お題【明日世界が終わるなら......】
『飽和』
使い古された絵の具のチューブのように、身体が重い。
午後四時。カーテンの隙間から差し込む光が、埃のダンスを無情に照らしている。私は今日も、何ひとつ成し遂げていない。昨日も、その前の日も。
世界が明日終わるという。
テレビの中のキャスターは、死に装束のような真っ白なネクタイを締め、震える声で「惑星衝突まで残り二十四時間。」と繰り返していた。街はパニックと静寂の、奇妙なマーブル模様に染まっているらしい。
けれど、私の部屋は驚くほどに凪いでいる。
喉の奥に、湿った綿を詰め込まれたような不快感がある。何かをしなければ。最後くらい、何か意味のあることを。
意味ってなんだっけ。
私はベッドから這い出し、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開けると、期限の切れたヨーグルトと、しなびたレタス、それに飲みかけの炭酸水が一本。
「……最後がこれ?」
独り言が、冷たい壁に跳ね返って耳に刺さる。
スマホを開けば、SNSは「愛してる」と「地獄に落ちろ」の洪水だ。画面をスクロールする指先だけが、私の身体で唯一生きている場所のように思えた。
かつて私は、何者かになりたかった。
美しい旋律を紡ぐ音楽家とか、誰かの救いになるような言葉を書く作家とか。でも実際はどうだ。楽譜は埃を被り、ペン先は乾ききっている。
何かをしようとするたびに、頭の中に、完璧な誰かが現れて、私の拙い一歩を嘲笑うのだ。そうして私は、何もせずに、何も選ばずに、ただ、可能性という名の贅肉を、蓄えてきた。
コンコン、とドアが叩かれた。
隣室に住む、大学生の湊(みなと)君だ。彼はいつも、焼きたてのパンみたいな匂いをさせている。
「開いてるよ。」
ドアが開くと、彼はコンビニの袋を提げて立っていた。
「何してるんですか、こんな時に。」
「見ての通り。死ぬ準備、というか、死ぬのを待つ準備。」
湊君は呆れたように笑って、私の机の上に高級そうなバニラアイスを置いた。
「それ、最後の一軒で奪い合って勝ち取ってきたんです。食べましょうよ。」
「……満たされないよ、そんなの。たかがアイスで。」
「いいんですよ。満たされるために食べるんじゃなくて、溶ける前に口に入れるのがマナーなんです、人生の。」
彼はスプーンを私に握らせた。
冷たい。
舌の上で、濃厚な甘みが暴力的に広がる。鼻に抜けるバニラの香りは、あまりに鮮烈で、かえって吐き気がした。
「ねえ、湊君。私、この一生で一度も、何ひとつ完成させたことがない気がするの。砂時計の砂が落ちるのを、ただ眺めていただけの二十何年間だった。」
「砂時計ってさ、砂が落ちきった瞬間が一番綺麗だと思いません?」
「……どうして?」
「だって、空っぽになった上半分と、積み上がった下半分。どちらも、その時間に嘘がなかった証拠じゃないですか。」
彼は窓の外を見た。空は、燃えるような、あるいは泣き出しそうな、形容しがたい紫色に変色し始めている。
「何もしなかった」という事実が、重く私を支配する。
でも、ふと思った。
私は今日まで、死なずに生きてきた。
お腹が空けば何かを食べ、眠くなれば泥のように眠り、たまに窓から見える月が綺麗だと思って、誰にも届かない溜息を吐いてきた。
それって、もしかして、とてつもなく贅沢な余白だったんじゃないか。
世の中には、意味で溢れたものが多すぎる。
目標、成果、貢献、成長。
そんな重石を全部脱ぎ捨てて、ただ無意義の中に佇んでいた私は、ある意味で、世界で一番自由に「空っぽ」を謳歌していたのかもしれない。
何もできなかったんじゃない。
何もしないという、一番贅沢な時間を、私は命懸けで守り抜いてきたのだ。
「……みなと君。」
「はい。」
「明日、世界が終わるなら、私は今日、一番丁寧に『何もしない』をやり遂げるわ。」
私は、溶けかけたアイスの最後の一口を、ゆっくりと喉に流し込んだ。
冷たさはもう、不快ではなかった。
ただ、そこにあるだけの感覚。
思考の揺らぎが、ふっと止まる。
絶望は、期待の裏返しだ。
私はもう、自分に何も期待しない。
だからこそ、今この瞬間の、皮膚を撫でるぬるい風の感触が、ダイヤモンドよりも、ただ、等価だった。
何も成し遂げなかった。
そのことが、私を救う。
空っぽの器に、最後の日差しが満ちていく。
完成。
5/7/2026, 5:17:52 AM