触れられない…
彼女が言った。
「少しだけでも……いい人でいたかったの。」
その言葉が、胸の奥でいつまでも響いていた。
本当は彼女が弱いんじゃない。
弱かったのは、ずっと俺の方だった。
会いたいと言われれば無理して会いに行った。
寂しいと言われれば、抱きしめずにはいられなかった。
家庭があるくせに、彼女の温度に依存していた。
彼女が“いい人で終わろう”とした理由なんて、
本当は最初からわかっていた。
俺のためじゃない。
誰も傷つけたくなかった彼女自身のためだ。
本気で好きになってしまったのは、
他でもない俺だった。
でもそれを認めた瞬間に、何も守れなくなる。
だから最後の夜、
彼女が泣きそうな笑顔で背を向けた時、
追いかける足が一歩も動かなかった。
守りたいものが二つある男は、
結局どちらも救えない。
駅前の風が冷たかった。
彼女の影が完全に見えなくなったあと、
誰にも聞こえない声で呟いた。
「……あぁ、君を選べたらよかった。」
その一言だけが、
俺の中でずっと触れられないまま残っている。
灯るたび、消えていく
彼の横顔を見つめながら、私はそっと言葉を落とした。
「いつも私の言葉を優先してくれてきたから……
少しだけでも『いい人』でいたかったの。」
言い終えた瞬間、喉の奥がきゅっと締まった。
彼の表情を読むのが、あまりにも怖かった。
私が「会いたい」と言えば、予定を調整してくれた。
夜遅くまで仕事をしているはずの日も、
「今夜は大丈夫だよ」と無理をして時間をつくった。
その優しさに、私はいつの間にか寄りかかっていた。
けれど、寄りかかれば寄りかかるほど、
彼の背後にある“帰る場所”が、どんどん大きく迫ってきた。
その場所には、私は決して入れない。
「……ごめん。」
彼はそう言ったけれど、
その声は“私”ではなく、“自分自身”に向けた謝罪のように聞こえた。
胸が痛かった。
私が泣きたいのに、彼の方が苦しそうに見えるから。
「あなたが悪いわけじゃないよ。」
そう言うと、彼は少しだけ笑った。
その笑顔が、胸に刺さった。
だって、私は本当はもっと責めてほしかった。
怒ってほしかった。
“離れたくない”って、言ってほしかった。
でも、そんなわがままを言った瞬間に、
私は“いい人”でいられなくなる。
彼の幸せを奪うような女になりたくなかった。
その理性だけで、なんとか自分を保っていた。
私たちが歩く帰り道には、いつもより風が強かった。
指先が触れそうなほど近くを歩いているのに、
もう絶対に触れられない距離だった。
改札の前で立ち止まると、
彼の肩が小さく震えるのが見えた。
「……もし、違う時代に出会ってたら、
君を最初に選んでたかもしれない。」
その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
嘘でも残酷で、
本当ならもっと残酷だった。
「そんな“もし”はいらないよ。」
微笑んだつもりだった。
でもきっと、泣きそうな笑顔になっていたと思う。
彼が私に向けた優しさは、本物だった。
でもその優しさは、彼の孤独の裏返しでもあった。
それを知った今、
手放さなきゃいけないのは私の方だった。
彼が背を向けた瞬間、
私はその背中を目で追うことしかできなかった。
遠ざかるたびに、胸の奥の灯りがひとつずつ消えていく。
けれど、それでも憎めなかった。
——叶わぬ恋は、いつだって静かに終わる。
そして、静かに終わる恋ほど、長く心に残る。
彼の姿が消えた夜風の中で、
私はひとり、小さく息を吐いた。
「少しだけでも……あなたの“いい人”でいられたなら。」
その願いだけが、まだ私を温めていた。
淡い灯が消えるまで…
「いつも私の言葉を優先してくれてきたから……
少しだけでも『いい人』でいたかったの。」
そう呟くと、彼はわずかに目を伏せた。
テーブルの上の水滴が、ぽたりと落ちたような沈黙が流れた。
会うたびに、私は彼に甘えていた。
既婚者の彼に、甘えてはいけないと何度も思ったのに。
彼は、私が「会いたい」と言えば無理をして時間を作り、
「寂しい」と言えば、すぐに駆けつけてくれる人だった。
優しすぎる人だった。
「……ごめん。」
彼はそう言ったが、その言葉には“謝罪”よりも“諦め”の色の方が濃かった。
今日は、ふたりで過ごす最後の夜だった。
理由なんて、もう何度も話し合って、何度も言い訳して、
それでも行き着くところはただ一つ。
彼には帰る場所がある。
私には、彼を迎え入れるための未来がない。
「あなたが悪いわけじゃないよ」
そう言うと、彼は苦く笑った。
「悪いよ。ずっと……君を使って、自分の孤独をごまかしてた。」
思わず顔を上げると、
彼はグラスを握る指に力を込めすぎて、白くなっていた。
普段は見せない、壊れ物のような表情。
「君に“会いたい”って言われると……断れなかった。
家では誰にも必要とされてない気がして。
だから……君に必要とされることで、やっと立っていられた。」
その告白は、嬉しいのに、苦しくて、胸の奥にじんと広がった。
私だけじゃない。
彼もまた、叶わぬ恋に溺れるひとりだったのだ。
「ずるいよね、私たちって。」
笑おうとしたが、声は震えた。
「うん……ずるい。」
彼の声も、どこか少年のようにかすれていた。
店を出ると、夜風が肌を撫でた。
街灯の光がゆらいで見えたのは、風のせいか、涙のせいか分からない。
駅までの道を並んで歩いたが、触れられる距離にいるのに、
もう指先ひとつ触れてはいけないことを、ふたりとも分かっていた。
改札の前で立ち止まると、彼が小さく息を吐いた。
「……もし、違う時代に出会ってたら、
君を最初に選んでたかもしれない。」
嘘でも嬉しかった。
でも本当なら、もっと残酷だった。
「そんな“もし”はいらないよ。」
私は微笑んだ。
せめて最後は、“いい人”でいたかったから。
彼は何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わず、
そのまま背を向けて歩き出した。
その後ろ姿を追う目が、知らないうちに潤んでいた。
——叶わぬ恋は、いつだって静かに終わる。
そして夜の風だけが、まだ少し温かい余韻を連れて、
私の頬をそっと撫でていった。
あの夜のことを、私はまだ鮮明に覚えている。
人混みを避けてたどり着いた裏通りの片隅で
あなたは黙ってうつむいていた。
言葉をかけるよりも先に頬を濡らす涙の線が
私の心を突き刺した。
私は迷わず、その肩を抱きしめた。
震える背中が、あまりにも頼りなく、守らなければ壊れてしまいそうで。あなたの痛みを少しでも引き受けたいと、必死だった。
けれど今、隣に立っているのは私じゃない。
あの日、あなたを支えたのは私だったのに、微笑むあなたの視線はもう別の誰かに注がれている。
「泣いてた貴方を抱きしめたのは私なのに――」
心の奥で、何度も繰り返す。
それでも声にはできない。あなたが幸せそうに笑っているから。
私はただ、その笑顔を遠くから見つめる役に変わってしまった。
・続き
「愛してる」――そう口にしたとき、彼女は一瞬だけ目を伏せた。
その仕草の意味を、俺は知っていた。
軽い気持ちで言ったわけじゃない。
けれど、本気で伝える勇気もなかった。
彼女は静かに笑って言った。
「……私たちには似合わない言葉だね」
胸の奥に、鋭い棘が刺さったようだった。
わかっていた。最初から。
俺たちはただ、互いの隙間を埋めていただけだってことも。
けれど、ほんの少しだけ――それ以上を願ってしまった。
冷めたコーヒーを見下ろしながら、言葉を飲み込む。
彼女の横顔は、どこまでも穏やかで、そして遠かった。
――もう、都合よく連絡なんてできないだろう。
わかっていても、携帯を開けば、つい彼女の名前に指が伸びる。
押せないまま画面を閉じる、その繰り返しが続いた。
「愛してる」が似合わない二人。
それでも心のどこかで、まだその言葉を彼女に投げかけたい自分がいる。
言えなかった言葉は、夜の静けさに溶けていった。