お題【耳を澄ますと】
『鳴因』
胃の底が、冷えた泥で満たされている。
深夜二時、アパートの薄い壁を隔てて、世界は死んだように静まり返っていた。いや、死んでいるのは自分の方かもしれない。キーボードを叩く指先だけが、生き延びようと微かな残響を立てている。
「まだ起きてんの。」
背後で、湿った声がした。同居人の陽子(ようこ)だ。彼女は換気扇の下で、煙草を燻らせている。
カチ、とライターが鳴る。その小さな火花が、網膜の端を焼いた。
「仕事。」
「嘘つき。それ、書きかけの遺書でしょ。」
「……進まない小説だよ。」
「同じようなもんじゃん。」
陽子は吐き出した煙を、肺の形を模した灰色の幻影のように眺めている。
窓の外では、雨がアスファルトを叩いていた。しとしと、というより、べたべたと、世界を塗りつぶしていく不快な重低音。耳の奥で、自分の自意識が、剥がれかけの壁紙のように、じりじり、と音を立てて剥離していく。
何を書けばいい?
美しい言葉は、いつも自分の喉元で溺れている。
正しさは、針のように細く、尖って、自分の思考を突き刺す。
長い、長い、泥のような沈黙。それを切り裂く、陽子の短い呼吸。
「ねえ、耳を澄まして。」
陽子が不意に言った。
自分は指を止める。
換気扇の回る音。雨音。冷蔵庫のうなり。遠くの国道を走る、誰かの孤独を乗せた車のロードノイズ。
「何が聞こえる?」
「……雨。」
「違うよ。もっと深いところ。耳じゃなくて、骨で聞くの。」
「骨?」
「そ。絶望の音。みんな、自分が壊れる音を必死に隠して生きてるでしょ。でも、耳を澄ますと、街中がひび割れる音で溢れてる。」
彼女は、吸殻を灰皿に押し付けた。じゅっ、という短い、断末魔のような音。
自分は椅子を回転させ、彼女の虚ろな瞳を見た。そこには、自分と同じ、形にならない苦悩が澱んでいた。自分たちは、共有できない孤独を、この狭い部屋で煮詰めている。
「陽子、僕は怖いんだ。何も生み出せないまま、この音に飲み込まれるのが。」
「飲み込まれればいいのよ。」
「……え?」
「完璧な静寂なんて、死んだ後でいくらでも手に入るよ。今はさ、このノイズを楽しみなよ。あんたが苦しんでるってことは、まだ世界と摩擦を起こしてる証拠なんだから。」
摩擦。
自分の胸の中に、鈍い火が灯った。
雨音は、いつの間にか激しさを増している。それは攻撃的なリズムではなく、何かを洗い流そうとする、切実な祈りのようにも聞こえた。
自分は再び、画面に向き合う。
世界は騒がしい。思考は揺らぐ。
苦悩は消えない。けれど、その苦悩が、自分の鼓動を強くしている。
繊細であることは、傷つきやすいことではない。あらゆる微細な振動を、命の証として受け取る力のことだ。
「陽子。聞こえるよ。」
「何が。」
「僕が、新しく壊れる音。」
「……最高じゃない。書きなよ、その音を。」
自分はキーボードに指を置く。
叩くたびに、自分の中の何かが摩耗し、同時に、見たこともない色彩が言葉に宿っていく。
絶望は、希望への最短距離だ。
耳を澄ませば、沈黙こそが最も雄弁に、自分たちの生を肯定していた。
静寂が、一番うるさい。
鳴り止まない。
お題【二人だけの秘密】
『蜜毒』
不協和音。
それも、最高に心地よいやつ。
「私たち、地獄に落ちるね。」
妻の妹である麻美は、そう言ってエクレアのクリームを鼻の頭につけた。
二十二歳の、どこまでも無駄に透明な皮膚をした女。
彼女は人差し指でそれを無造作にひと拭いすると、自身の舌先へと吸い込ませた。
「地獄のほうが、現世よりはインフラが整っていそうだ。」
僕は手元の原稿用紙に万年筆の先を突き立てる。
インクがじわりと、僕の無能の形に滲んだ。
編集者からは「誰もが涙する、至高の純愛」を求められている。
書けるわけがない。
僕の机の引き出しには、引き裂かれた聖人たちの死体が行き場を失って詰まっている。
僕たちは、愛し合っているわけではない。
ましてや、肉体的な裏切りを重ねているわけでもない。
ただ、毎週土曜日の午後三時、妻が熱心に通う「おフランス流泥泥美顔エステ」の留守中に、リビングの床に座って、お互いの人生における最も卑しい本音を交換し合う。
それだけの関係。
それだけの、致命的な犯罪。
「姉さん、最近、SNSの裏垢で同級生の自己破産をずっと監視してるよ。毎晩スクショを撮って、専用のフォルダに仕分けて笑ってる。」
「……実用的な悪意だな。」
「義兄さんは?」
「隣の家の犬が、明日突然死んでいればいいのにと毎朝思う。」
沈黙。
時計の針が、僕の小心な心臓を刻む。
チク、タク、チク、タク。
長い、沈黙。
世界で僕たちだけが、正しく腐敗しているような錯覚。
触れたいとは思わない。
触れた瞬間に、この美しい泥沼が、ただの「ありふれた不倫」という、通俗小説のゴミ箱に回収されてしまうことを知っているからだ。
僕たちの秘密。
それは、「お互いに、何ひとつとして高尚な思想を持っていない」という事実を、この世界で二人だけが共有しているということだった。
「ねえ、義兄さん」
麻美が、 僕の万年筆を奪い取る。
その冷たい指先が、僕の指の背をかすめた。ただそれだけのことなのに、剥き出しの神経に触れられたような痛みが走る。
「ひとって、どうして綺麗に生きようとするんだろうね。……その割に、みんな爪の垢とか、ちゃんと汚いのに。」
世の中の聖人君子たちは、愛だの正義だのを語る。
だが、僕たちがここで語るのは、昨夜見たくだらない夢と、隣人の不幸へのささやかな拍手だけ。
「僕たちさ、生ゴミのさ底に溜まる、あの黒い汁の成分に似てるな。」
僕は、自分で吐き出した言葉のあまりの卑しさに、少しだけ救われる。
麻美は、くすっと笑った。
「……生々しいわ、最悪。でも、まあ、これ以上汚れないなら、安心する。」
玄関の鍵が回る音がした。
人工的なラベンダーと、高級石鹸の、鼻を突くようなツンとした匂いが狭い玄関から流れ込んでくる。
一万二千円の泥を顔に塗りたくった妻が、聖女のような顔で帰ってきたのだ。
麻美の食べ残したエクレアの、もったりと頽廃的なカスタードの匂いが、その人工的な香気によって一瞬で駆逐される。
「駅前でね、妊婦さんが派手に転んでたの。ああいう自己管理ができない人って、母親になる資格がないと思うのよね。」
僕たちの秘密は、またしても完璧に、日常のシーツの下へと滑り込む。
絶望する必要なんて、どこにもないし、ひとは、堕ちきったその場所でしか、本当の直立歩行を始められない。
美しき濁流は、常に、最も静かな部屋の、最も平伏した床の上から湧き出る。
原稿用紙の上の、滲んだインクの染みを見る。
それは「至高の純愛」には程遠い、しかし、世界で最も美しい泥沼の形。
僕たちはこれからもこの泥の中で、互いの足首を掴み合いながら、正しく立って歩いていくのだ。
お題【優しさだけで、きっと】
『諦念』
君は、走れメロスのあの「最後の一発」の意味を知っているだろうか。
激流を泳ぎ、山賊をなぎ倒し、沈む太陽を追い越して辿り着いたメロス。彼は親友セリヌンティウスと再会した瞬間、互いに相手の頬を殴り飛ばす。美しき友情の証明として。
けれど、考えてみてほしい。
もしメロスが途中で諦めていたら、セリヌンティウスは処刑されていた。逆に、セリヌンティウスがメロスを信じずに呪いながら死んでいたら、メロスの走りはただの滑稽な一人相撲に終わっていた。
いや、あるいはセリヌンティウスもまた、残酷な期待を抱いていたのではないか。
「来なくていい、メロス。君が裏切ることで、私は純潔な被害者として死ねる。君の心に、一生消えない杭を打ち込んでやれる。」
そんな、愛という名の加害。
彼らは、友情という名の、最も逃げ場のない呪いを掛け合っていたのだ。
「悪いな。俺が満足するために、お前を殺しかけた。」
メロスは、真っ赤に腫れた自分の拳を見つめて笑う。
彼はセリヌンティウスを救いたかったのではない。約束を破り、裏切り者として生き永らえる自分に耐えられなかっただけだ。結局のところ、彼を走らせたのは高潔な精神などではなく、肥大化した「自己愛」だった。
だが、それのどこがいけないのだろう。
他人のために自分を殺して走る善意は、どこかで必ず息切れする。
けれど、「自分が自分を嫌いになりたくない」という強烈なエゴは、心臓が破ける寸前まで脚を動かし続ける。
王は、その二人を見て絶句した。
そこにあったのは、清らかな絆ではない。泥をすすり、エゴを剥き出しにし、それでも「相手を信じている自分」を貫き通そうとする、救いようのない人間の執着だった。
頬を打った手のひらに残る、熱い痺れ。それは、互いのエゴが衝突した瞬間の火花だ。
優しさの本質は、共感ではない。
それは、自分のエゴを、誰かの存在と分かちがたく結びつけてしまうという『諦念』だ。
「君を助けたい」のではなく、「君を助けない自分を、私が許せない」という傲慢。その傲慢さだけが、時に死神の手から誰かを奪い返す。
メロスは、セリヌンティウスの肩を借りて立ち上がる。
二人の足元には、夕陽が長く、黒い影を落としていた。
彼らはもう二度と、無垢な友には戻れない。
走ることは、逃げることだ。
自分という名の、最低で、最高な人間から逃げ出さないために。
愛は、呪い。
お題【カラフル】
『混濁』
その街は、効率と調和を愛していた。
人々は清潔で明るいパステルカラーを身にまとい、 波風を立てぬよう、みんな同じ色の絵の具を薄めて使っているような、薄っぺらな幸福感を表す、薄い水色や淡いピンクの笑顔を貼り付けて暮らしている。
それは、雨に濡れてふやけた色紙のようで、触れればすぐに破れてしまいそうな安寧だった。
そんな街の片隅に、画家の男がいた。
彼の服は、何十色もの絵具が飛び散り、重なり、遠目には「汚い真っ黒」に見えた。街の人々は彼を避け、「あんな色の濁った人間にはなりたくないものだ。」と眉をひそめた。
ある日、一人の少女が男の家を訪ねた。彼女は「自分に何の色も似合わない。」と泣いていた。
「私、何を選んでも中途半端なんです。優しい色も、情熱的な色も、全部似合わなくて。私の心は、ただの濁った灰色なんです。」
少女は話した。
みんなが笑顔で着こなす柔らかな色が、私にはまるで、自分を殺して隠すための包帯みたいに思えてしまって、と。
男は筆を置き、自分の真っ黒な袖を見つめて笑った。
「お嬢さん、知ってるかい? 光は混ぜるほど白くなるが、色は混ぜるほど黒くなるんだ。」
彼はパレットの上で、鮮やかな赤、深い青、眩しい黄色を次々と混ぜ合わせた。
「赤は怒りだ。青は悲しみ。黄色は喜び。一つひとつは綺麗だが、それだけじゃただの記号だ。でもな、それらすべてを飲み込んで、ぐちゃぐちゃに混ぜ合わせると、最後にはこの『黒』に辿り着く。」
男は少女の目を見て言った。
「君の心が灰色に見えるのは、まだ色が足りないからだ。もっと傷ついて、もっと笑って、もっと絶望して、全部の色を自分の中にぶちまければいい。そうして出来上がった『黒』は、どんな光にも透けない、この世で一番カラフルな色になるんだよ。」
男のその黒は、単なる暗闇ではない。幾層もの時間が折り重なり、沈殿した、静かな地層の色をしていた。
少女は、男の黒い服の中に、無数の色の破片がキラキラと光っているのを見た。
陽の光に当たった時だけ、深い底の方で赤や青の粒子が瞬いていた。
「真っ白」でいることは、何も持っていないことと同じだ。
けれど、すべてを経験し、すべてを混ぜ合わせた「真っ黒」は、あらゆる感情を内包した最強の証明。
少女は初めて、自分の濁った心に、新しい色を塗り足す勇気を得た。
街のパステルカラーが、ひどく退屈で、頼りないものに見え始めていた。
少女は冷え切った指先に、パレットから一滴、焦げるような情熱の赤を掬い取った。
その指先を、自分の頬へと乱暴になすりつける。 貼り付けたままふやけていた淡いピンクの笑顔を、どろりとした赤が、自傷のように汚し、引き裂いていく。
世界は今、ようやく、汚れ始めた。
お題【楽園】
『鱗光』(古典的自己愛)
自分を嫌悪するという行為は、その実、最も陰湿で、かつ熱烈な自己愛の告白である。
私は、私という人間に絶望しているのではない。私という人間に完璧な神であることを期待し、その期待が裏切られるたびに、恋人に裏切られたような顔をして、勝手に傷ついているだけなのだ。
愛していなければ、これほど執拗に自分を呪ったりはしない。無関心な他人の醜態など、一秒後には忘れているではないか。
「先生、またそんな、魂を質入れしたような顔をして。お豆腐が、あなたの陰気な視線で腐っちゃいますよ。」
角の豆腐屋の娘、お秋が、真っ白な湯気の中から声をかけてくる。彼女の、この世の真理など一丁の豆腐よりも軽いと言わんばかりの屈託のなさが、今の私には、どんな哲学書よりも深く、鋭い。
「お秋ちゃん。僕は今、自分という地獄を耕しているんだ。自分を愛しすぎるがゆえに、この庭には真っ黒な毒の花しか咲かないんだよ。」
「はいはい。そんなことより十円。お豆腐、持っていきますか?」
「……十円か。今の僕には、その銀貨の軽やかさが、全宇宙の質量よりも重たいんだ。」
私は豆腐一丁を買う勇気すらなく、自分の影を踏みつけながら、「楽園」と称されるこの街を歩く。
楽園。ああ、なんと滑稽な響きだろう。
人々は一様に、清潔な幸福を装っている。けれど、その薄皮一枚下側には、誰もが隠し持っている人間味という名の汚泥が、ぐつぐつと煮え立っているはずだ。
私は、自分がダメなのだと叫びたい。
約束を破り、嘘を吐き、見栄を張り、そのくせ夜中に一人で、恥ずかしさにのたうち回る。
けれど、その情けなさ、その格好悪さこそが、私がこの世界に触れている、唯一の生々しい手触りなのだ。
絶望は、装飾品ではない。
それは、生命が放つ、最後の輝きだ。
ふと、足元のドブ川を見れば、汚泥の中で街灯の光が、魚の鱗のように不敵に、きらきらと瞬いている。
地獄は、外にあるのではない。私の内側に、こんなにも豊かに、こんなにも滑稽に広がっている。ならば、それを悲しむ必要がどこにあるだろう。
救いなど、どこにもない。
けれど、この救われなさを最高に面白い喜劇として眺める視力だけは、私に残されている。
私は、誰にともなく、小さく吹き出した。
胸の中の地獄が、ほんのりとした春の陽だまりに変容していく。
さあ、帰って、また新しい恥をかこう。
その恥の数だけ、私は私を、もっと深く愛せるようになるはずだ。
地獄の沙汰も、微笑み次第。
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『虹膜』(現代的自意識)
自分を嫌悪するという行為は、その実、最も陰湿で、かつ熱烈な自己愛の告白である。
私は、私という人間に絶望しているのではない。私という人間に完璧な神であることを期待し、その期待が裏切られるたびに、恋人に裏切られたような顔をして、勝手に傷ついているだけなのだ。
愛していなければ、これほど執執に自分を呪ったりはしない。無関心な他人の醜態など、一秒後には忘れているではないか。
「あ、また『人生詰んだ』みたいな顔してる。コーヒー、冷めちゃいますよ?」
バイト先の後輩、結実(ゆみ)が、スマホをいじりながら無造作に言った。彼女の、この世の悩みなんてアプリの更新程度にしか思っていないような軽やかさが、今の私には、どんな哲学書よりも深く、鋭い。
「……詰んでないよ。ただ、自分という地獄をちょっと耕してただけ。」
「出た、それ。自分を愛しすぎて闇落ちするやつ。でも、それってただの暇つぶしですよね。」
「暇つぶしにしては、全財産を失ったくらい、心にダメージを負ってるんだけど。」
「自意識過剰なんですよ。誰もそんなに先輩のこと見てないのに。」
彼女は、私の目の前に新しい伝票を置いた。その動きは驚くほど現実的で、迷いがない。
楽園。
この清潔なショッピングモールのテラス席では、誰もが正しい自分を演じている。隙のないSNS映えする笑顔、最新のファッション、清潔な正義感。
けれど、私は知っている。
そのフィルターを通した画像の裏側には、誰もが隠し持っている人間味という名の汚泥が、ぐつぐつと煮え立っているはずだ。
私は、自分がダメなのだと叫びたい。
既読スルーに怯え、見栄を張るために嘘をつき、夜中に一人で、過去の失敗を思い出して枕に顔を埋める。
けれど、その情けなさ、その格好悪さこそが、私がこの世界に触れている、唯一の生々しい手触りなのだ。
絶望は、装飾品ではない。
それは、生命が放つ、最後の輝きだ。
ふと、駐車場の水溜りを見れば、排気ガスの油膜の中で、街灯の光が虹色に、不敵に、きらきらと瞬いている。
地獄は、外にあるのではない。私の内側に、こんなにも豊かに、こんなにも滑稽に広がっている。ならば、それを悲しむ必要がどこにあるだろう。
救いなんて、最初からない。
けれど、この救われなさを最高に面白い喜劇として眺める視力だけは、私に残されている。
私は、誰にともなく、小さく吹き出した。
胸の中の地獄が、ほんのりとした春の陽だまりに変容していく。
さあ、帰って、また新しい恥をかこう。
その恥の数だけ、私は私を、もっと深く愛せるようになるはずだ。
地獄の沙汰も、微笑み次第。