葉昨 ( はさく )

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お題【二人だけの秘密】
『蜜毒』

 不協和音。
それも、最高に心地よいやつ。

「私たち、地獄に落ちるね。」

 妻の妹である麻美は、そう言ってエクレアのクリームを鼻の頭につけた。
二十二歳の、どこまでも無駄に透明な皮膚をした女。
 彼女は人差し指でそれを無造作にひと拭いすると、自身の舌先へと吸い込ませた。

「地獄のほうが、現世よりはインフラが整っていそうだ。」

 僕は手元の原稿用紙に万年筆の先を突き立てる。
インクがじわりと、僕の無能の形に滲んだ。
 編集者からは「誰もが涙する、至高の純愛」を求められている。
書けるわけがない。
 僕の机の引き出しには、引き裂かれた聖人たちの死体が行き場を失って詰まっている。

 僕たちは、愛し合っているわけではない。
ましてや、肉体的な裏切りを重ねているわけでもない。
 ただ、毎週土曜日の午後三時、妻が熱心に通う「おフランス流泥泥美顔エステ」の留守中に、リビングの床に座って、お互いの人生における最も卑しい本音を交換し合う。

 それだけの関係。
 それだけの、致命的な犯罪。

「姉さん、最近、SNSの裏垢で同級生の自己破産をずっと監視してるよ。毎晩スクショを撮って、専用のフォルダに仕分けて笑ってる。」

「……実用的な悪意だな。」

「義兄さんは?」

「隣の家の犬が、明日突然死んでいればいいのにと毎朝思う。」

 沈黙。
 時計の針が、僕の小心な心臓を刻む。
チク、タク、チク、タク。
 長い、沈黙。
 世界で僕たちだけが、正しく腐敗しているような錯覚。
 触れたいとは思わない。
触れた瞬間に、この美しい泥沼が、ただの「ありふれた不倫」という、通俗小説のゴミ箱に回収されてしまうことを知っているからだ。

 僕たちの秘密。
それは、「お互いに、何ひとつとして高尚な思想を持っていない」という事実を、この世界で二人だけが共有しているということだった。

「ねえ、義兄さん」

 麻美が、 僕の万年筆を奪い取る。
 その冷たい指先が、僕の指の背をかすめた。ただそれだけのことなのに、剥き出しの神経に触れられたような痛みが走る。

「ひとって、どうして綺麗に生きようとするんだろうね。……その割に、みんな爪の垢とか、ちゃんと汚いのに。」

 世の中の聖人君子たちは、愛だの正義だのを語る。
だが、僕たちがここで語るのは、昨夜見たくだらない夢と、隣人の不幸へのささやかな拍手だけ。

「僕たちさ、生ゴミのさ底に溜まる、あの黒い汁の成分に似てるな。」

 僕は、自分で吐き出した言葉のあまりの卑しさに、少しだけ救われる。

 麻美は、くすっと笑った。

「……生々しいわ、最悪。でも、まあ、これ以上汚れないなら、安心する。」

 玄関の鍵が回る音がした。
人工的なラベンダーと、高級石鹸の、鼻を突くようなツンとした匂いが狭い玄関から流れ込んでくる。
 一万二千円の泥を顔に塗りたくった妻が、聖女のような顔で帰ってきたのだ。
麻美の食べ残したエクレアの、もったりと頽廃的なカスタードの匂いが、その人工的な香気によって一瞬で駆逐される。

「駅前でね、妊婦さんが派手に転んでたの。ああいう自己管理ができない人って、母親になる資格がないと思うのよね。」

 僕たちの秘密は、またしても完璧に、日常のシーツの下へと滑り込む。

 絶望する必要なんて、どこにもないし、ひとは、堕ちきったその場所でしか、本当の直立歩行を始められない。

 美しき濁流は、常に、最も静かな部屋の、最も平伏した床の上から湧き出る。

 原稿用紙の上の、滲んだインクの染みを見る。
それは「至高の純愛」には程遠い、しかし、世界で最も美しい泥沼の形。


 僕たちはこれからもこの泥の中で、互いの足首を掴み合いながら、正しく立って歩いていくのだ。

5/4/2026, 1:45:19 AM