お題【善悪】
『鱗』
善行というものは、いつも微かに石鹸の匂いがする。それも、安っぽい、どこか生活の草臥(くたび)れた匂いだ。
私は、その清潔な退屈に耐えきれず、いつも路地の裏側に落ちている湿った影を拾い集めては、心の裏地に縫い付けていた。
世間という大きな怪物は、よく良心などという、およそ実体のない硝子細工を後生大事に抱えて歩いている。あんなものは、ほんの少し指先で弾けば、あっけなく粉々に砕けて、人を傷つける凶器に変わるというのに。
私の知人に、佐伯という男がいる。彼は、絵に描いたような「善人」であった。道端に咲く名もなき花を慈しみ、財布を落とした老婆がいれば、自分の昼飯を抜いてまでその手を引く。彼の歩く後には、いつも春の陽だまりのような、どこか鼻の奥がツンとする温もりが残っていた。
私は彼を愛し、同時に、死ぬほど軽蔑していた。
彼の善意は、磨きすぎた鏡のように、私の内側に巣食う醜い感情を克明に映し出すからだ。嫉妬、倦怠、そして言葉にできない卑屈な欲望。彼の隣にいると、私の喉元にはいつも、苦いヨモギを噛み潰したような、不快な後味が残るのだった。
「君は、どうしてそんなに優しいんだい」
ある夕暮れ、沈丁花の香りがねっとりと空気に絡みつく土手で、私は彼に問うた。
佐伯は、困ったような笑みを浮かべ、その白すぎる指先で地面の土を弄った。
「優しくなんてないさ。僕はただ、怖いんだよ。誰かを傷つけた時の、あの鉄錆みたいな血の匂いが、自分の手から消えなくなるのが。」
その時、私は見た。
彼の爪の間に挟まった、黒い土の汚れを。そして、その奥で妖しく光る、鱗のような冷徹な光を。
彼は、善人であることを「演じて」いたのではない。彼は、自らの中に飼っている巨大な悪意という名の獣を、善行という名の檻に閉じ込めて、震えながら監視していたのだ。
数日後、町で事件が起きた。
佐伯が、あんなに慈しんでいた花壇を、狂ったように踏み荒らし、それを止めに入った老婆を、無表情のまま突き飛ばしたというのだ。
人々は口々に言った。「裏切られた。」「信じていたのに。」「魔が差したのだ。」と。
だが、私は知っていた。彼にとって、その瞬間こそが唯一の救いだったのだ。檻を壊し、獣を解き放ち、ようやく彼は、自分自身の本当の肌触りを取り戻したのだ。
私は彼の家の前を通りかかった。
門陰に立つ彼は、かつてのような石鹸の匂いはせず、むせ返るような獣の、そして生々しい雨上がりの土の匂いをさせていた。
彼は私を見て、初めて、本当の意味で美しい、残酷な微笑を浮かべた。
私は思う。
真っ白な正義を貫くよりも、泥に塗れた罪を抱きしめる時の方が、人間はよっぽど神々しい。
結局のところ、善も悪も、同じ一つの布地の表と裏に過ぎない。ただ、どちらの面で涙を拭うか、それだけの違いなのだ。
私は家路につく。
夕闇の中、私の指先からは、いつの間にか、あの懐かしい鉄錆の匂いが漂い始めていた。
神さま、どうかお許しください。
私が今、この上なく幸福なのは、彼がようやく地獄へ落ちてくれたからです。
4/27/2026, 7:27:51 AM