私の弟は、泣き虫だった。
転んだだけで泣くし、嬉しい時にも泣く。とにかくしょっちゅう泣いていた。
私はそんな弟が大嫌いだった。
私は、家を開けがちな両親を寂しく思いつつも文句を言ったことは無かった。なのに弟は泣いただけで運動会も授業参観も両親が来たのだ。
私はあんなに心細かったのに。
それでも泣いたら迷惑をかけると思って泣かなかったのに。
私は子供ながらに、弟に醜い嫉妬を覚えた。
弟は甘えるのも上手く、両親も弟の方を可愛がっていることが多かったように思えた。勿論、子供目線で見る物事は多少歪んでおり、両親は私も弟も平等に愛していたのではあるが。
先日、母が他界した。
私はもう三十歳を越していて、弟も独り立ちをした後だったが、やはり死ぬには早い。突然の出来事に頭が回らなくて、とりあえず親戚に電話をした。
葬式場にいた弟は泣いていなかった。あの泣き虫がどうしたのかと驚いたが、目の下にある隈を見て何も言わなかった。
葬儀は淡々と進んだ。あまりにもあっけらかんとしていて、こんなものかと拍子抜けする。ご飯にはお寿司を取ったけれど、弟は一切口を付けなかった。
お手洗いの前で、弟と鉢合わせた。
久しぶり、と簡単な会話を何度か交わしたが、やがて話題が尽きたのかどちらとも無く黙ってしまった。
「あー、母さん…死んだな」
次に口を開いたのは、弟の方だった。他に何も言う事が無くなったと見えて、少し気まずそうしている。
「あんた、泣かないの」
無意識的に口から零れたのは、単純な疑問だった。
弟は、数秒の後、私の瞳をまっすぐ見て言った。
「泣かないよ」
半ば、誓いのようだった。
親戚に呼ばれてそちらに向かう弟の背中を見送って、私は少し弟を嫌いではなくなった。
お題『泣かないよ』
かたり。
家の中で、音がするでしょう。
私はそれが怖いんです。
食器棚のカップが動いた音で、蛇口から水が滴る音で、私は心臓が止まりそうになる。
友人は私を怖がりと笑うんです。
けれど、ああ、友人は知らないのです。
隙間から、暗闇から、此方を伺う黄色い瞳を!
それは私の虚妄ではないのです。確かにそれは存在しているのです。現に今も、私の部屋に住み着いている!
それは瞳を見せるのです。いやに黄色い強膜と、見るだけで総毛立つ真っ赤な瞳孔。私はあれを見ると、もう死んだ方がマシだとさえ思うのです。
いえ、瞳だけなら耐えれましょう。頭まですっぽり布団を被ってしまえば分からないのですから。しかし、それはとうとうこの間、私に手を伸ばしたのです!
ああ、あああ。思い出すにもおぞましい。それは私がベッドで横になっている時でした。私はあれが見えるのが嫌で、布団を被って寝ていたのですが、息苦しくって首を出したのです。すると、あれは私の方へ手をこまねいているではありませんか!
今まであんなに近くにいた事はなかったのに、私とあれとは、目と鼻の先程の距離しか開いていないのです。それは口も存在しているようでした。にたりと笑う口内に、火のような舌がチラリと見えました。
ねえ、どうお思いですか?
初めは瞳だけでしたでしょう。
そして次は手。
私は怖いのです。
いつかあれが全身を表すのではないかと。
ぼとり。
ひい。
嫌な音がしました。大きい音です。何か落ちましたね。何でしょうか。
がた、がたがた。
何かがどこかに手をかけて、立ち上がろうとしているのでしょう。
ぱたぱたぱたぱた
こちらへ向かって来ていますね。
ぱたり。
ああ、止まった。ねえ、あなたには、私の後ろにいるのが見えますか?
お題『怖がり』
私のこころの中に、小瓶がひとつ。
それにちいさな星を入れる。
──大切な人ができた時に入れるのよ。
ママとパパで、ふたつ。
お友達と先生で、むっつ。
かわいい猫さんで、ななつ。
かっこいいあの子で、やっつ。
星はどんどん増えていく。
尊敬する先輩で、十と八個。
大好きな作家さんで、二十一個。
三十個。
七十個。
百個。
そうして小瓶が溢れかえって、星が零れてしまったら、その時私は世界一幸福になる。
星は散らばって、夜空に浮かぶ。
大切な人と、それを見る。
あなたが見ている数々の星
それはあなたの大切な人
それは誰かの大切な人
お題『星が溢れる』
●●ちゃんは、おめめがきれいだね
本当?ありがとう。あれ?でも…あなた、だあれ?
わたし?わたしはね──
ああ、またここで元に戻ってしまう。いつも見る夢は、いつも同じところで現実に引き戻される。私の瞳を褒めてくれた、あの子は誰なのか知りたいのに。
欠伸をしながら、洗面所へ向かう。鏡に映る瞳は、真っ黒で輝きを失っている。
他の人は赤に緑に紫と、色とりどりの宝石を瞳に嵌め込んでいるのに、私の瞳はただの黒だ。
何も映らない、何にも染まらない。こんな瞳を綺麗なんて、私自身一度も思ったことは無い。
すし詰めになりながら通勤して、ミスをして、怒られて、瞳を貶されて、涙を堪えて、家に帰っても常にどこかへ帰りたくって。誰から見ても最悪の人生だ。
できることなら死んでしまいたいけれど、勇気のない私にはそれも無理だった。
私に子供ができた。
丸くて、暖かくて、愛おしい。この子を守ることに、残りの人生を全てかけようと思った。
例え、父親はいなくとも、その分私がこの子を幸せにしてみせると誓った。
そこからは少しだけ、仕事をするのが苦ではなくなった。
あるとき、家の近くに工場ができた。随分と大きな建物で、自動車か何かの工場だったと思う。そこからたくさんの灰が出た。工場なのだからある程度はと思っていたけれど、あまりにも酷い量だった。
しかも、灰はどうやら人体に有毒な物質が含まれていたらしく、灰を吸って、私の体はもうボロボロだった。
管を体いっぱいに刺されて、ここまでして生き永らえようとも思わない。視界の端に映る自分の手は、醜く老いさらばえていた。
機械に頼っても、どうせ寿命は変わらないのに。お医者さんに、もう治療を終わらせてもらうよう伝えましょう。ああ、その前に、あの子たちにも言わなくちゃいけないわ。愛しい子たち、私がいなくてももう大丈夫よね。
瞳を開けていることさえ辛くて、暫く瞼の帳を降ろしていると、いつの間にか眠っていた。
気付くと、髪も瞳も肌も真っ白な女の子が窓に腰掛けていた。確か、こういう子をアルビノと言うのだった。
それにしても
綺麗ねえ
気付くと、そう口走っていた。女の子は少し瞬きをすると、口を開いた。
「そう?ありがとう。でも私は●●ちゃんの目の方が好きよ。きれいだわ」
その言葉を言われるのは二度目だった。いや、一度目は夢の中だからこれが最初なのかしら。
そもそも私はこの子に名前を教えたかしら…
なんだ
あなただったのね
そう、あなたはそうだったのね
長年の謎がやっと解けたわ
ええ、思い残すことは無いわ
ほんとうよ…
「お母さん、本当に良かったのかな」
「…おばあちゃんはね、辛い思いをたくさんしてきた人なの。これ以上苦しめるなんて、出来ないわ」
「あ…お母さん、見て。おばあちゃん笑ってる」
「本当に、安らかな瞳ね…」
お題『安らかな瞳』
貴方と初めて会ったのは、まだ年端もいかない頃でした。その時の貴方は親の後ろに隠れて、こちらを伺っていましたね。本当を言うと、貴方の第一印象は良いものではなかったんです。それどころか、何もしないでモジモジする嫌いなタイプだとさえ思っていました。子供の勘なんて、アテになりませんね。
でも、私が手を差し出した時の安心したような顔が、とても綺麗で。子供に綺麗、なんておかしいかも知れませんけど、あの時の私の感情は、言い表すならやっぱり綺麗が妥当だと思うんです。
貴方は成長する度に美しさを増して、十五歳の頃にはビスクドールと並んでも遜色ないような美少女に育ちました。その頃の私は、貴方の隣りにいるのが辛かった。もともと、私は自分の容姿に自信がなかったので、自分の隣りに絶世の美女が存在する事に耐えられなかったのでしょう。わたしは貴方を避ける事が多かったように思います。
二十歳にもなるともうそんな事は無くなりましたけれど、あの頃に感じた劣等感は一生拭えないものです。
貴方は素晴らしい人ですから、他人の目に付くのは仕様がないんです。貴方はどんどん輝いて煌めいて眩しくなって…大勢の目に触れる事になりました。
本音を言えば、少し寂しかったんです。でも、これで良かったのだとも思います。私だけの神様でいてくれなんて贅沢を言える立場ではありませんし、貴方は矢張り、人に崇められてこそ更に美しさを増す。
ああ、でも、一つだけ願いごとがあるんです。お願いです。
貴方には、ずっと笑っていて欲しいんです。貴方の涙を見るのは辛い。どんな時も、貴方が笑顔でいられる事。私はただ、一心にそれを願っています。
そして、差し出がましいですけれど、どうか、それを見届ける事をお許しください。貴方の隣りに居ることを、許してください。
お題『ずっと隣りで』