淡い灯が消えるまで…
「いつも私の言葉を優先してくれてきたから……
少しだけでも『いい人』でいたかったの。」
そう呟くと、彼はわずかに目を伏せた。
テーブルの上の水滴が、ぽたりと落ちたような沈黙が流れた。
会うたびに、私は彼に甘えていた。
既婚者の彼に、甘えてはいけないと何度も思ったのに。
彼は、私が「会いたい」と言えば無理をして時間を作り、
「寂しい」と言えば、すぐに駆けつけてくれる人だった。
優しすぎる人だった。
「……ごめん。」
彼はそう言ったが、その言葉には“謝罪”よりも“諦め”の色の方が濃かった。
今日は、ふたりで過ごす最後の夜だった。
理由なんて、もう何度も話し合って、何度も言い訳して、
それでも行き着くところはただ一つ。
彼には帰る場所がある。
私には、彼を迎え入れるための未来がない。
「あなたが悪いわけじゃないよ」
そう言うと、彼は苦く笑った。
「悪いよ。ずっと……君を使って、自分の孤独をごまかしてた。」
思わず顔を上げると、
彼はグラスを握る指に力を込めすぎて、白くなっていた。
普段は見せない、壊れ物のような表情。
「君に“会いたい”って言われると……断れなかった。
家では誰にも必要とされてない気がして。
だから……君に必要とされることで、やっと立っていられた。」
その告白は、嬉しいのに、苦しくて、胸の奥にじんと広がった。
私だけじゃない。
彼もまた、叶わぬ恋に溺れるひとりだったのだ。
「ずるいよね、私たちって。」
笑おうとしたが、声は震えた。
「うん……ずるい。」
彼の声も、どこか少年のようにかすれていた。
店を出ると、夜風が肌を撫でた。
街灯の光がゆらいで見えたのは、風のせいか、涙のせいか分からない。
駅までの道を並んで歩いたが、触れられる距離にいるのに、
もう指先ひとつ触れてはいけないことを、ふたりとも分かっていた。
改札の前で立ち止まると、彼が小さく息を吐いた。
「……もし、違う時代に出会ってたら、
君を最初に選んでたかもしれない。」
嘘でも嬉しかった。
でも本当なら、もっと残酷だった。
「そんな“もし”はいらないよ。」
私は微笑んだ。
せめて最後は、“いい人”でいたかったから。
彼は何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わず、
そのまま背を向けて歩き出した。
その後ろ姿を追う目が、知らないうちに潤んでいた。
——叶わぬ恋は、いつだって静かに終わる。
そして夜の風だけが、まだ少し温かい余韻を連れて、
私の頬をそっと撫でていった。
11/17/2025, 4:20:43 PM