葉作(はさく)

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お題【刹那】
『残滓』

 六月の湿度は、肺の奥までねっとりと張り付いて、呼吸をするたびに水槽の底に沈んでいくような錯覚を覚える。放課後の教室。西日が斜めに差し込み、埃の粒が黄金色のダンスを踊っているけれど、それはちっとも美しくはない。ただの、燃えカスの群れだ。
 私は、窓際の席で、消しゴムのカスを指の腹で丸めていた。

「ねえ、杏(あん)。さっきから何それ。消しゴムの団子、もう五個目だよ。」

 不意に、隣の席の律子が声をかけてきた。彼女は教科書で顔を仰ぎながら、だらしなく椅子にふんぞり返っている。首筋に張り付いた髪が、なんだか無性に生々しくて、私は目を逸らした。

「……別に。やることも、やりたいことも、やるべきことも、何一つ見当たらないだけ。」

 否定の言葉を並べるのは、私の悪い癖だ。そうやって、自分の周りに何重ものバリアを張らないと、この退屈な日常に飲み込まれて、消えてしまいそうな気がする。

「進路希望、また白紙で出したんでしょ。先生、困ってたよ。」

「いいじゃない。どうせ十年後には、私なんて生きてるかどうかも怪しいんだし。」

「まあたそれ? あんたのその、すぐ死ぬ死ぬ詐欺。飽きたんだけど。」

 律子は「あー、暑い。」と呟いて、机に突っ伏した。
 私は、丸めた消しゴムのカスを、窓の外へ向かって指で弾いた。

 刹那。そうだ、私はこの一瞬だけに命を燃やしたいのだ。
 永遠なんて、反吐が出るほど長ったらしくて、退屈で、まるで終わりのない校長先生の話みたいじゃないか。

「私、今この瞬間が、一番美しければそれでいいの。明日なんて、残りカスよ。出がらしの紅茶と同じ。そんなもの、飲みたくないわ。」

 言いながら、自分でも「あ、今のフレーズちょっと格好いいかも。」なんて思ってしまうのが、私のどうしようもない浅ましさだ。

「出がらしねえ。でも、杏。あんたさっきから、その出がらしの紅茶、めちゃくちゃ大事そうにちびちび飲んでるじゃない。」

 律子が指差したのは、私の机にあるペットボトルの午後の紅茶。
 私は無意識に、最後の一口を惜しむように、ラベルの裏の成分表示を読みながら舐めるように飲んでいたのだ。

「……これは、喉が渇いてたから。ただの生理現象よ。」

「うそ。あんた、本当は明日が来るのが怖いくせに、格好つけてるだけでしょ。見ててこっちが恥ずかしくなるわ。」

 恥ずかしい。
 その言葉が、私の心臓を直撃した。
 そう、恥ずかしいのだ。

 刹那を気取って、斜に構えて、自分だけは他の馬鹿な生徒たちとは違うのだと、そんな安っぽいポーズをとっている自分。そのくせ、ペットボトルの底に残った数滴を未練がましく吸っている自分。
 死にたいとか言いながら、日焼け止めはしっかり塗っている自分。

「……うるさい。あんたに何がわかるのよ。」

「わかんないけど。でも、あんたのその『私、特別です』みたいな顔、たまに蹴っ飛ばしたくなるくらい滑稽で、......まあ、嫌いじゃないよ。」

 律子は、ドサリと立ち上がった。

「帰ろ。駅前のコンビニで、一番安いパピコ半分こしよ。それで全部チャラ。」

 律子は私のカバンを勝手にひっ掴むと、さっさと教室を出て行った。
 私は、一瞬だけ、真っ白な進路希望調査のプリントを見つめた。

 未来。そんな大層なものは、まだいらない。
 ただ、今のこの、死ぬほど恥ずかしいという熱量だけで、私は次の一歩を踏み出せる気がした。

 廊下を走る律子の背中を追いかけながら、私は心の中で自分に毒づく。
 ねえ、神さま。私は明日も、この滑稽な自意識を抱えて、コンビニの安いアイスを美味しいと感じてしまうのでしょう。
 
 でも、それがなんだ。
 
地獄を生きるにしても、アイスが冷たいうちは、まだマシな方だと思いたいのです。

4/28/2026, 11:29:17 AM