お題【君と出逢って、】
『孵』
胃の底で、朝食の出来損ないがずっと燻っている。
午後二時、工事現場の削岩機が脳漿をかき回す。この街はいつも、誰かの平穏を削り取って新しいビルを建てている。その不毛な新陳代謝の片隅で、僕は剥がれかけのペンキみたいな顔をして立っていた。
「ねえ、死んだふり上手すぎない?」
声をかけてきたのは、灰色のパーカを深く被った女だった。名は知らない。ただ、一週間前からこの喫煙所で、僕の吐く煙を無遠慮に吸い込む、ただの呼吸の共有者だ。
「……動くのが面倒なだけだ。」
「植物かよ。光合成でもしてれば?」
「生憎、光を反射する機能は備わってない。」
彼女は笑わなかった。代わりに、僕の指先に挟まれた煙草を奪い取り、自分の唇に運ぶ。境界線のない、ひどく雑な沈黙が流れる。
君と出逢って、僕は意味を探すのをやめた。
正解とか、価値とか、そんな耳障りのいい言葉で自分をコーティングする必要なんてなかった。
「あんたさ、何がそんなに気に入らないの。」
「自分。」
「即答。おもろ。自分のどこが?」
「全部。骨の髄まで、ただの既製品だって感じがする。独創性も、熱量もない。」
「既製品、最高じゃんか。壊れても替えが効くし。」
「……お前、性格悪いな。」
「あんたの顔色よりはマシだよ。」
彼女は吸い殻をコンクリートに押し付け、爪先で細かく潰した。その執拗な動きに、得体の知れないリアリティが宿っている。
重力が重い。
思考は、煮詰めすぎたジャムのように粘ついて、どこにも流れていかない。僕は、自分の内側に閉じ込めた「何か」が腐敗していくのを待っているだけだった。
「行こうよ。」
「どこに。」
「ゴミ捨て場。あんたみたいな既製品を、誰も拾わないような場所に捨てに行くの。」
彼女は僕の腕を掴まない。ただ、三歩先を歩く。隣を歩かれるより、三歩先を歩かれる方が、呼吸がしやすいことに気づいた。
着いたのは、何の変哲もない廃ビルの中庭だった。不法投棄された冷蔵庫や、錆びた自転車が、墓標のように並んでいる。
「見て。これ全部、かつては誰かの『特別』だったやつら。」
「今はただの粗大ゴミだろ。」
「そう。でも、このガラクタたちが混ざり合って、別の形に見える瞬間がある。それが、たぶん『生きてる』ってことだよ。」
彼女は錆びた鉄パイプを拾い上げ、冷蔵庫のドアを力いっぱい殴りつけた。
乾いた金属音が、ビルの間に木霊する。
破片が飛び、空気が震える。
僕も、足元に転がっていた空き缶を、全力で蹴り飛ばした。
足の甲に走る鋭い痛み。
それが、僕がこの物理世界に干渉した、唯一の証拠だった。
脳内のノイズが、痛みに上書きされて消えていく。
「……すっきりした?」
「……最悪だ。足が痛い。」
「ふっ。いいじゃん、生きてんじゃん。」
君と出逢って、世界から色が消えた。
代わりに、手触りが残った。
ザラついた壁、冷たい鉄、そして、名前も知らない君の、乾いた笑い声。
僕は、新しくなることを諦めた。
古い自分のまま、ただ、ボロボロになるまで使い切ってやろうと思う。
彼女がフードを脱ぐ。
そこには、僕と同じ、どうしようもなく退屈で、美しい空洞があった。
完成を、拒め。
壊れこそ、動力。
5/5/2026, 12:50:24 PM