お題【一年前】
『強アルカリ』
一年前。その響きは、冷蔵庫の奥でミイラ化した、正体不明の野菜の切れ端に似ている。
私は、ワンルームのキッチンに立ち、唸りを上げる換気扇を見上げていた。この換気扇は一年前からずっと、吸い込む量よりも吐き出す音の方が大きい。無能な働き者。まるで私じゃない。
「ねえ、一年前の自分を抱きしめたい、なんて言う女、死刑にすればいいと思わない?」
床に座り込んで、賞味期限の怪しいビールを飲んでいる真帆が、鼻で笑った。
「過激。でもわかる。過去の自分を慈しむのって、自分の死体を剥製にして可愛がってるみたいで不気味だよね。」
「そ。慈しむ暇があったら、一年前の私のデコを、今の私が全力でデコピンすべきなのよ。」
私の苦悩は、「何者かになりたい」なんていう、キラキラした既製品ではなかった。
むしろ「何者にもなりたくないのに、勝手に自分が形成されていく恐怖」だ。
一年前、私はもっと流動的で、ただの霧だったはずだ。それがどうだ。一年という月日が、勝手に私を、独身・事務職・週末に作り置きをする女、という、安っぽい石膏像に固めてしまった。
個性が欲しいのではない。個体になりたくないのだ。
「私、一年前はもっと、透明なゼリーみたいだった気がするの」
「今は?」
「今は、......、今は、噛み切りにくいスルメ。噛めば噛むほど生活の味がする。厭じゃない? 自分がどんどん、説明可能な存在になっていくの。一年前の私なら、もっと意味不明なことで泣けたのに。」
私は、蛇口をひねった。
水が手に当たって、弾ける。この水の粒子には、一年前の記憶なんて一滴も混じっていない。それなのに、自分の皮膚だけが、余計な経験値を吸い込んで分厚くなっていく。
経験は宝物? 冗談じゃない。経験は、心の可動域を狭めるサポーターだ。
「真帆。一年前の私と、今の私。どっちがバカに見える?」
「千尋、どっちも絶望的にバカだよ。でも、一年前のバカは『全自動』だったけど、今のバカは『手動』でバカをやってる感じがする。」
「手動のバカ……。最高。それ、褒め言葉として受け取っておくわ。」
世の中の「一年前」をテーマにした物語は、大抵、成長や後悔を語りたがる。
けれど私は、逆を望んでいた。
退化。忘却。あるいは、完全なる昨日との断絶。
一年前の私と今の私が、道ですれ違っても、お互いに中指を立てて無視できるくらいの関係。それこそが、誠実な時間の経過ではないか。
「私さ、決めたわ。一年前の自分を、今日、正式に『他界』させることにする。」
「お葬式?」
「ううん。換気扇の掃除。この油汚れ、全部一年前の私が吸い込んだ、私じゃないものの残骸だもん。」
私は、強アルカリ性の洗剤を換気扇にぶっかけた。
泡がシュワシュワと音を立てて、黒い汚れを溶かしていく。
一年前の苦悩。一年前の恋。一年前の、中途半端な希望。
全部、下水に流れていけばいい。
私たちは、積み重ねるために生きているのではない。
いかに綺麗に、昨日を削ぎ落とすか。
その削りカスの美しさを競うゲームを、人生と呼ぶのだ。
換気扇が、少しだけ高い音に変わった。
吸い込まれていく。
古い空気が。
私は、濡れた手のまま、新しいビールのプルタブを引いた。
音が、鼓膜を弾く。
一年前には聞こえなかった、今の私の、破裂音。
記憶は、ゴミだ。ええ、屹っと、そう。
5/8/2026, 11:50:05 AM