お題【子供のままで】
『痣』
湿ったアスファルトの匂いが、安物のストッキング越しに肌に張り付く。
三十一歳。私の人生は、いつの間にか誰にも怒られないための消去法で埋め尽くされていた。コンビニのサラダのドレッシングを選ぶように、一番無難な絶望を選んで生きている。
「ねえ、お姉さんの膝、変な色。」
マンションの駐輪場。薄暗い外灯の下で、補助輪付きの自転車に跨った、どこか懐かしく感じられる少女が私を見上げていた。
タイトスカートの裾から覗く私の膝には、いつの間にか身に覚えのない青あざができている。
「これ? ……どっかにぶつけたのかも。」
「痛くないの?」
「痛かったはずなんだけど、忘れちゃった。」
本当にそうだった。大人の体は、痛みを検知する前に、脳が効率という麻酔を打つ。泣いている暇があるなら、明日の会議の資料を直せ。傷ついている暇があるなら、愛想笑いの角度を調整しろ。
「いいなあ。私は、蚊に刺されただけで、世界が終わるくらい痒いのに。」
「……いいことじゃない。ちゃんと生きてる証拠だよ。」
「お姉さんは、生きてないの?」
無邪気なナイフ。少女は、カゴに入れたしおれたタンポポをいじりながら続けた。
「私のパパね、夜中にずっとパソコンと喧嘩してるよ。たまに、誰もいないのに『申し訳ございません』って言ってる。あれ、誰に謝ってるのかな。」
「それは……見えない神様みたいなものにだよ。社会っていう、すごく機嫌の悪い神様。」
「神様って、パパをいじめて楽しいのかな。」
私は、駐輪場のコンクリートに腰を下ろした。冷たさが、じわりと骨に響く。
子供の苦悩は、いつも具体的だ。転んだ。アイスが落ちた。暗闇が怖い。
大人の苦悩は、いつも抽象的だ。虚無。疎外。将来の不安。
どちらが残酷かなんて、比べるまでもない。私たちは、実体のない幽霊と戦うために、自分の肉体を鈍らせていく。
「ねえ。お姉さんのその『あざ』、私が模様にしてあげようか。」
少女は、ランドセルから油性マジックを取り出した。
「何すんのよ。」
「しるしをつけるの。お姉さんが、ちゃんとここでぶつけたよっていう、しるし。」
少女は、私の膝の青いあざを囲むように、真っ赤なマジックで花びらを描き始めた。
生々しい、アルコールの匂い。
膝に触れる、小さな指の筆圧。
「……変な感じ。消えなくなったらどうすんの。」
「消えない方がいいじゃん。忘れたふりするから、中身が腐っちゃうんだよ。」
逆説だ。治ることを急ぐから、傷は膿む。
大人になるということは、傷を隠す技術を覚えることではない。傷を、自分だけの消えない刺青として、誇りを持って晒し続けることだったのかもしれない。
描き終えた少女は、満足そうに立ち上がった。
私の膝には、不格好で、鮮血のような、醜い花の絵。
明日、ストッキングを履いても、その下でこの花は確実に呼吸を続けるだろう。
私は、少女の自転車のハンドルを軽く握った。
「ねえ、お姉さん。」
「なあに。」
「その花、枯れないように、たまに自分でなぞってね。」
少女は、重たい補助輪をガラガラと鳴らしながら、闇の奥へと消えていった。
少女が去ったあと、ふと足元を見ると、補助輪の跡なんてどこにもついていなかった。ただ、私の膝にはまだ鼻の奥がスッとするアルコールの匂いと、生々しい赤色がこびりついている。
「……なんだ、私が描いたのか。」
私は一人、駐輪場の冷たい床で、自分の膝を見つめた。
痛みが、戻ってきた。
ズキズキと、熱を持って。
それは、私が私として、まだ腐らずにここにいるという、紛れもない感触だった。
私は、汚れた膝を抱え込み、小さく呟いた。
「……明日、この足で一番嫌いな奴を蹴り飛ばしてきてもいいかな。」
5/12/2026, 1:08:28 PM