ちぐ。

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川沿いの小さな道に、彼女は毎年同じ花を植えた。
勿忘草。青くて、目立たなくて、名前だけが少し切実な花。

理由を聞かれると、彼女は曖昧に笑った。
「好きだから」
それ以上は、誰にも話さなかった。

昔、約束を交わした人がいた。
大げさな未来の話も、永遠の言葉もなかった。ただ、春になったらこの道を一緒に歩こう、それだけだった。
けれど彼は来なかった。連絡も、言い訳も、何も残さずに。

最初の年、彼女は待った。
二年目は、待つことをやめた。
三年目、彼の顔を思い出そうとして、思い出せないことに気づいた。

それでも春になると、彼女は種をまいた。
忘れられていく記憶の代わりに、忘れないという意志を土に埋めるように。

ある日、足を止めた見知らぬ誰かが言った。
「可愛い花ですね。名前は?」
彼女は少し考えてから答えた。
「勿忘草です。……私を忘れないで、って意味」

その人は頷き、歩き去った。
彼女はもう、誰に向けて言った言葉なのか分からなかった。

それでいい、と彼女は思った。
誰かの記憶に残らなくても、
この花が今年も咲いたことだけは、
彼女自身が覚えていれば。

川面に映る青が、静かに揺れていた。
忘れられても、消えないものがあると、
花は何も言わずに、そこに咲いていた。

2/3/2026, 2:54:40 AM