お題【風に身をまかせ】
『風葬』
ねえ、君は、風を見たことがあるかい。
あるわけないか。風は透明で、ただ肌を嬲る(なぶる)だけの、目に見えない悪意のようなものだから。でもね、僕には見えるんだ。あの、緑の匂いを孕んだ、生温かい、澱んだ夏の終わりの、空気の身悶えが。
君が「なぜ死にたいの」と、いつだったか木犀の影で聞いた。あのときの君の瞳は、まるで硝子玉みたいに無機質で、だからこそ、僕の胸をひどく抉った。
手紙なんて、時代遅れだね。でも、文字を指先で汚さなければ、僕は僕の輪郭を保てない。
「暑いね。」
あのとき、君はそう言ったっけ。
「そうだね。」
僕は嘘をついた。本当は、凍えていた。
「風が吹くと、少しだけ、楽になるよ。」
「どうして?」
「自分が、薄くなる気がするから。」
君は笑わなかった。ただ、僕の、汗で張り付いた前髪を、不器用な指で払った。あの指の、かすかな煙草の苦みと、乾いた皮膚の感触を、今でも舌の裏で覚えている。
自殺、という言葉は、実に下品で、即物的一般的で、嫌悪を催す。世間はそれを「命を絶つ」と呼ぶ。絶望の果ての、暗い穴への転落だと。
冗談じゃない。
あれは、溢れんばかりの、あまりにも過剰な、生への執着の、暴発なんだ。
生きたくて、生きたくて、完璧に、純粋に、美しく生きたくて、だけどこの肉体という入れ物が、あまりにも不純で、醜くて、耐えられないから、中身をぶち撒けるだけのことなんだよ。
死に向かうのではない。生の、究極の完成へ向かうんだ。
「ねえ、聞いてる?」
君の声。回想の中で、君が僕の袖を引く。
「聞いてるよ。」
「嘘。どこ見てるの。」
「風の、行く先。」
「また、それ。」
君は怒ったように、でも、どこか諦めたように、僕の手の甲を抓(つつ)んだ。痛かった。爪の形に白く残った皮膚が、赤く染まっていくのを見て、僕は自分が生きている人間であることを、ひどく恥じた。
人間は、なぜ、こうも歩く肉塊として完璧なんだろう。心臓が動く。血が巡る。飯を食えば、排泄する。そのおぞましい、規則正しい自然の営みが、僕を息苦しくさせる。
僕は、ただの風になりたかった。
誰の記憶にも残らず、境界線もなく、ただ世界を吹き抜ける、透明な、現象になりたかった。
「冷たいね。」
君が、僕の頬に触れたのは、いつだったか。
「僕が?」
「ううん、風が。」
「秋が来るんだよ。」
「寂しい?」
「まさか。嬉しいよ。」
嘘。寂しくて、狂いそうだった。秋が来れば、世界はまた、僕を置いて、整然と、冷酷に、次の季節へ進んでしまう。僕だけが、この、腐りかけた夏の澱みの中で、足をとられて、動けない。
君を愛していた。それは、本当だ。
でも、僕の愛は、君という個性を愛するのではなく、君を通して見る、世界の美しさを愛していた。
なんて傲慢で、利己的な、薄汚い男だろう。
君は僕のそんな、道化の裏の、冷徹な計算を見抜いていたね。だから、決して、僕の核心には触れようとしなかった。
「いかないで。」
君が、いつか、僕の背中に向かって、掠れた声で呟いた。
「どこへ?」
「どこか、遠くへ。」
「いかないよ。ここにいる。」
僕は、君の前に立っていた。でも、心は、もう何マイルも先の、名前もない荒野を、風に引きちぎられながら、走っていた。
言葉は、いつでも僕を裏切る。発した瞬間に、それは死んだ記号になる。
だから、この手紙も、君が読む頃には、ただの、インクの染みだ。
僕は、これから、風に身を任せる。
飛び降りるとか、首を吊るとか、そういう卑俗な儀式ではない。
ただ、僕という存在の、最後のネジを、そっと緩めるだけだ。
そうすれば、僕を縛り付けていた、この重たい自意識の皮膚が破れて、中から、純粋な、透明な僕が、吹き出して、君の髪を揺らすだろう。
ねえ、悲しまないで。
これは、敗北ではない。
生きることに、あまりにも真面目すぎた僕の、これが、唯一の、烈しい告白なのだから。
君が、また、僕を呼ぶ。
「ねえ。」
「なに。」
「風、止まったね。」
いや、今から、吹くんだよ。
窓の外で、ゴー、と、世界が鳴った。
僕の耳の奥で、血液が、最後のダンスを踊っている。
君の、あの、かすかに甘い、皮膚の匂いが、鼻腔の奥で、弾けた。
僕は、完成する。
さようなら。
お元気で。
もう、痛くない。
宛先不明。
_____________________
追伸『混凝土』
ねえ、君は、本当に風になれたのかい。
手紙が届いたのは、よく晴れた、酷く混凝土(コンクリート)の匂いが立ち上る、九月の火曜日だった。
郵便受けの底で、それは死んだ魚のように冷たく横たわっていた。君の、あの、右上がりの、今にも消え入りそうな、筆圧の薄い文字。
読まなくても、中身は分かっていた。
だって、あの火曜日の朝、僕の部屋の窓を叩いた風は、妙に粘り気があって、君の嫌いな安煙草の、あるいは、君がいつも隠していた、あの耳の後ろの、酸っぱい汗の匂いがしたから。
「死んださ。」
誰かが、僕の頭の中で、そう呟いた。
「知ってるよ。」
僕は、誰もいない台所で、冷えた麦茶を飲みながら、そう返事をした。
君の葬式は、まるで出来の悪い喜劇のようだった。
親族は泣き、友人(と自称する、君がかつて軽蔑の対象と呼んだ奴ら)は神妙な顔をして、君の繊細さを記号のように消費していた。
「可哀想に。」「生きづらかったのね。」
反吐が出る。
君は可哀想なんかじゃない。
君は、僕たちを見下して、僕たちの不潔な「生」を嘲笑って、一人で完璧な、美しい記号になりおおせた、最も傲慢な、勝利者だ。
「綺麗だね。」
棺の中の君を見て、誰かが言った。
「そうだね。」
僕はまた、嘘をついた。
君の顔は、おしろいで真っ白に塗られて、まるで出来の悪い蝋人形だった。
生きていたとき、あんなに僕を苛立たせ、愛おしく思わせた、あの人間らしい不完全さが、綺麗に、残酷に、抹消されていた。
僕はそれを見て、激しい怒りと、それから、どうしようもない空腹を覚えた。
葬式の帰り道、僕は駅前の暖簾をくぐり、脂ぎったカツ丼を、喉がかきむしられるような思いで、一粒残らず平らげた。
君の完成した世界の外側で、僕は、まだこんなに汚く、胃袋を動かして、生きている。
手紙を、もう一度、読む。
『死に向かうのではない。生の、究極の完成へ向かうんだ。』
相変わらず、酔っているね。自分の言葉に、自分の苦悩に。
君は、自殺の本質を生の暴発だなんて高尚に飾ってみせたけれど、それは残された僕たちに対する、最悪のテロルだ。
君が死んだせいで、僕の日常は、すべて君の不在という色に染まってしまった。
空を流れる雲も、街路樹の騒めきも、全部、君の「ほら、僕を見て」という、自意識の囁きに聞こえる。
君は風になったんじゃない。
僕という人間に、一生、消えない呪いをかけたんだ。
「ねえ。」
夜、ベランダに出ると、君の声がする。
「なに。」
「僕、上手に消えられたかな。」
「最悪だよ。」
僕は、手すりに腕を乗せて、夜の街を見下ろす。
ネオンが、君の好きだった、あの硝子玉のような色で点滅している。
君の言う純粋な生なんて、この世界には最初から、どこにもなかった。
あるのは、この、泥にまみれて、他人の目を気にして、道化を演じて、それでも明日を生きなければならない、みっともない「俗」だけだ。
君はその俗を拒絶して、神様の領域へ逃げ込んだ。
卑怯者。
でも、悔しいけれど、僕は今、君のその卑怯さに、どうしようもなく魅了されている。
君のいない世界は、驚くほど静かで、そして、退屈だ。
誰も、僕の前髪を払ってはくれない。
誰も、僕の皮膚の匂いを、そんなに烈しく求めてはくれない。
手紙を、ライターの火で炙る。
紙の端から、黒く、丸まりながら、文字が消えていく。
「さようなら」が、灰になる。
その灰が、夜の風に浚われて、僕の頬を、ちくりと刺した。
冷たかった。
でも、もう、騙されない。
君は、完成した。
そして僕は、また、明日を、汚く生きる。
風は、ただの空気の移動だ。
お題【一年後】
『反芻』
「金魚ってさ、自分の糞を食べて、それから吐き出すんだよ。知ってる?」
夏休みの終わりの、あのぬるい風が吹く放課後だった。
理科室の前の廊下。
瑞希(みずき)は、自分の足元に落ちた消しゴムの屑を、爪先で細かく踏み潰しながら言った。
白漆喰の壁には、夕日がべっとりと、まるでトマトソースをこぼしたみたいに赤く張り付いていた。
古い校舎特有の、埃とワックスと、それから誰かの生乾きの雑巾が混ざったような匂いが、鼻の奥をツンと刺す。
僕はその匂いを吸い込むたびに、自分が薄いガラスの層に閉じ込められているような錯覚に囚われる。
「吐き出すの? 汚いな。」
「汚くないよ。確認してるだけ。食べられるか、食べられないか。それを何度も何度も、繰り返すんだ。」
瑞希の声は、いつもどこか湿っている。
彼の手首には、夏だというのに白いサポーターが巻かれていた。
日焼けした肌に、その白さはひどく不自然で、目を背けたくなるほどに眩しかった。
誰もが通る、ただの不器用な階段。
大人たちは僕たちの立ち止まりを、成長痛とか、思春期とか、そんなありふれた言葉の箱に押し込めて安心したがる。
でも、この胸の奥で四六時中鳴り響いている、ブリキの玩具が壊れたような不協和音を、彼らはとうに忘れて、知らない。
朝、目が覚めた瞬間に、心臓のあたりがじっとりと冷たくなっているあの感覚。
世界から僕という存在の輪郭が、じわじわと滲んで消えていくような、あの底なしの静けさ。
「ねえ、匠海(たくみ)。君は『ヴィヨンの妻』って知ってるか。」
瑞希が、不意に顔を上げて僕を見た。
彼の瞳は、濁った泥水の底に沈むガラス玉のようだった。
「太宰の?」
「そう。最後にさ、夫が、人非人でもいい、私たちは生きていさえすればいいのよ、って言われるやつ。あれ、嘘だと思う。」
「嘘?」
「生きてるだけでいいなんて、そんなの、生きてる側の傲慢だよ。」
廊下の端から、吹奏楽部のトロンボーンの音が、間の抜けた音程で響いてきた。
ぷつ、ぷつ、と、思考が途切れる。
長い沈黙。
短い呼吸。
心臓が動く音がうるさい。
やめてほしい。
生きているというだけで、どうしてこれほど大量の義務と、視線と、期待を、呼吸のたびに吸い込まなければならないのだろう。
肺が、まるで裏返しのタワシで擦られているみたいに、ちくちくと痛む。
明日が来るのが、ただ、ただ、怖い。
「僕、もうすぐ消えるよ。」
瑞希は、自販機で買ったぬるい緑茶のペットボトルを、額に押し当てながら笑った。
「冗談やめろよ。」
「冗談に見える?」
緑茶のボトルに、細かな水滴がじわりと浮き出て、彼の頬を伝って落ちた。
涙の代わりに、プラスチックが泣いているみたいだった。
その時、僕たちの間を通り抜けた風は、完全に秋の匂いがした。
冷たくて、乾いていて、どこか全てを諦めさせるような、あの拒絶の匂い。
あれから、季節がめぐった。
秋が、世界を黄色く染め上げて、それからすべての葉を落とした。
冬が、僕たちの吐く息を白く凍らせて、足元の土を石のように硬くした。
春が、頼みもしないのに桜の死骸を街中に撒き散らし、新しい制服を着た見知らぬ誰かを連れてきた。
そして、また。
あの、じっとりと肌にまとわりつく、湿った夏がやってきた。
一年後。
世界は驚くほど、何一つ変わっていなかった。
瑞希がいなくなった理科室の前の廊下には、今も同じようにトマトソースのような夕日が張り付いている。
セミの声が、鼓膜を針で突くようにミンミンと五月蝿い。
僕は相変わらず、薄いガラスの中にいた。
瑞希の席は、別の誰かの机になり、彼が好んで使っていた図書室の片隅の椅子は、背もたれが少し傾いたまま放置されている。
人間が一人消えるということは、水槽に一滴のインクを落とすようなものだ。
最初は激しく濁るけれど、やがてかき混ぜられて、薄まって、何事もなかったかのように透明に戻る。
その透明さが、僕には耐え難く冷たい。
「あ、匠海くん。またここにいた。」
声をかけてきたのは、クラスの学級委員の女の子だった。
名前は、確か、真悠(まゆ)。
彼女の手には、配り忘れたプリントの束が握られていて、カサカサと乾いた音を立てていた。
彼女の首筋を、一筋の汗が流れていく。
それを見て、僕は強烈な吐き気を覚えた。
生きている。
みんな、当たり前に、汗をかいて、息をして、明日を疑わずに生きている。
僕だけが、底の抜けたバケツみたいに、生きるためのエネルギーをどこかへ垂れ流し続けている。
「うん。ちょっと涼んでただけ。」
「嘘ばっかり。ここ、一番暑いよ。エアコン効かないもん。」
真悠は、プリントの束で自分の顔をパタパタと煽った。
彼女からは、微かに、安っぽい石鹸の匂いがした。
「ねえ、匠海くん。」
「なに。」
「瑞希くんのこと、まだ考えてる?」
心臓が、ドクンと跳ねた。
冷たい氷の塊を、無理やり喉の奥へ押し込まれたような痛みが走る。
「……別に。忘れてたよ。」
「そっか。みんな、もう言わないもんね。」
真悠は、窓の外の校庭を見下ろした。
部活の掛け声が、遠くで、まるで地鳴りのように響いている。
「私さ、昨日、瑞希くんの夢を見たんだ。」
「どんな?」
「普通の夢。瑞希くん、自転車に乗ってて、坂道をすごい勢いで下りていくの。私が危ないよって叫んでも、全然聞こえてないみたいで、そのまま笑って消えちゃった。」
例え話にもならない、ただの退屈な夢の話。
でも、その退屈さが、僕の胸をナイフのように切り裂いた。
瑞希は、僕たちの記憶の引き出しの中で、少しずつ、都合のいい形に変形させられていく。
苦悩も、あの手首の白いサポーターも、理科室の前の湿った声も、すべては可哀想な男の子の思い出という綺麗なラベルを貼られて、整理されていく。
それが、たまらなく恐ろしい。
僕がもし、今ここでこの窓から飛び降りたら、一年後の真悠は、僕のどんな夢を見るのだろう。
「匠海くんの夢も、いつか見るかな。」
「見ないよ、僕のは。」
僕は、ポケットの中で、瑞希から昔もらった、角の丸くなった消しゴムを強く握りしめた。
指先に、僕の体温ではない、別の冷たさが残っているような気がした。
希望なんて、この世界のどこを探しても落ちていない。
足元を見ても、空を見上げても、あるのはただ、繰り返される季節の、残酷なまでの正確さだけだ。
金魚は、今日も水槽の底で、自分の糞を吐き出している。
それが生きるということなら、僕は。
「ねえ、匠海くん、もう帰ろ?」
手首のサポーターを触る癖だけが、僕の右手に、冷たく、静かに、残っていた。
お題【子供のままで】
『痣』
湿ったアスファルトの匂いが、安物のストッキング越しに肌に張り付く。
三十一歳。私の人生は、いつの間にか誰にも怒られないための消去法で埋め尽くされていた。コンビニのサラダのドレッシングを選ぶように、一番無難な絶望を選んで生きている。
「ねえ、お姉さんの膝、変な色。」
マンションの駐輪場。薄暗い外灯の下で、補助輪付きの自転車に跨った、どこか懐かしく感じられる少女が私を見上げていた。
タイトスカートの裾から覗く私の膝には、いつの間にか身に覚えのない青あざができている。
「これ? ……どっかにぶつけたのかも。」
「痛くないの?」
「痛かったはずなんだけど、忘れちゃった。」
本当にそうだった。大人の体は、痛みを検知する前に、脳が効率という麻酔を打つ。泣いている暇があるなら、明日の会議の資料を直せ。傷ついている暇があるなら、愛想笑いの角度を調整しろ。
「いいなあ。私は、蚊に刺されただけで、世界が終わるくらい痒いのに。」
「……いいことじゃない。ちゃんと生きてる証拠だよ。」
「お姉さんは、生きてないの?」
無邪気なナイフ。少女は、カゴに入れたしおれたタンポポをいじりながら続けた。
「私のパパね、夜中にずっとパソコンと喧嘩してるよ。たまに、誰もいないのに『申し訳ございません』って言ってる。あれ、誰に謝ってるのかな。」
「それは……見えない神様みたいなものにだよ。社会っていう、すごく機嫌の悪い神様。」
「神様って、パパをいじめて楽しいのかな。」
私は、駐輪場のコンクリートに腰を下ろした。冷たさが、じわりと骨に響く。
子供の苦悩は、いつも具体的だ。転んだ。アイスが落ちた。暗闇が怖い。
大人の苦悩は、いつも抽象的だ。虚無。疎外。将来の不安。
どちらが残酷かなんて、比べるまでもない。私たちは、実体のない幽霊と戦うために、自分の肉体を鈍らせていく。
「ねえ。お姉さんのその『あざ』、私が模様にしてあげようか。」
少女は、ランドセルから油性マジックを取り出した。
「何すんのよ。」
「しるしをつけるの。お姉さんが、ちゃんとここでぶつけたよっていう、しるし。」
少女は、私の膝の青いあざを囲むように、真っ赤なマジックで花びらを描き始めた。
生々しい、アルコールの匂い。
膝に触れる、小さな指の筆圧。
「……変な感じ。消えなくなったらどうすんの。」
「消えない方がいいじゃん。忘れたふりするから、中身が腐っちゃうんだよ。」
逆説だ。治ることを急ぐから、傷は膿む。
大人になるということは、傷を隠す技術を覚えることではない。傷を、自分だけの消えない刺青として、誇りを持って晒し続けることだったのかもしれない。
描き終えた少女は、満足そうに立ち上がった。
私の膝には、不格好で、鮮血のような、醜い花の絵。
明日、ストッキングを履いても、その下でこの花は確実に呼吸を続けるだろう。
私は、少女の自転車のハンドルを軽く握った。
「ねえ、お姉さん。」
「なあに。」
「その花、枯れないように、たまに自分でなぞってね。」
少女は、重たい補助輪をガラガラと鳴らしながら、闇の奥へと消えていった。
少女が去ったあと、ふと足元を見ると、補助輪の跡なんてどこにもついていなかった。ただ、私の膝にはまだ鼻の奥がスッとするアルコールの匂いと、生々しい赤色がこびりついている。
「……なんだ、私が描いたのか。」
私は一人、駐輪場の冷たい床で、自分の膝を見つめた。
痛みが、戻ってきた。
ズキズキと、熱を持って。
それは、私が私として、まだ腐らずにここにいるという、紛れもない感触だった。
私は、汚れた膝を抱え込み、小さく呟いた。
「……明日、この足で一番嫌いな奴を蹴り飛ばしてきてもいいかな。」
お題【愛を叫ぶ。】
『換声点』
鼓膜の奥で、血液が急ぎ足で流れる音がする。ドク、ドク、と、それは僕がまだ生きていて、君に対してひどく不誠実であることを告発し続けていた。
夕暮れの教室。チョークの粉が光を反射して、まるで吸い込んではいけない宝石のように宙を舞っている。
「愛してるなんて、よくあんな薄っぺらなプラスチックの板みたいな言葉、平気で使えるよねぇ。」
君が、机の上に散らばったプリントを指先でなぞりながら言う。その指先の、爪の生え際にある小さなささくれ。僕はそればかりを見ている。
「言葉は全部、嘘だよ。」
「……極論すぎる。」
「だってそうでしょ? 『悲しい』って言った瞬間、本当の悲しみは半分に削られて、相手に伝わりやすい形に加工されちゃうんだもん。愛なんて特にそう。パッケージされた既製品。誰かが作った型に、自分の生々しい感情を無理やり流し込んでるだけ。」
君の言葉は鋭い。でも、その声はどこか、震える弦のようにも聞こえた。
僕は窓枠に肘をつく。錆びた鉄の匂いが鼻腔をくすぐり、遠くで練習している野球部の、泥にまみれた掛け声が、粘り気のある空気の中を泳いでくる。
「じゃあ、僕が今、何も言わないのは?」
「それは、沈黙っていう名前の嘘。」
「厳しいなぁ。」
「ふふっ。」
「……まあたしかに、正直になろうとすればするほど、僕たちは記号から遠ざかるはずなのかも。でも、記号を使わなきゃ、君に触れることさえできない。」
僕は喉のあたりをさする。
変声期を過ぎて、少し低くなったこの声。
おとなになりつつある僕たちの喉には、常に言えなかった言葉の死骸が詰まっている。
本当は。
君の横顔に見惚れているこの一秒。
肺の奥がキュッとなる、この酸素の足りない感覚。
それを表現する術を、僕はまだ持っていない。
だから、僕が「好きだ」なんて口にしたら、それはその瞬間に、最大級の嘘に成り下がる。
「ねえ、実験してみない?」
君が突然、顔を上げた。
瞳の奥に、悪戯な、あるいは祈るような光が宿る。
「実験?」
「一番、嘘じゃない叫び声を出すの。言葉を捨ててさ。この世界にあるどんな語彙にも頼らないで、喉の奥にある熱い塊を、そのまま外に放り出す。それがもし重なったら、それが一番の正解ってことにしようよ。」
バカげている。
哲学気取りの、子供じみた遊びだ。
でも、僕の心臓は、あきらかにその非効率を求めていた。
整えられた文章。
推敲された告白。
そんなもの、もう飽き飽きだ。
せーの、で。
僕たちは窓の外に向かって、肺の中の空気を全部、音に変えた。
「あああああああああああああああああ!!」
「うあああああああああああああああ!!」
喉が、ひりつく。
喉仏が激しく上下し、粘膜が摩擦で焼けるようだ。
不意に、喉の奥のスイッチが勝手に切り替わった。地声が鋭く裏返り、自分でも聞いたことのない、鳥の断末魔のような高音が鼓膜を突き抜ける。
横目で見た君の開いた口元から、夕日を反射して、一本の細い唾液の糸がひどく不格好に伸びて千切れた。
僕と彼女の境界線が、そのひび割れた音の中で混ざり合っていく。
それは叫びというより、排泄だった。
美しくもなければ、文学的でもない。
ただの、内臓の震え。
でも。
夕闇に溶けていくその汚いノイズの中に、僕は確かに、どんな詩集を読んでも見つからなかった「僕の本当」を見た。
叫び終えると、世界は静まり返っていた。
耳の奥で、キーンという残響が踊っている。
出し切った喉の奥には、もう地声も裏声もなかった。切り替わりの摩擦熱だけが、僕たちの換声点としてそこに残っている。
君は、涙目になって笑っていた。
僕も、おそらくひどい顔をしていた。
「……ねえ、今の、どうだった?」
「最悪。喉痛いし、耳鳴りする。」
「ふふ、だよねぇ。でも、ちょっとだけマシだった。嘘を吐くエネルギーを、全部音に変換した感じ!」
僕は思う。
愛とは、きっと、言葉という嘘を突き抜けた先にある騒音のことだ。
綺麗に飾られた花束を渡すことではなく、泥だらけの根っこを、そのまま相手の前に曝け出すこと。
逆説的だけど。
伝わらないことを自覚した叫びだけが、唯一、嘘を免れる。
「明日も、叫ぶ?」
「まあ、いいよ。でも次は、もっと変な声にするよ。」
君の手が、僕の袖を小さく引いた。
体温が伝わってくる。
言葉にすれば「温かい」という五文字。
でも、この、皮膚の下で脈打つ複雑なリズムを、僕はやっぱり、沈黙と騒音の間に閉じ込めておくことにした。
饒舌な真実は、もう要らない。
無。
お題【モンシロチョウ】
『境界』
「ねえ、なんで大人は、タンポポとモンシロチョウを分けて考えるの?」
給食のあとの長い休み時間。理科室の裏で、凛(りん)がしゃがみこんで言った。
彼女の視線の先では、黄色い花びらの上に、白い翅がぴたりと重なっている。風が吹くと、どちらが揺れているのか分からなくなる。
「分けてるかな。花は花、虫は虫でしょ。」
私は、自分の上履きで地面に描いた魔法陣を修正しながら答えた。
「変だよ。だって、あれはくっついてる間、ひとつの『黄色くて白い何か』じゃん。名前をつけるから、バラバラになっちゃうんだよ。もったいない。」
凛の言葉は、いつも少しだけ世界を溶かす。
大人が分類して片付けてしまったものを、彼女はもう一度ごちゃ混ぜにして、魔法みたいに手触りを取り戻していく。
「凛、見て。あっちのチョウ、私のこと見てるよ。」
「どれ? ……本当だ。でも、見てるんじゃなくて、一花(いちか)の色を聴いてるのかもよ。」
「色を聴く?」
「そう。大人は『見る』しかしないけど、チョウはきっと、赤とか青を音で感じてるんだよ。だから、あんなにふらふら飛ぶの。音楽に合わせて踊ってるみたいに。」
私たちは、しばらく黙ってその踊りを眺めた。
太陽の光が、チョウの翅を透かして、地面に淡い影を落としている。その影は、白くない。ただの、頼りない灰色だ。
「ねえ、私、昨日お母さんと喧嘩した。」
「なんで?」
「ピアノの練習しなかったから。お母さん、『将来のためよ』って言うんだもん。でも、将来っていつ? 明日のこと? 十年後のこと? そんなの、今このチョウがどこに飛ぶかより、ずっとどうでもいいことなのに。」
凛は、足元の砂を指でいじった。
爪の間に、黒い土が入り込む。
凛はその指先を躊躇なく口に含み、言葉を喋るための舌で、黒い土の味を確かめるようにペロリと舐めた。
「大人は、今を見てないよね。いつも、ここじゃないどこかの話ばっかり。でもさ、私は今、このチョウの翅の粉が、私の指についた瞬間のことだけを考えていたいんだ。」
彼女は、不意に手を伸ばした。
指先が、白い翅に触れるか触れないかの距離で止まる。
チョウは逃げない。まるで、凛の指もまた、何かの花の一部だと思っているみたいに。
「触らないの?」
「触ったら、私のものになっちゃうでしょ。私のものになったら、もうこれは世界のものじゃなくなる。」
凛が小さく息を吐くと、モンシロチョウはふわりと浮いた。
それは、重力から自由になったというより、世界という大きな呼吸に、ただ身を任せただけのように見えた。
「ねえ、死んだらどうなると思う?」
「……天国に行くとか?」
「ううん。きっと、名前がなくなるんだよ。モンシロチョウでもなくなるし、凛でもなくなる。ただの『光』とか『土』とかに戻るの。それって、すごく自由だと思わない?」
凛の瞳の中に、小さな白い粒が映っている。
それは、大人が迷信や理屈で塗りつぶしてしまった、名付けようのない純粋な恐怖と、それ以上の憧れだった。
チャイムが鳴った。
現実が、鋭い金属音で私たちの境界を切り裂いていく。
私たちは立ち上がり、膝についた砂を払った。
急に現実に戻された凛の鼻から、一筋の薄い鼻水が垂れて、彼女はそれを上着の袖で無造作に拭った。
「行こう。次は算数だ。」
「やだなぁ。数字って、一番世界をバラバラにするよね。」
凛は最後に一度だけ、空を仰いだ。
そこにはもうチョウの姿はなかったけれど、彼女の網膜には、まだ銀色の残像が、音楽のように鳴り響いている。
私は彼女の横顔を見て、ふと思った。
私たちはいつか、この「名前のない世界」を忘れて、ただの大人になるのだろうか。
「あれはモンシロチョウだ」と指差して、それだけで分かったつもりになる、退屈な生き物に。
「凛、忘れないでね。」
「何を?」
「さっきの、色を聴く話。」
凛は、いたずらっぽく笑って、私の耳元で囁いた。
「大丈夫。忘れたふりをするのが、大人になるってことでしょ?」
彼女の白いシャツが、校舎の影に吸い込まれていく。
その背中は、どんな標本よりも脆く、そして何物にも捕らえられないほど、鋭利に輝いていた。
定義は、檻である。
境界線の消えかかった魔法陣を、もう一度だけ、強く踏みしめる。
だから私は、まだ名前のない空き地で、ケンケンパを止めない。