葉作(はさく)

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お題【風に乗って】
『漂白』

 愛している、と言った舌の根も乾かぬうちに、僕は自分の鼻毛が一本、風にそよいでいることに気づいてしまった。

 彼女は、美しい。あまりに美しいので、僕は彼女の隣を歩くとき、いつも自分がドブ板の下で湿っている蛞蝓のように思えてならない。僕は、ふさわしくない。この清廉な初夏の午後にも、彼女の白いワンピースの裾を弄ぶ上品なそよ風にも、ましてや彼女の隣という特等席にも、僕は絶望的にふさわしくないのだ。

「どうしたの?」

 彼女が首をかしげる。その刹那、僕の鼻毛を揺らした風が、今度は彼女の髪をふわりと持ち上げ、僕の顔面に彼女のシャンプーの香りを叩きつけた。暴力的なまでの清潔さ。僕は、溺れる。香りに溺れ、自意識に溺れ、そして鼻毛一本の存在に、僕の全人格が崩壊していく音を聞く。

 僕は、言えない。鼻毛が出ているとも言えないし、君を愛している資格がないとも言えないし、本当は今すぐ道端の側溝に飛び込んで、永遠に隠れていたいとも言えない。

 その時だ。
 風が、さらに悪戯に吹き荒れた。
 あろうことか、向こうから歩いてきた見知らぬおじさんのカツラが、見事な放物線を描いて僕らの足元へ転がってきたのである。

 沈黙。
 風が止まる。
 彼女は目を見開き、僕はカツラと見つめ合う。
 ああ、滑稽だ。僕の苦悩も、鼻毛も、彼女の美しさも、この一個の毛塊(けがたまり)の前では、すべてが無効化されてしまう。

 僕は、笑った。いや、笑わされた。
 悲劇を演じようとしても、風がそれを喜劇に変えてしまうのだ。僕がどれほど真面目に地獄を気取ってみたところで、世界は案外、のんきに笑い飛ばしたがっている。

 僕は彼女の手を握る。汚れた手で、震える指で。
 彼女も、ふふ、と吹き出した。

 世界が僕を笑いものにするのなら、僕はその笑い声に乗って、どこまでも軽やかに堕ちていこう。

鼻毛も、愛も、今はただ夏の光を撥(は)ねている。

鼻毛が、光った。

チャンチャン。

4/30/2026, 7:20:10 AM