葉昨 ( はさく )

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お題【愛を叫ぶ。】
『換声点』

 鼓膜の奥で、血液が急ぎ足で流れる音がする。ドク、ドク、と、それは僕がまだ生きていて、君に対してひどく不誠実であることを告発し続けていた。
 夕暮れの教室。チョークの粉が光を反射して、まるで吸い込んではいけない宝石のように宙を舞っている。

「愛してるなんて、よくあんな薄っぺらなプラスチックの板みたいな言葉、平気で使えるよねぇ。」

 君が、机の上に散らばったプリントを指先でなぞりながら言う。その指先の、爪の生え際にある小さなささくれ。僕はそればかりを見ている。

「言葉は全部、嘘だよ。」

「……極論すぎる。」

「だってそうでしょ? 『悲しい』って言った瞬間、本当の悲しみは半分に削られて、相手に伝わりやすい形に加工されちゃうんだもん。愛なんて特にそう。パッケージされた既製品。誰かが作った型に、自分の生々しい感情を無理やり流し込んでるだけ。」

 君の言葉は鋭い。でも、その声はどこか、震える弦のようにも聞こえた。
 僕は窓枠に肘をつく。錆びた鉄の匂いが鼻腔をくすぐり、遠くで練習している野球部の、泥にまみれた掛け声が、粘り気のある空気の中を泳いでくる。

「じゃあ、僕が今、何も言わないのは?」

「それは、沈黙っていう名前の嘘。」

「厳しいなぁ。」

「ふふっ。」

「……まあたしかに、正直になろうとすればするほど、僕たちは記号から遠ざかるはずなのかも。でも、記号を使わなきゃ、君に触れることさえできない。」

 僕は喉のあたりをさする。
 変声期を過ぎて、少し低くなったこの声。
 おとなになりつつある僕たちの喉には、常に言えなかった言葉の死骸が詰まっている。

 本当は。
 君の横顔に見惚れているこの一秒。
 肺の奥がキュッとなる、この酸素の足りない感覚。
 それを表現する術を、僕はまだ持っていない。
 だから、僕が「好きだ」なんて口にしたら、それはその瞬間に、最大級の嘘に成り下がる。

「ねえ、実験してみない?」

 君が突然、顔を上げた。
 瞳の奥に、悪戯な、あるいは祈るような光が宿る。

「実験?」

「一番、嘘じゃない叫び声を出すの。言葉を捨ててさ。この世界にあるどんな語彙にも頼らないで、喉の奥にある熱い塊を、そのまま外に放り出す。それがもし重なったら、それが一番の正解ってことにしようよ。」

 バカげている。
 哲学気取りの、子供じみた遊びだ。
 でも、僕の心臓は、あきらかにその非効率を求めていた。
 整えられた文章。
 推敲された告白。
 そんなもの、もう飽き飽きだ。

 せーの、で。
 僕たちは窓の外に向かって、肺の中の空気を全部、音に変えた。

「あああああああああああああああああ!!」
「うあああああああああああああああ!!」

 喉が、ひりつく。
 喉仏が激しく上下し、粘膜が摩擦で焼けるようだ。
不意に、喉の奥のスイッチが勝手に切り替わった。地声が鋭く裏返り、自分でも聞いたことのない、鳥の断末魔のような高音が鼓膜を突き抜ける。

横目で見た君の開いた口元から、夕日を反射して、一本の細い唾液の糸がひどく不格好に伸びて千切れた。
僕と彼女の境界線が、そのひび割れた音の中で混ざり合っていく。

 それは叫びというより、排泄だった。
 美しくもなければ、文学的でもない。
 ただの、内臓の震え。
 でも。
 夕闇に溶けていくその汚いノイズの中に、僕は確かに、どんな詩集を読んでも見つからなかった「僕の本当」を見た。

 叫び終えると、世界は静まり返っていた。
 耳の奥で、キーンという残響が踊っている。
出し切った喉の奥には、もう地声も裏声もなかった。切り替わりの摩擦熱だけが、僕たちの換声点としてそこに残っている。

 君は、涙目になって笑っていた。
 僕も、おそらくひどい顔をしていた。

「……ねえ、今の、どうだった?」

「最悪。喉痛いし、耳鳴りする。」

「ふふ、だよねぇ。でも、ちょっとだけマシだった。嘘を吐くエネルギーを、全部音に変換した感じ!」

 僕は思う。
 愛とは、きっと、言葉という嘘を突き抜けた先にある騒音のことだ。
 綺麗に飾られた花束を渡すことではなく、泥だらけの根っこを、そのまま相手の前に曝け出すこと。
 逆説的だけど。
 伝わらないことを自覚した叫びだけが、唯一、嘘を免れる。

「明日も、叫ぶ?」

「まあ、いいよ。でも次は、もっと変な声にするよ。」

 君の手が、僕の袖を小さく引いた。
 体温が伝わってくる。
 言葉にすれば「温かい」という五文字。
 でも、この、皮膚の下で脈打つ複雑なリズムを、僕はやっぱり、沈黙と騒音の間に閉じ込めておくことにした。

 饒舌な真実は、もう要らない。

無。

5/11/2026, 12:08:11 PM