川沿いの小さな道に、彼女は毎年同じ花を植えた。
勿忘草。青くて、目立たなくて、名前だけが少し切実な花。
理由を聞かれると、彼女は曖昧に笑った。
「好きだから」
それ以上は、誰にも話さなかった。
昔、約束を交わした人がいた。
大げさな未来の話も、永遠の言葉もなかった。ただ、春になったらこの道を一緒に歩こう、それだけだった。
けれど彼は来なかった。連絡も、言い訳も、何も残さずに。
最初の年、彼女は待った。
二年目は、待つことをやめた。
三年目、彼の顔を思い出そうとして、思い出せないことに気づいた。
それでも春になると、彼女は種をまいた。
忘れられていく記憶の代わりに、忘れないという意志を土に埋めるように。
ある日、足を止めた見知らぬ誰かが言った。
「可愛い花ですね。名前は?」
彼女は少し考えてから答えた。
「勿忘草です。……私を忘れないで、って意味」
その人は頷き、歩き去った。
彼女はもう、誰に向けて言った言葉なのか分からなかった。
それでいい、と彼女は思った。
誰かの記憶に残らなくても、
この花が今年も咲いたことだけは、
彼女自身が覚えていれば。
川面に映る青が、静かに揺れていた。
忘れられても、消えないものがあると、
花は何も言わずに、そこに咲いていた。
愛してたなんて
過去形にして笑えるほど
まだ私は強くない
胸の奥で
今も名前がほどけなくて
思い出に触れるたび
少しだけ息が詰まる
それでも
弱いまま立ち止まる夜を越えて
いつか本当に
「愛してた」って言える朝が来ることを
私は知ってる
今はただ
強がれない自分を
抱きしめる時間なんだと思う
彼と過ごしたこの部屋は、思っていたよりも静かだった。
笑い声も、言い争った夜も、今は壁の奥にしまわれたまま、ただ朝の光だけが床に伸びている。
本当は、別れたくなかった。
彼が大好きで、この場所にいれば、まだ一緒にいられる気がしていた。
それでも時間は、優しくも残酷に、私だけを前へ進ませようとする。
段ボールはもう閉じた。
カーテンを揺らした風が、最後のため息みたいに頬を撫でる。
涙は止まらなかった。
泣かない強さなんて、今の私にはなかった。
それでも、鏡に映る自分は、思ったより崩れていない。
泣いているのに、ちゃんと立っている。
失ったものを抱えたまま、それでも前を向こうとしている。
玄関で一度だけ振り返り、私は小さく息を吸った。
この部屋に残すのは、過去の私。
これからの私は、涙を知って、少しだけ強くなった私だ。
鍵をかける音が、静かに響く。
私は泣きながら、でも確かに前を向いて、歩き出した。
改札の前で、彼女は立ち止まった。
行き先が違うことを、もう何度も確かめたはずなのに。
「好き同士なのになぜ別れが来ることがあるの」
彼女の声は小さくて、責めるより先に、諦めに似ていた。
俺はすぐに答えられなかった。
答えは知っていたけれど、口にした瞬間に本当になってしまう気がしたから。
好きだった。
今もそうだと思う。
連絡が来ない夜に不安になるし、彼女の笑い方を思い出すだけで胸が緩む。
でも、俺の毎日は彼女を置き去りにして走っていた。
仕事、責任、選んだはずの人生。
彼女を守る余裕がないことに、気づかないふりをしてきた。
「嫌いになったわけじゃない」
それしか言えなかった自分が、情けなかった。
好きだと言えば引き止めてしまう。
でも一緒に未来を描けないまま繋ぎとめるのは、もっと残酷だと思った。
電車の音が近づく。
彼女の目が少し潤んだのを見て、俺は視線を逸らした。
本当は、
好き同士だからこそ、別れが来ることがある。
その言葉を、俺は最後まで言えなかった。
ドアが閉まり、彼女が遠ざかる。
胸の奥が静かに痛む。
――愛はあった。
ただ、同じ場所へ行く勇気が、俺にはなかった。
それでも、彼女を好きだった時間だけは、
嘘じゃなかったと信じていた。
『想いの手前』
出会って、まだ数カ月。
まさかゲームの通知ひとつで、
こんなにも心が揺れる日が来るなんて思わなかった。
何でもない会話のはずなのに、
あなたのひと言ひと言に鼓動が追いつかない。
夜、ふと寂しさが押し寄せるたび、
あなたが言ってくれた
「いつでもLINEしておいで」
その言葉だけを胸の奥で何度も撫でる。
本当は、あのとき言われた続きを聞きたかった。
「電話しておいで」
その優しさに触れた瞬間、
もう少しだけ、あなたに甘えてしまいそうになって
慌てて気持ちを引き戻した。
だって、この片恋は叶わない。
想いを告げれば、いまの関係はきっと崩れてしまう。
あなたの優しさは境界ではなく、
ただの好意の延長線だとわかっている。
それでも、かすかな期待が
心のどこかでじりじりと燃え続けて苦しい。
今日もまた、送信画面を開いては閉じ、
開いては閉じる。
名前を見ただけで胸が熱くなるのに、
想いを伝える勇気は、どこにも落ちていない。
触れられそうで、触れられない。
近いようで、遠い。
そんな曖昧な距離のまま、
私はただ、あなたに届かない想いを抱えたまま、静かに胸をしめつけている。