お題【風に乗って】
『漂白』
愛している、と言った舌の根も乾かぬうちに、僕は自分の鼻毛が一本、風にそよいでいることに気づいてしまった。
彼女は、美しい。あまりに美しいので、僕は彼女の隣を歩くとき、いつも自分がドブ板の下で湿っている蛞蝓のように思えてならない。僕は、ふさわしくない。この清廉な初夏の午後にも、彼女の白いワンピースの裾を弄ぶ上品なそよ風にも、ましてや彼女の隣という特等席にも、僕は絶望的にふさわしくないのだ。
「どうしたの?」
彼女が首をかしげる。その刹那、僕の鼻毛を揺らした風が、今度は彼女の髪をふわりと持ち上げ、僕の顔面に彼女のシャンプーの香りを叩きつけた。暴力的なまでの清潔さ。僕は、溺れる。香りに溺れ、自意識に溺れ、そして鼻毛一本の存在に、僕の全人格が崩壊していく音を聞く。
僕は、言えない。鼻毛が出ているとも言えないし、君を愛している資格がないとも言えないし、本当は今すぐ道端の側溝に飛び込んで、永遠に隠れていたいとも言えない。
その時だ。
風が、さらに悪戯に吹き荒れた。
あろうことか、向こうから歩いてきた見知らぬおじさんのカツラが、見事な放物線を描いて僕らの足元へ転がってきたのである。
沈黙。
風が止まる。
彼女は目を見開き、僕はカツラと見つめ合う。
ああ、滑稽だ。僕の苦悩も、鼻毛も、彼女の美しさも、この一個の毛塊(けがたまり)の前では、すべてが無効化されてしまう。
僕は、笑った。いや、笑わされた。
悲劇を演じようとしても、風がそれを喜劇に変えてしまうのだ。僕がどれほど真面目に地獄を気取ってみたところで、世界は案外、のんきに笑い飛ばしたがっている。
僕は彼女の手を握る。汚れた手で、震える指で。
彼女も、ふふ、と吹き出した。
世界が僕を笑いものにするのなら、僕はその笑い声に乗って、どこまでも軽やかに堕ちていこう。
鼻毛も、愛も、今はただ夏の光を撥(は)ねている。
鼻毛が、光った。
チャンチャン。
お題【刹那】
『残滓』
六月の湿度は、肺の奥までねっとりと張り付いて、呼吸をするたびに水槽の底に沈んでいくような錯覚を覚える。放課後の教室。西日が斜めに差し込み、埃の粒が黄金色のダンスを踊っているけれど、それはちっとも美しくはない。ただの、燃えカスの群れだ。
私は、窓際の席で、消しゴムのカスを指の腹で丸めていた。
「ねえ、杏(あん)。さっきから何それ。消しゴムの団子、もう五個目だよ。」
不意に、隣の席の律子が声をかけてきた。彼女は教科書で顔を仰ぎながら、だらしなく椅子にふんぞり返っている。首筋に張り付いた髪が、なんだか無性に生々しくて、私は目を逸らした。
「……別に。やることも、やりたいことも、やるべきことも、何一つ見当たらないだけ。」
否定の言葉を並べるのは、私の悪い癖だ。そうやって、自分の周りに何重ものバリアを張らないと、この退屈な日常に飲み込まれて、消えてしまいそうな気がする。
「進路希望、また白紙で出したんでしょ。先生、困ってたよ。」
「いいじゃない。どうせ十年後には、私なんて生きてるかどうかも怪しいんだし。」
「まあたそれ? あんたのその、すぐ死ぬ死ぬ詐欺。飽きたんだけど。」
律子は「あー、暑い。」と呟いて、机に突っ伏した。
私は、丸めた消しゴムのカスを、窓の外へ向かって指で弾いた。
刹那。そうだ、私はこの一瞬だけに命を燃やしたいのだ。
永遠なんて、反吐が出るほど長ったらしくて、退屈で、まるで終わりのない校長先生の話みたいじゃないか。
「私、今この瞬間が、一番美しければそれでいいの。明日なんて、残りカスよ。出がらしの紅茶と同じ。そんなもの、飲みたくないわ。」
言いながら、自分でも「あ、今のフレーズちょっと格好いいかも。」なんて思ってしまうのが、私のどうしようもない浅ましさだ。
「出がらしねえ。でも、杏。あんたさっきから、その出がらしの紅茶、めちゃくちゃ大事そうにちびちび飲んでるじゃない。」
律子が指差したのは、私の机にあるペットボトルの午後の紅茶。
私は無意識に、最後の一口を惜しむように、ラベルの裏の成分表示を読みながら舐めるように飲んでいたのだ。
「……これは、喉が渇いてたから。ただの生理現象よ。」
「うそ。あんた、本当は明日が来るのが怖いくせに、格好つけてるだけでしょ。見ててこっちが恥ずかしくなるわ。」
恥ずかしい。
その言葉が、私の心臓を直撃した。
そう、恥ずかしいのだ。
刹那を気取って、斜に構えて、自分だけは他の馬鹿な生徒たちとは違うのだと、そんな安っぽいポーズをとっている自分。そのくせ、ペットボトルの底に残った数滴を未練がましく吸っている自分。
死にたいとか言いながら、日焼け止めはしっかり塗っている自分。
「……うるさい。あんたに何がわかるのよ。」
「わかんないけど。でも、あんたのその『私、特別です』みたいな顔、たまに蹴っ飛ばしたくなるくらい滑稽で、......まあ、嫌いじゃないよ。」
律子は、ドサリと立ち上がった。
「帰ろ。駅前のコンビニで、一番安いパピコ半分こしよ。それで全部チャラ。」
律子は私のカバンを勝手にひっ掴むと、さっさと教室を出て行った。
私は、一瞬だけ、真っ白な進路希望調査のプリントを見つめた。
未来。そんな大層なものは、まだいらない。
ただ、今のこの、死ぬほど恥ずかしいという熱量だけで、私は次の一歩を踏み出せる気がした。
廊下を走る律子の背中を追いかけながら、私は心の中で自分に毒づく。
ねえ、神さま。私は明日も、この滑稽な自意識を抱えて、コンビニの安いアイスを美味しいと感じてしまうのでしょう。
でも、それがなんだ。
地獄を生きるにしても、アイスが冷たいうちは、まだマシな方だと思いたいのです。
お題【生きる意味】
『軽装』
喉の奥に、苦い綿が詰まっている。
目覚めるたびに、私は私であることを、ひどく恥じる。カーテンを透過する薄っぺらな光が、畳の上の埃を丁寧に照らし出している。その一つ一つにさえ、私より確かな居場所があるように思えてならない。
「また、やってる。」
低く、乾いた声。部屋の隅、影の溜まり場に、その男はしゃがみこんでいた。
「……何が。」
「あら探しですよ。自分の命に、欠陥がないかどうかの。ない、ない、ない。否定のオンパレードだ。君の頭の中は、今、不採用通知の山でしょう。」
男は立ち上がり、私の本棚から適当な一冊を抜き取って、パラパラと指で弾いた。
「意味なんて、ないよ。そんなもの。」
「……分かってる。」
「いや、分かってない。君はまだ、意味という名の『救い』を待ってる。自分が無価値であることに、誰かの許可が必要だと思ってる。」
男が本を閉じる。バサリと、重い音がした。
「いいかい。絶望っていうのは、観客席に座ってちゃダメなんだ。舞台に上がって、その絶望と心中するつもりで、べろべろに酔っ払って見せなきゃ。意味がないから死ぬんじゃない。意味がないから、何をしてもいいんだ。」
男は窓を乱暴に開けた。湿った風が入り込み、私の頬を、冷たい平手打ちのように撫でた。
「腹が減ったな。」
「……え?」
「意味なんて、その程度のことですよ。空腹に勝てる哲学なんて、この世には一つもありゃしない。」
私は、自分の指先を見た。白く、頼りなく、それでも微かに震えながら、空気を掴もうとしている。
絶望は、私を殺さなかった。ただ、私を、余計な飾り付けのない一匹の獣へと引き戻しただけだった。
私たちは、意味という名の重いコートを脱ぎ捨てたとき、初めて、寒空の下で踊り出すための、軽やかな骨格を手に入れる。
神さまが用意し忘れた、生きる理由の空白を、私は今日、安っぽいジャムパンの甘さと、拭いきれない自意識の苦さで、勝手に塗りつぶして生きていく。
絶望は、ジャムの味がした。
お題【善悪】
『鱗』
善行というものは、いつも微かに石鹸の匂いがする。それも、安っぽい、どこか生活の草臥(くたび)れた匂いだ。
私は、その清潔な退屈に耐えきれず、いつも路地の裏側に落ちている湿った影を拾い集めては、心の裏地に縫い付けていた。
世間という大きな怪物は、よく良心などという、およそ実体のない硝子細工を後生大事に抱えて歩いている。あんなものは、ほんの少し指先で弾けば、あっけなく粉々に砕けて、人を傷つける凶器に変わるというのに。
私の知人に、佐伯という男がいる。彼は、絵に描いたような「善人」であった。道端に咲く名もなき花を慈しみ、財布を落とした老婆がいれば、自分の昼飯を抜いてまでその手を引く。彼の歩く後には、いつも春の陽だまりのような、どこか鼻の奥がツンとする温もりが残っていた。
私は彼を愛し、同時に、死ぬほど軽蔑していた。
彼の善意は、磨きすぎた鏡のように、私の内側に巣食う醜い感情を克明に映し出すからだ。嫉妬、倦怠、そして言葉にできない卑屈な欲望。彼の隣にいると、私の喉元にはいつも、苦いヨモギを噛み潰したような、不快な後味が残るのだった。
「君は、どうしてそんなに優しいんだい。」
ある夕暮れ、沈丁花の香りがねっとりと空気に絡みつく土手で、私は彼に問うた。
佐伯は、困ったような笑みを浮かべ、その白すぎる指先で地面の土を弄った。
「優しくなんてないさ。僕はただ、怖いんだよ。誰かを傷つけた時の、あの鉄錆みたいな血の匂いが、自分の手から消えなくなるのが。」
その時、私は見た。
彼の爪の間に挟まった、黒い土の汚れを。そして、その奥で妖しく光る、鱗のような冷徹な光を。
彼は、善人であることを「演じて」いたのではない。彼は、自らの中に飼っている巨大な悪意という名の獣を、善行という名の檻に閉じ込めて、震えながら監視していたのだ。
数日後、町で事件が起きた。
佐伯が、あんなに慈しんでいた花壇を、狂ったように踏み荒らし、それを止めに入った老婆を、無表情のまま突き飛ばしたというのだ。
人々は口々に言った。「裏切られた。」「信じていたのに。」「魔が差したのだ。」と。
だが、私は知っていた。彼にとって、その瞬間こそが唯一の救いだったのだ。檻を壊し、獣を解き放ち、ようやく彼は、自分自身の本当の肌触りを取り戻したのだ。
私は彼の家の前を通りかかった。
門陰に立つ彼は、かつてのような石鹸の匂いはせず、むせ返るような獣の、そして生々しい雨上がりの土の匂いをさせていた。
彼は私を見て、初めて、本当の意味で美しい、残酷な微笑を浮かべた。
私は思う。
真っ白な正義を貫くよりも、泥に塗れた罪を抱きしめる時の方が、人間はよっぽど神々しい。
結局のところ、善も悪も、同じ一つの布地の表と裏に過ぎない。ただ、どちらの面で涙を拭うか、それだけの違いなのだ。
私は家路につく。
夕闇の中、私の指先からは、いつの間にか、あの懐かしい鉄錆の匂いが漂い始めていた。
神さま、どうかお許しください。
私が今、この上なく幸福なのは、彼がようやく地獄へ落ちてくれたからです。
お題【流れ星に願いを】
『祝祭』
星が流れた。
あんな、ナイフで宙を切り裂くような無愛想な光に、何を頼めというのか。
僕は縁側で膝を抱え、夜風が運ぶ、湿った土と古い蚊取り線香の匂いに鼻を曲げていた。隣では、妻が熱心に目を閉じている。彼女の祈りは、きっと平穏とか無病息災とか、おしろい粉のように白くて正しい形をしているのだろう。
それに引き換え、僕の心はどうだ。
明日になれば、また恥の上塗りのような一日が始まる。借金のこと、書きあぐねた原稿のこと、知人に会った時に浮かべる卑屈な愛想笑いのこと。そう思うと、流星の輝きさえ、僕の情けなさを照らし出すサーチライトのように思えて、ひどく胃が痛む。
願う権利なんて、僕にはない。
僕は、このろくでもない世界を愛しきれず、かといって捨て去る勇気もない、中途半端な道化なのだ。
救ってください、なんて、神様が忙しい時に言うべき言葉じゃあない。
「あなた、何か祈ったの?」
顔を上げた妻の瞳には、まだ流星の残像が宿っているようだった。
僕は、自分の胸に居座る冷え冷えとした虚無を隠すように、少しだけ口角を吊り上げてみせた。それはきっと、泣き出しそうな子供が無理をして笑う、あの醜い表情だったに違いない。
「いや。このまま、何ひとつ変わらなきゃいいと、そう思っただけだよ。」
嘘じゃない。
僕は、この地獄を愛している。