お題【忘れられない、いつまでも】
『赦過』
生ぬるい風が、湿った夜の匂いを運んでくる。
ベランダのコンクリートは、昼間の熱を微かに残して、私の素足の裏を頼りなく温めていた。
街の灯りは、水槽の底に沈んだ色褪せたおはじきみたいに、鈍く、ぼやけて。
「……ねえ、聞いてる?」
背後から、鼓膜をなぞるような低い声。
振り返らなくてもわかる。彼は今、テーブルの角に指を這わせ、私の沈黙を計っている。
「聞いてるよ。」
「怒ってる?」
「怒ってない。ただ、考えてるだけ。」
嘘だ。
胸の奥では、どろりとした黒いインクが溢れ、肺を浸食している。
吸い込んでも吸い込んでも、空気は冷たく尖っていて、気管を傷つける。
彼が犯した過ちは、もう何ヶ月も前のことなのに。
あるいは、たった数時間前のことのように、瑞々しく私を苛む。
「ごめん。」
その三文字が、部屋の空気に投げ込まれる。
あまりに軽薄で、あまりに重厚な、呪いの言葉。
彼は、私がこの三文字を受け取るのを待っている。
受け取って、喉の奥に押し込んで、飲み込んで、そして笑ってみせるのを。
「その『ごめん』は、何に対して?」
「全部だよ。君を悲しませたこと、不安にさせたこと、全部。」
「全部、か。便利な言葉だね。」
私は手すりに身を乗り出す。
夜気は、彼の体温を忘れさせるほどに鋭い。
「許してほしいの?」
「……勝手なのはわかってる。」
「そうね、勝手だわ。」
もし、ここで私が「いいよ」と言えば、世界は再び平穏な円環を描き始める。
昨日と同じ朝を迎え、同じコーヒーを飲み、同じように愛を囁き合う。
けれど、許さなければ。
この沈黙を貫けば、私たちはこの夜の淵から一歩も動けないまま、永遠に互いを削り合うか、あるいは、ぷつりと糸が切れるように他人になるか。
どちらも、地獄だ。
「ねえ。許すって、どういうことだと思う?」
「忘れること、じゃないかな。」
「違うわ。忘れられないのよ、いつまでも。脳の裏側にこびりついて、剥がそうとすると血が出る。それでも、それと一緒に生きていくって決めることよ。」
私は彼の方を向く。
部屋の明かりを背負った彼の顔は、影になっていてよく見えない。
ただ、その肩が微かに震えているのだけが、やけに生々しい。
「私はね、あなたの『ごめん』を飲み込むたびに、少しずつ透明になっていく気がするの。」
「……行かないでくれ。」
「行かないわよ。行く勇気なんて、最初からないもの。」
私は歩み寄り、彼のシャツの裾を掴んだ。
洗剤の清潔な匂いと、彼自身のわずかな脂の匂い。
五感が、彼を個として認識してしまう。
嫌いになれたら楽なのに。この匂いごと、ゴミ箱に捨てられたらいいのに。
「いいよ。許すわ。」
嘘を吐いた。
心の底では、まだあの夜の裏切りが、鋭利なガラス片となって暴れている。
でも、人間の一生なんて、そんなに長くない。
一生かけて呪い続けるほど、私たちは特別じゃない。
許せないことを抱えて歩くのは、重い。あまりに重すぎて、足がもつれてしまう。
「本当に?」
「ええ。だから、もう一回だけ『ごめん』って言って。」
「……ごめん。」
今度の声は、少しだけ湿っていた。
私は彼の胸に顔を埋める。
心臓の音が、一定のリズムで時を刻んでいる。
許すことは、負けることじゃない。
新しい絶望を受け入れて、それでもなお、明日という光を無理やり捻り出すことだ。
私たちは、泥濘の中でしか踊れない。
清らかな水の上では、足がつかないから。
「お腹、空いたね。」
「パスタでも作ろうか。」
「いいね。辛いやつにして。」
赦しは、愛の終わりであり、生活の始まりだ。
私たちは、いつまでも忘れられない痛みを、スパイスのように日常に振りかける。
逆説的に、この苦味があるからこそ、私たちはまだ、互いを求め合えるのかもしれない。
結局、人生で絶対に許せないことなんて、それほど多くはないのだ。
それを認めるのが、一番の残酷で、一番の救い。
明日も、世界は回る。
不毛は、美しい。
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『跪拝』
足の裏に、薄氷を踏むような予感がずっと張り付いている。
リビングのソファに座る彼女の背中は、凪いだ海のように静かだが、その深淵では巨大な渦が巻いていることを僕は知っている。
「……ねえ、聞いてる?」
僕の声は、情けなく空気に溶けた。
彼女は振り返らない。テーブルの角に細い指を這わせ、僕の剥き出しの動揺を値踏みしている。
「聞いてるよ。」
「怒ってる?」
「怒ってない。ただ、考えてるだけ。」
彼女の嘘だ。
胸の奥では、どろりとした黒いインクが溢れ、肺を浸食しているはずなのだ。
僕が犯した過ちは、もう何ヶ月も前のことなのに。
あるいは、たった数時間前のことのように、瑞々しく彼女を苛む。
「ごめん。」
その三文字が、部屋の空気に投げ込まれる。
あまりに軽薄で、あまりに重厚な、呪いの言葉。
僕は、彼女がこの三文字を受け取るのを待っている。
受け取って、喉の奥に押し込んで、飲み込んで、そして笑ってみせるのを。
「その『ごめん』は、何に対して?」
「全部だよ。君を悲しませたこと、不安にさせたこと、全部。」
「全部、か。便利な言葉だね。」
彼女がベランダへ向かう。
カーテンが揺れ、夜の冷気が流れ込む。
都会の夜の匂い。排気ガスと、誰かの夕食の残りと、饐えた孤独が混ざった匂いだ。
「許してほしいの?」
その問いは、刃物だった。
許されるということは、彼女に僕の罪という重荷を一生背負わせるということだ。
僕が楽になるために、彼女の清廉な記憶に泥を塗る。それが許しの正体だ。
「……勝手なのはわかってる。」
「そうね、勝手だわ。」
彼女の手すりに身を乗り出す横顔は、街灯に照らされて青白い陶器のように見える。
触れれば崩れてしまいそうなのに、その意志だけは鋼のように硬い。
僕は、彼女に許されたいのではない。
ただ、この断絶した時間の連続性に、無理やり楔を打ち込みたいだけなのだ。
許されなければ、僕たちはこの過ちの夜を、死ぬまで永遠にリピートし続けるか、あるいはぷつりと他人になるか。
「ねえ。許すって、どういうことだと思う?」
彼女が振り向く。瞳の奥に、僕の惨めな姿が映っている。
「忘れること、じゃないかな。」
「違うわ。忘れられないのよ、いつまでも。脳の裏側にこびりついて、剥がそうとすると血が出る。それでも、それと一緒に生きていくって決めることよ。」
血が出る。
その言葉に、胃のあたりが焼けるように熱くなった。
僕は彼女の人生に、消えない傷跡を刻んだのだ。
その傷跡を愛せと、僕は今、この三文字で強要している。
「行かないでくれ。」
喉の奥が震えた。
彼女のシャツの裾を掴む指が、自分のものではないように泳ぐ。
彼女から漂う、微かな石鹸の香りが、僕の罪悪感をいっそう加速させる。
「いいよ。許すわ。」
彼女は言った。
それは、救済という名の宣告だった。
彼女は今、僕という汚れを丸ごと飲み込むことを選んだ。
僕たちはこれから、この許せない記憶を抱えたまま、何食わぬ顔でパスタを茹で、テレビを見て、同じ布団で眠るのだ。
「本当に?」
「ええ。だから、もう一回だけ『ごめん』って言って。」
僕は、彼女の胸に額を押し当てた。
心臓の音が聞こえる。トク、トク、と、僕の罪を数えるような正確なビート。
許された瞬間に、僕は以前の僕ではなくなった。
何かを言いかけようとした僕の口から、言葉にならない、ただの情けない喉鳴りだけが漏れた。彼女の細い指が、僕の髪をゆっくりと、一定のリズムで梳き始める。
「……ごめん。」
喉の奥で、鉄の味がした。
許されることは、愛されることよりもずっと、残酷で、重い。
でも、この重みこそが、僕たちが生きていくための重りなのだ。
浮かび上がって消えてしまわないための、鈍色の。
「お腹、空いたね。」
「パスタでも作ろうか。」
「いいね。辛いやつにして。」
彼女が笑う。その笑顔の裏側に、僕が殺した彼女の一部が、今も泣いている。
それでも、僕はこの地獄を、天国として生きていくしかない。
全部わかったうえで、僕を地獄に留めてくれた彼女を、一生かけて裏切り続けながら。
永遠は、酷だ。
数年後の今、僕たちはその消えない傷跡を光と見間違えながら、健やかに老いている。
僕の記憶は、いつも曖昧だ。
お題【一年前】
『強アルカリ』
一年前。その響きは、冷蔵庫の奥でミイラ化した、正体不明の野菜の切れ端に似ている。
私は、ワンルームのキッチンに立ち、唸りを上げる換気扇を見上げていた。この換気扇は一年前からずっと、吸い込む量よりも吐き出す音の方が大きい。無能な働き者。まるで私じゃない。
「ねえ、一年前の自分を抱きしめたい、なんて言う女、死刑にすればいいと思わない?」
床に座り込んで、賞味期限の怪しいビールを飲んでいる真帆が、鼻で笑った。
「過激。でもわかる。過去の自分を慈しむのって、自分の死体を剥製にして可愛がってるみたいで不気味だよね。」
「そ。慈しむ暇があったら、一年前の私のデコを、今の私が全力でデコピンすべきなのよ。」
私の苦悩は、「何者かになりたい」なんていう、キラキラした既製品ではなかった。
むしろ「何者にもなりたくないのに、勝手に自分が形成されていく恐怖」だ。
一年前、私はもっと流動的で、ただの霧だったはずだ。それがどうだ。一年という月日が、勝手に私を、独身・事務職・週末に作り置きをする女、という、安っぽい石膏像に固めてしまった。
個性が欲しいのではない。個体になりたくないのだ。
「私、一年前はもっと、透明なゼリーみたいだった気がするの」
「今は?」
「今は、......、今は、噛み切りにくいスルメ。噛めば噛むほど生活の味がする。厭じゃない? 自分がどんどん、説明可能な存在になっていくの。一年前の私なら、もっと意味不明なことで泣けたのに。」
私は、蛇口をひねった。
水が手に当たって、弾ける。この水の粒子には、一年前の記憶なんて一滴も混じっていない。それなのに、自分の皮膚だけが、余計な経験値を吸い込んで分厚くなっていく。
経験は宝物? 冗談じゃない。経験は、心の可動域を狭めるサポーターだ。
「真帆。一年前の私と、今の私。どっちがバカに見える?」
「千尋、どっちも絶望的にバカだよ。でも、一年前のバカは『全自動』だったけど、今のバカは『手動』でバカをやってる感じがする。」
「手動のバカ……。最高。それ、褒め言葉として受け取っておくわ。」
世の中の「一年前」をテーマにした物語は、大抵、成長や後悔を語りたがる。
けれど私は、逆を望んでいた。
退化。忘却。あるいは、完全なる昨日との断絶。
一年前の私と今の私が、道ですれ違っても、お互いに中指を立てて無視できるくらいの関係。それこそが、誠実な時間の経過ではないか。
「私さ、決めたわ。一年前の自分を、今日、正式に『他界』させることにする。」
「お葬式?」
「ううん。換気扇の掃除。この油汚れ、全部一年前の私が吸い込んだ、私じゃないものの残骸だもん。」
私は、強アルカリ性の洗剤を換気扇にぶっかけた。
泡がシュワシュワと音を立てて、黒い汚れを溶かしていく。
一年前の苦悩。一年前の恋。一年前の、中途半端な希望。
全部、下水に流れていけばいい。
私たちは、積み重ねるために生きているのではない。
いかに綺麗に、昨日を削ぎ落とすか。
その削りカスの美しさを競うゲームを、人生と呼ぶのだ。
換気扇が、少しだけ高い音に変わった。
吸い込まれていく。
古い空気が。
私は、濡れた手のまま、新しいビールのプルタブを引いた。
音が、鼓膜を弾く。
一年前には聞こえなかった、今の私の、破裂音。
記憶は、ゴミだ。ええ、屹っと、そう。
お題【初恋の日】
『咀嚼』
島崎藤村がどうしたこうしたという御託は、空腹の前では無力だ。
十月三十日。世間が「初恋の日」などと浮き足立っている夕暮れ、僕は場末の定食屋で、お世辞にも脂が乗っているとは言えない鯖の塩焼きと格闘していた。
店内のテレビでは、芸能人が過去の恋愛エピソードをこれでもかと脚色して披露している。
初恋なんて、そんな鮮やかなもんじゃないだろう。
僕にとってのそれは、もっとこう、奥歯の隙間に挟まった魚の骨みたいな、地味で、執拗で、痛い場所を突かれると情けない声が出るような、そういう類のものだ。
箸で身をほぐす。皮が上手く剥げない。
中学の時、理科室の掃除当番で一緒だった彼女を思い出す。
彼女は、雑巾の絞り方がやたらと丁寧だった。
僕はそれを見ているだけで、喉の奥がカラカラに乾いて、気の利いた台詞どころか「そこ、代わるよ」の一言さえ、酸欠の金魚みたいに口をパクパクさせるだけで終わった。
「兄ちゃん、醤油、そこにあるよ」
店主の婆さんが、鼻をすすりながら指をさす。
現実に引き戻された。僕は、使い込まれた醤油瓶を手に取る。
「……初恋って、覚えてます?」
自分でも驚くほど唐突に、言葉がこぼれた。
婆さんは、汚れたエプロンで手を拭きながら、フンと鼻で笑った。
「忘れたよ。そんな腹の足しにもならないもん」
その通りだ。腹の足しにならない。
なのに、どうして僕はこの、パサついた鯖を噛みしめるたびに、あの理科室の、少しカビ臭い空気や、彼女の制服の襟元に残っていた石鹸の匂いを、わざわざ掘り返そうとしているのか。
好きだった、なんて言葉じゃ足りない。
当時は、彼女が世界のすべてで、彼女が笑えば明日は晴れると本気で信じていた。
今の僕から見れば、ただの脳内のバグだ。滑稽で、無防備で、あまりに人間臭い、若さという名の病。
定食屋の隅で、一人で鯖を食う三十男。
初恋の相手は、今頃どこかで、僕のことなど一ミリも思い出さずに、子供のオムツでも替えているんだろう。
そう思うと、なんだか無性に腹が立って、それ以上に、妙な安心感が込み上げてきた。
成就しなかったからこそ、この不味い鯖と同じように、僕はこれを僕だけのものとして咀嚼し続けることができる。
もしあの時、勇気を出して告白して、上手くいって、結婚なんてしていたら。
きっと今頃、この美しい記憶は、生活という名の荒波に揉まれて、ただの日常の愚痴に成り下がっていただろう。
僕は、残りの身をご飯と一緒に口に放り込む。
喉を通る時、少しだけ骨が当たった。
冷たい水を一気に流し込んでも、その微かな痛みは取れなかった。
初恋は、実らなくていい。
それは、人生の欠陥ではなく、唯一、誰にも奪われない完璧な敗北なのだから。
さて、明日は雨だろうか。
お題【明日世界が終わるなら......】
『飽和』
使い古された絵の具のチューブのように、身体が重い。
午後四時。カーテンの隙間から差し込む光が、埃のダンスを無情に照らしている。私は今日も、何ひとつ成し遂げていない。昨日も、その前の日も。
世界が明日終わるという。
テレビの中のキャスターは、死に装束のような真っ白なネクタイを締め、震える声で「惑星衝突まで残り二十四時間。」と繰り返していた。街はパニックと静寂の、奇妙なマーブル模様に染まっているらしい。
けれど、私の部屋は驚くほどに凪いでいる。
喉の奥に、湿った綿を詰め込まれたような不快感がある。何かをしなければ。最後くらい、何か意味のあることを。
意味ってなんだっけ。
私はベッドから這い出し、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開けると、期限の切れたヨーグルトと、しなびたレタス、それに飲みかけの炭酸水が一本。
「……最後がこれ?」
独り言が、冷たい壁に跳ね返って耳に刺さる。
スマホを開けば、SNSは「愛してる」と「地獄に落ちろ」の洪水だ。画面をスクロールする指先だけが、私の身体で唯一生きている場所のように思えた。
かつて私は、何者かになりたかった。
美しい旋律を紡ぐ音楽家とか、誰かの救いになるような言葉を書く作家とか。でも実際はどうだ。楽譜は埃を被り、ペン先は乾ききっている。
何かをしようとするたびに、頭の中に、完璧な誰かが現れて、私の拙い一歩を嘲笑うのだ。そうして私は、何もせずに、何も選ばずに、ただ、可能性という名の贅肉を、蓄えてきた。
コンコン、とドアが叩かれた。
隣室に住む、大学生の湊(みなと)君だ。彼はいつも、焼きたてのパンみたいな匂いをさせている。
「開いてるよ。」
ドアが開くと、彼はコンビニの袋を提げて立っていた。
「何してるんですか、こんな時に。」
「見ての通り。死ぬ準備、というか、死ぬのを待つ準備。」
湊君は呆れたように笑って、私の机の上に高級そうなバニラアイスを置いた。
「それ、最後の一軒で奪い合って勝ち取ってきたんです。食べましょうよ。」
「……満たされないよ、そんなの。たかがアイスで。」
「いいんですよ。満たされるために食べるんじゃなくて、溶ける前に口に入れるのがマナーなんです、人生の。」
彼はスプーンを私に握らせた。
冷たい。
舌の上で、濃厚な甘みが暴力的に広がる。鼻に抜けるバニラの香りは、あまりに鮮烈で、かえって吐き気がした。
「ねえ、湊君。私、この一生で一度も、何ひとつ完成させたことがない気がするの。砂時計の砂が落ちるのを、ただ眺めていただけの二十何年間だった。」
「砂時計ってさ、砂が落ちきった瞬間が一番綺麗だと思いません?」
「……どうして?」
「だって、空っぽになった上半分と、積み上がった下半分。どちらも、その時間に嘘がなかった証拠じゃないですか。」
彼は窓の外を見た。空は、燃えるような、あるいは泣き出しそうな、形容しがたい紫色に変色し始めている。
「何もしなかった」という事実が、重く私を支配する。
でも、ふと思った。
私は今日まで、死なずに生きてきた。
お腹が空けば何かを食べ、眠くなれば泥のように眠り、たまに窓から見える月が綺麗だと思って、誰にも届かない溜息を吐いてきた。
それって、もしかして、とてつもなく贅沢な余白だったんじゃないか。
世の中には、意味で溢れたものが多すぎる。
目標、成果、貢献、成長。
そんな重石を全部脱ぎ捨てて、ただ無意義の中に佇んでいた私は、ある意味で、世界で一番自由に「空っぽ」を謳歌していたのかもしれない。
何もできなかったんじゃない。
何もしないという、一番贅沢な時間を、私は命懸けで守り抜いてきたのだ。
「……みなと君。」
「はい。」
「明日、世界が終わるなら、私は今日、一番丁寧に『何もしない』をやり遂げるわ。」
私は、溶けかけたアイスの最後の一口を、ゆっくりと喉に流し込んだ。
冷たさはもう、不快ではなかった。
ただ、そこにあるだけの感覚。
思考の揺らぎが、ふっと止まる。
絶望は、期待の裏返しだ。
私はもう、自分に何も期待しない。
だからこそ、今この瞬間の、皮膚を撫でるぬるい風の感触が、ダイヤモンドよりも、ただ、等価だった。
何も成し遂げなかった。
そのことが、私を救う。
空っぽの器に、最後の日差しが満ちていく。
完成。
お題【君と出逢って、】
『孵』
胃の底で、朝食の出来損ないがずっと燻っている。
午後二時、工事現場の削岩機が脳漿をかき回す。この街はいつも、誰かの平穏を削り取って新しいビルを建てている。その不毛な新陳代謝の片隅で、僕は剥がれかけのペンキみたいな顔をして立っていた。
「ねえ、死んだふり上手すぎない?」
声をかけてきたのは、灰色のパーカを深く被った女だった。名は知らない。ただ、一週間前からこの喫煙所で、僕の吐く煙を無遠慮に吸い込む、ただの呼吸の共有者だ。
「……動くのが面倒なだけだ。」
「植物かよ。光合成でもしてれば?」
「生憎、光を反射する機能は備わってない。」
彼女は笑わなかった。代わりに、僕の指先に挟まれた煙草を奪い取り、自分の唇に運ぶ。境界線のない、ひどく雑な沈黙が流れる。
君と出逢って、僕は意味を探すのをやめた。
正解とか、価値とか、そんな耳障りのいい言葉で自分をコーティングする必要なんてなかった。
「あんたさ、何がそんなに気に入らないの。」
「自分。」
「即答。おもろ。自分のどこが?」
「全部。骨の髄まで、ただの既製品だって感じがする。独創性も、熱量もない。」
「既製品、最高じゃんか。壊れても替えが効くし。」
「……お前、性格悪いな。」
「あんたの顔色よりはマシだよ。」
彼女は吸い殻をコンクリートに押し付け、爪先で細かく潰した。その執拗な動きに、得体の知れないリアリティが宿っている。
重力が重い。
思考は、煮詰めすぎたジャムのように粘ついて、どこにも流れていかない。僕は、自分の内側に閉じ込めた「何か」が腐敗していくのを待っているだけだった。
「行こうよ。」
「どこに。」
「ゴミ捨て場。あんたみたいな既製品を、誰も拾わないような場所に捨てに行くの。」
彼女は僕の腕を掴まない。ただ、三歩先を歩く。隣を歩かれるより、三歩先を歩かれる方が、呼吸がしやすいことに気づいた。
着いたのは、何の変哲もない廃ビルの中庭だった。不法投棄された冷蔵庫や、錆びた自転車が、墓標のように並んでいる。
「見て。これ全部、かつては誰かの『特別』だったやつら。」
「今はただの粗大ゴミだろ。」
「そう。でも、このガラクタたちが混ざり合って、別の形に見える瞬間がある。それが、たぶん『生きてる』ってことだよ。」
彼女は錆びた鉄パイプを拾い上げ、冷蔵庫のドアを力いっぱい殴りつけた。
乾いた金属音が、ビルの間に木霊する。
破片が飛び、空気が震える。
僕も、足元に転がっていた空き缶を、全力で蹴り飛ばした。
足の甲に走る鋭い痛み。
それが、僕がこの物理世界に干渉した、唯一の証拠だった。
脳内のノイズが、痛みに上書きされて消えていく。
「……すっきりした?」
「……最悪だ。足が痛い。」
「ふっ。いいじゃん、生きてんじゃん。」
君と出逢って、世界から色が消えた。
代わりに、手触りが残った。
ザラついた壁、冷たい鉄、そして、名前も知らない君の、乾いた笑い声。
僕は、新しくなることを諦めた。
古い自分のまま、ただ、ボロボロになるまで使い切ってやろうと思う。
彼女がフードを脱ぐ。
そこには、僕と同じ、どうしようもなく退屈で、美しい空洞があった。
完成を、拒め。
壊れこそ、動力。