姉は窓を再度閉めた。
「さんきゅ、よくやった、弟よ」
そう言いながら姉が手のひらをこちらに向けて腕を掲げた。俺はその手のひらに自分の手のひらを合わせて、パンッと音を立てて、ハイタッチした。
「どういたしまして」
たったこれだけのことなのに、ひと任務やりきったような、妙な達成感があった。
私の父は、研究者だ。医学の分野を研究しているらしいんだけど、詳しくは知らない。最近は何やら長く続けてきた研究が佳境に入ったとかで、職場の研究所にずっと行っていて、たまに家に帰ってきたと思ったら、すぐに自分の書斎にこもる生活をしている。文字通り寝る間を惜しんで働いているみたいで、娘としては体調を崩さないか心配なのだけど、父は気にせず楽しげに働いている。絶対身体がつらいだろうに、楽しそうに精力的に働く姿は純粋にすごいと思う。
一度、父に、今している研究について訊いてみたことがある。「そんなに頑張ってやるようなものなのか」と。そうしたら、父は言った。「この研究がうまく行けば、世界が変わるんだ。今よりも多くの人が苦しまずに済むようにできるんだ。そう考えたら、頑張れちゃうんだよ」と。そう言った父の目は、少年のようにキラキラしていて、未来の姿が見えているような目だった。きっと、父には、研究の先の誰もまだ見ぬ景色が見えているんだと思った。
父を見ていたら、私も、その景色が見たくなった。
だから、精いっぱいの思いを込めて「頑張ってね」って私は伝えた。私には、父の研究を手伝うことはできない。だから、こうして声をかけることくらいしかできない。この声が少しでも父の力になっていたらいいなと思った。
父は「もちろんだ!」って力強く頷いて、また仕事へ戻っていった。その背中に、早く父の見ている景色が現実のものになりますように、と強く祈った。
子どもの頃、つらいとき、必ず見る夢があった。夢の中には優しい王さまがいて、ぬいぐるみの仲間たちと、ふわふわの優しいパステルな世界で、一緒におしゃべりをしたり、あまいお菓子を作ったり、お城の中を探検したりして過ごした。
僕は繰り返し何度もその夢を見た。夢の世界は続いていて、夢の中の王さまも仲間たちも、前に会ったときのことを覚えていた。
つらい現実も、夢の中で彼らと過ごせば忘れられた。僕はいつしか、つらいときは眠って夢の世界に逃げるようになった。あの頃、眠りは僕の救いだった。
大人になって、あの夢は見なくなった。それでもあの夢の世界は、あの頃僕を生かしてくれたものなのには変わりないし、今でも僕の一部として生きていると思う。
だから、僕は今、絵本を描いている。あの夢のつづきを紡いで、この世に産み出している。あの頃の僕のようなつらい現実を生きる誰かに、優しい夢を届けたくて。