お題【楽園】
『鱗光』(古典的自己愛)
自分を嫌悪するという行為は、その実、最も陰湿で、かつ熱烈な自己愛の告白である。
私は、私という人間に絶望しているのではない。私という人間に完璧な神であることを期待し、その期待が裏切られるたびに、恋人に裏切られたような顔をして、勝手に傷ついているだけなのだ。
愛していなければ、これほど執拗に自分を呪ったりはしない。無関心な他人の醜態など、一秒後には忘れているではないか。
「先生、またそんな、魂を質入れしたような顔をして。お豆腐が、あなたの陰気な視線で腐っちゃいますよ。」
角の豆腐屋の娘、お秋が、真っ白な湯気の中から声をかけてくる。彼女の、この世の真理など一丁の豆腐よりも軽いと言わんばかりの屈託のなさが、今の私には、どんな哲学書よりも深く、鋭い。
「お秋ちゃん。僕は今、自分という地獄を耕しているんだ。自分を愛しすぎるがゆえに、この庭には真っ黒な毒の花しか咲かないんだよ。」
「はいはい。そんなことより十円。お豆腐、持っていきますか?」
「……十円か。今の僕には、その銀貨の軽やかさが、全宇宙の質量よりも重たいんだ。」
私は豆腐一丁を買う勇気すらなく、自分の影を踏みつけながら、「楽園」と称されるこの街を歩く。
楽園。ああ、なんと滑稽な響きだろう。
人々は一様に、清潔な幸福を装っている。けれど、その薄皮一枚下側には、誰もが隠し持っている人間味という名の汚泥が、ぐつぐつと煮え立っているはずだ。
私は、自分がダメなのだと叫びたい。
約束を破り、嘘を吐き、見栄を張り、そのくせ夜中に一人で、恥ずかしさにのたうち回る。
けれど、その情けなさ、その格好悪さこそが、私がこの世界に触れている、唯一の生々しい手触りなのだ。
絶望は、装飾品ではない。
それは、生命が放つ、最後の輝きだ。
ふと、足元のドブ川を見れば、汚泥の中で街灯の光が、魚の鱗のように不敵に、きらきらと瞬いている。
地獄は、外にあるのではない。私の内側に、こんなにも豊かに、こんなにも滑稽に広がっている。ならば、それを悲しむ必要がどこにあるだろう。
救いなど、どこにもない。
けれど、この救われなさを最高に面白い喜劇として眺める視力だけは、私に残されている。
私は、誰にともなく、小さく吹き出した。
胸の中の地獄が、ほんのりとした春の陽だまりに変容していく。
さあ、帰って、また新しい恥をかこう。
その恥の数だけ、私は私を、もっと深く愛せるようになるはずだ。
地獄の沙汰も、微笑み次第。
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『虹膜』(現代的自意識)
自分を嫌悪するという行為は、その実、最も陰湿で、かつ熱烈な自己愛の告白である。
私は、私という人間に絶望しているのではない。私という人間に完璧な神であることを期待し、その期待が裏切られるたびに、恋人に裏切られたような顔をして、勝手に傷ついているだけなのだ。
愛していなければ、これほど執執に自分を呪ったりはしない。無関心な他人の醜態など、一秒後には忘れているではないか。
「あ、また『人生詰んだ』みたいな顔してる。コーヒー、冷めちゃいますよ?」
バイト先の後輩、結実(ゆみ)が、スマホをいじりながら無造作に言った。彼女の、この世の悩みなんてアプリの更新程度にしか思っていないような軽やかさが、今の私には、どんな哲学書よりも深く、鋭い。
「……詰んでないよ。ただ、自分という地獄をちょっと耕してただけ。」
「出た、それ。自分を愛しすぎて闇落ちするやつ。でも、それってただの暇つぶしですよね。」
「暇つぶしにしては、全財産を失ったくらい、心にダメージを負ってるんだけど。」
「自意識過剰なんですよ。誰もそんなに先輩のこと見てないのに。」
彼女は、私の目の前に新しい伝票を置いた。その動きは驚くほど現実的で、迷いがない。
楽園。
この清潔なショッピングモールのテラス席では、誰もが正しい自分を演じている。隙のないSNS映えする笑顔、最新のファッション、清潔な正義感。
けれど、私は知っている。
そのフィルターを通した画像の裏側には、誰もが隠し持っている人間味という名の汚泥が、ぐつぐつと煮え立っているはずだ。
私は、自分がダメなのだと叫びたい。
既読スルーに怯え、見栄を張るために嘘をつき、夜中に一人で、過去の失敗を思い出して枕に顔を埋める。
けれど、その情けなさ、その格好悪さこそが、私がこの世界に触れている、唯一の生々しい手触りなのだ。
絶望は、装飾品ではない。
それは、生命が放つ、最後の輝きだ。
ふと、駐車場の水溜りを見れば、排気ガスの油膜の中で、街灯の光が虹色に、不敵に、きらきらと瞬いている。
地獄は、外にあるのではない。私の内側に、こんなにも豊かに、こんなにも滑稽に広がっている。ならば、それを悲しむ必要がどこにあるだろう。
救いなんて、最初からない。
けれど、この救われなさを最高に面白い喜劇として眺める視力だけは、私に残されている。
私は、誰にともなく、小さく吹き出した。
胸の中の地獄が、ほんのりとした春の陽だまりに変容していく。
さあ、帰って、また新しい恥をかこう。
その恥の数だけ、私は私を、もっと深く愛せるようになるはずだ。
地獄の沙汰も、微笑み次第。
4/30/2026, 11:11:12 AM