お題【モンシロチョウ】
『境界』
「ねえ、なんで大人は、タンポポとモンシロチョウを分けて考えるの?」
給食のあとの長い休み時間。理科室の裏で、凛(りん)がしゃがみこんで言った。
彼女の視線の先では、黄色い花びらの上に、白い翅がぴたりと重なっている。風が吹くと、どちらが揺れているのか分からなくなる。
「分けてるかな。花は花、虫は虫でしょ。」
私は、自分の上履きで地面に描いた魔法陣を修正しながら答えた。
「変だよ。だって、あれはくっついてる間、ひとつの『黄色くて白い何か』じゃん。名前をつけるから、バラバラになっちゃうんだよ。もったいない。」
凛の言葉は、いつも少しだけ世界を溶かす。
大人が分類して片付けてしまったものを、彼女はもう一度ごちゃ混ぜにして、魔法みたいに手触りを取り戻していく。
「凛、見て。あっちのチョウ、私のこと見てるよ。」
「どれ? ……本当だ。でも、見てるんじゃなくて、一花(いちか)の色を聴いてるのかもよ。」
「色を聴く?」
「そう。大人は『見る』しかしないけど、チョウはきっと、赤とか青を音で感じてるんだよ。だから、あんなにふらふら飛ぶの。音楽に合わせて踊ってるみたいに。」
私たちは、しばらく黙ってその踊りを眺めた。
太陽の光が、チョウの翅を透かして、地面に淡い影を落としている。その影は、白くない。ただの、頼りない灰色だ。
「ねえ、私、昨日お母さんと喧嘩した。」
「なんで?」
「ピアノの練習しなかったから。お母さん、『将来のためよ』って言うんだもん。でも、将来っていつ? 明日のこと? 十年後のこと? そんなの、今このチョウがどこに飛ぶかより、ずっとどうでもいいことなのに。」
凛は、足元の砂を指でいじった。
爪の間に、黒い土が入り込む。
凛はその指先を躊躇なく口に含み、言葉を喋るための舌で、黒い土の味を確かめるようにペロリと舐めた。
「大人は、今を見てないよね。いつも、ここじゃないどこかの話ばっかり。でもさ、私は今、このチョウの翅の粉が、私の指についた瞬間のことだけを考えていたいんだ。」
彼女は、不意に手を伸ばした。
指先が、白い翅に触れるか触れないかの距離で止まる。
チョウは逃げない。まるで、凛の指もまた、何かの花の一部だと思っているみたいに。
「触らないの?」
「触ったら、私のものになっちゃうでしょ。私のものになったら、もうこれは世界のものじゃなくなる。」
凛が小さく息を吐くと、モンシロチョウはふわりと浮いた。
それは、重力から自由になったというより、世界という大きな呼吸に、ただ身を任せただけのように見えた。
「ねえ、死んだらどうなると思う?」
「……天国に行くとか?」
「ううん。きっと、名前がなくなるんだよ。モンシロチョウでもなくなるし、凛でもなくなる。ただの『光』とか『土』とかに戻るの。それって、すごく自由だと思わない?」
凛の瞳の中に、小さな白い粒が映っている。
それは、大人が迷信や理屈で塗りつぶしてしまった、名付けようのない純粋な恐怖と、それ以上の憧れだった。
チャイムが鳴った。
現実が、鋭い金属音で私たちの境界を切り裂いていく。
私たちは立ち上がり、膝についた砂を払った。
急に現実に戻された凛の鼻から、一筋の薄い鼻水が垂れて、彼女はそれを上着の袖で無造作に拭った。
「行こう。次は算数だ。」
「やだなぁ。数字って、一番世界をバラバラにするよね。」
凛は最後に一度だけ、空を仰いだ。
そこにはもうチョウの姿はなかったけれど、彼女の網膜には、まだ銀色の残像が、音楽のように鳴り響いている。
私は彼女の横顔を見て、ふと思った。
私たちはいつか、この「名前のない世界」を忘れて、ただの大人になるのだろうか。
「あれはモンシロチョウだ」と指差して、それだけで分かったつもりになる、退屈な生き物に。
「凛、忘れないでね。」
「何を?」
「さっきの、色を聴く話。」
凛は、いたずらっぽく笑って、私の耳元で囁いた。
「大丈夫。忘れたふりをするのが、大人になるってことでしょ?」
彼女の白いシャツが、校舎の影に吸い込まれていく。
その背中は、どんな標本よりも脆く、そして何物にも捕らえられないほど、鋭利に輝いていた。
定義は、檻である。
境界線の消えかかった魔法陣を、もう一度だけ、強く踏みしめる。
だから私は、まだ名前のない空き地で、ケンケンパを止めない。
5/10/2026, 11:56:15 AM