葉昨 ( はさく )

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お題【初恋の日】
『咀嚼』

 島崎藤村がどうしたこうしたという御託は、空腹の前では無力だ。
 十月三十日。世間が「初恋の日」などと浮き足立っている夕暮れ、僕は場末の定食屋で、お世辞にも脂が乗っているとは言えない鯖の塩焼きと格闘していた。

 店内のテレビでは、芸能人が過去の恋愛エピソードをこれでもかと脚色して披露している。
 初恋なんて、そんな鮮やかなもんじゃないだろう。
 僕にとってのそれは、もっとこう、奥歯の隙間に挟まった魚の骨みたいな、地味で、執拗で、痛い場所を突かれると情けない声が出るような、そういう類のものだ。

 箸で身をほぐす。皮が上手く剥げない。
 中学の時、理科室の掃除当番で一緒だった彼女を思い出す。
 彼女は、雑巾の絞り方がやたらと丁寧だった。
 僕はそれを見ているだけで、喉の奥がカラカラに乾いて、気の利いた台詞どころか「そこ、代わるよ」の一言さえ、酸欠の金魚みたいに口をパクパクさせるだけで終わった。

「兄ちゃん、醤油、そこにあるよ」

 店主の婆さんが、鼻をすすりながら指をさす。
 現実に引き戻された。僕は、使い込まれた醤油瓶を手に取る。

「……初恋って、覚えてます?」

 自分でも驚くほど唐突に、言葉がこぼれた。
 婆さんは、汚れたエプロンで手を拭きながら、フンと鼻で笑った。

「忘れたよ。そんな腹の足しにもならないもん」

 その通りだ。腹の足しにならない。
 なのに、どうして僕はこの、パサついた鯖を噛みしめるたびに、あの理科室の、少しカビ臭い空気や、彼女の制服の襟元に残っていた石鹸の匂いを、わざわざ掘り返そうとしているのか。

 好きだった、なんて言葉じゃ足りない。
 当時は、彼女が世界のすべてで、彼女が笑えば明日は晴れると本気で信じていた。
 今の僕から見れば、ただの脳内のバグだ。滑稽で、無防備で、あまりに人間臭い、若さという名の病。

 定食屋の隅で、一人で鯖を食う三十男。
 初恋の相手は、今頃どこかで、僕のことなど一ミリも思い出さずに、子供のオムツでも替えているんだろう。
 そう思うと、なんだか無性に腹が立って、それ以上に、妙な安心感が込み上げてきた。

 成就しなかったからこそ、この不味い鯖と同じように、僕はこれを僕だけのものとして咀嚼し続けることができる。
 もしあの時、勇気を出して告白して、上手くいって、結婚なんてしていたら。
 きっと今頃、この美しい記憶は、生活という名の荒波に揉まれて、ただの日常の愚痴に成り下がっていただろう。

 僕は、残りの身をご飯と一緒に口に放り込む。
 喉を通る時、少しだけ骨が当たった。

冷たい水を一気に流し込んでも、その微かな痛みは取れなかった。

 初恋は、実らなくていい。
 それは、人生の欠陥ではなく、唯一、誰にも奪われない完璧な敗北なのだから。


さて、明日は雨だろうか。

5/7/2026, 11:32:58 AM