お題【風に身をまかせ】
『風葬』
ねえ、君は、風を見たことがあるかい。
あるわけないか。風は透明で、ただ肌を嬲る(なぶる)だけの、目に見えない悪意のようなものだから。でもね、僕には見えるんだ。あの、緑の匂いを孕んだ、生温かい、澱んだ夏の終わりの、空気の身悶えが。
君が「なぜ死にたいの」と、いつだったか木犀の影で聞いた。あのときの君の瞳は、まるで硝子玉みたいに無機質で、だからこそ、僕の胸をひどく抉った。
手紙なんて、時代遅れだね。でも、文字を指先で汚さなければ、僕は僕の輪郭を保てない。
「暑いね。」
あのとき、君はそう言ったっけ。
「そうだね。」
僕は嘘をついた。本当は、凍えていた。
「風が吹くと、少しだけ、楽になるよ。」
「どうして?」
「自分が、薄くなる気がするから。」
君は笑わなかった。ただ、僕の、汗で張り付いた前髪を、不器用な指で払った。あの指の、かすかな煙草の苦みと、乾いた皮膚の感触を、今でも舌の裏で覚えている。
自殺、という言葉は、実に下品で、即物的一般的で、嫌悪を催す。世間はそれを「命を絶つ」と呼ぶ。絶望の果ての、暗い穴への転落だと。
冗談じゃない。
あれは、溢れんばかりの、あまりにも過剰な、生への執着の、暴発なんだ。
生きたくて、生きたくて、完璧に、純粋に、美しく生きたくて、だけどこの肉体という入れ物が、あまりにも不純で、醜くて、耐えられないから、中身をぶち撒けるだけのことなんだよ。
死に向かうのではない。生の、究極の完成へ向かうんだ。
「ねえ、聞いてる?」
君の声。回想の中で、君が僕の袖を引く。
「聞いてるよ。」
「嘘。どこ見てるの。」
「風の、行く先。」
「また、それ。」
君は怒ったように、でも、どこか諦めたように、僕の手の甲を抓(つつ)んだ。痛かった。爪の形に白く残った皮膚が、赤く染まっていくのを見て、僕は自分が生きている人間であることを、ひどく恥じた。
人間は、なぜ、こうも歩く肉塊として完璧なんだろう。心臓が動く。血が巡る。飯を食えば、排泄する。そのおぞましい、規則正しい自然の営みが、僕を息苦しくさせる。
僕は、ただの風になりたかった。
誰の記憶にも残らず、境界線もなく、ただ世界を吹き抜ける、透明な、現象になりたかった。
「冷たいね。」
君が、僕の頬に触れたのは、いつだったか。
「僕が?」
「ううん、風が。」
「秋が来るんだよ。」
「寂しい?」
「まさか。嬉しいよ。」
嘘。寂しくて、狂いそうだった。秋が来れば、世界はまた、僕を置いて、整然と、冷酷に、次の季節へ進んでしまう。僕だけが、この、腐りかけた夏の澱みの中で、足をとられて、動けない。
君を愛していた。それは、本当だ。
でも、僕の愛は、君という個性を愛するのではなく、君を通して見る、世界の美しさを愛していた。
なんて傲慢で、利己的な、薄汚い男だろう。
君は僕のそんな、道化の裏の、冷徹な計算を見抜いていたね。だから、決して、僕の核心には触れようとしなかった。
「いかないで。」
君が、いつか、僕の背中に向かって、掠れた声で呟いた。
「どこへ?」
「どこか、遠くへ。」
「いかないよ。ここにいる。」
僕は、君の前に立っていた。でも、心は、もう何マイルも先の、名前もない荒野を、風に引きちぎられながら、走っていた。
言葉は、いつでも僕を裏切る。発した瞬間に、それは死んだ記号になる。
だから、この手紙も、君が読む頃には、ただの、インクの染みだ。
僕は、これから、風に身を任せる。
飛び降りるとか、首を吊るとか、そういう卑俗な儀式ではない。
ただ、僕という存在の、最後のネジを、そっと緩めるだけだ。
そうすれば、僕を縛り付けていた、この重たい自意識の皮膚が破れて、中から、純粋な、透明な僕が、吹き出して、君の髪を揺らすだろう。
ねえ、悲しまないで。
これは、敗北ではない。
生きることに、あまりにも真面目すぎた僕の、これが、唯一の、烈しい告白なのだから。
君が、また、僕を呼ぶ。
「ねえ。」
「なに。」
「風、止まったね。」
いや、今から、吹くんだよ。
窓の外で、ゴー、と、世界が鳴った。
僕の耳の奥で、血液が、最後のダンスを踊っている。
君の、あの、かすかに甘い、皮膚の匂いが、鼻腔の奥で、弾けた。
僕は、完成する。
さようなら。
お元気で。
もう、痛くない。
宛先不明。
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追伸『混凝土』
ねえ、君は、本当に風になれたのかい。
手紙が届いたのは、よく晴れた、酷く混凝土(コンクリート)の匂いが立ち上る、九月の火曜日だった。
郵便受けの底で、それは死んだ魚のように冷たく横たわっていた。君の、あの、右上がりの、今にも消え入りそうな、筆圧の薄い文字。
読まなくても、中身は分かっていた。
だって、あの火曜日の朝、僕の部屋の窓を叩いた風は、妙に粘り気があって、君の嫌いな安煙草の、あるいは、君がいつも隠していた、あの耳の後ろの、酸っぱい汗の匂いがしたから。
「死んださ。」
誰かが、僕の頭の中で、そう呟いた。
「知ってるよ。」
僕は、誰もいない台所で、冷えた麦茶を飲みながら、そう返事をした。
君の葬式は、まるで出来の悪い喜劇のようだった。
親族は泣き、友人(と自称する、君がかつて軽蔑の対象と呼んだ奴ら)は神妙な顔をして、君の繊細さを記号のように消費していた。
「可哀想に。」「生きづらかったのね。」
反吐が出る。
君は可哀想なんかじゃない。
君は、僕たちを見下して、僕たちの不潔な「生」を嘲笑って、一人で完璧な、美しい記号になりおおせた、最も傲慢な、勝利者だ。
「綺麗だね。」
棺の中の君を見て、誰かが言った。
「そうだね。」
僕はまた、嘘をついた。
君の顔は、おしろいで真っ白に塗られて、まるで出来の悪い蝋人形だった。
生きていたとき、あんなに僕を苛立たせ、愛おしく思わせた、あの人間らしい不完全さが、綺麗に、残酷に、抹消されていた。
僕はそれを見て、激しい怒りと、それから、どうしようもない空腹を覚えた。
葬式の帰り道、僕は駅前の暖簾をくぐり、脂ぎったカツ丼を、喉がかきむしられるような思いで、一粒残らず平らげた。
君の完成した世界の外側で、僕は、まだこんなに汚く、胃袋を動かして、生きている。
手紙を、もう一度、読む。
『死に向かうのではない。生の、究極の完成へ向かうんだ。』
相変わらず、酔っているね。自分の言葉に、自分の苦悩に。
君は、自殺の本質を生の暴発だなんて高尚に飾ってみせたけれど、それは残された僕たちに対する、最悪のテロルだ。
君が死んだせいで、僕の日常は、すべて君の不在という色に染まってしまった。
空を流れる雲も、街路樹の騒めきも、全部、君の「ほら、僕を見て」という、自意識の囁きに聞こえる。
君は風になったんじゃない。
僕という人間に、一生、消えない呪いをかけたんだ。
「ねえ。」
夜、ベランダに出ると、君の声がする。
「なに。」
「僕、上手に消えられたかな。」
「最悪だよ。」
僕は、手すりに腕を乗せて、夜の街を見下ろす。
ネオンが、君の好きだった、あの硝子玉のような色で点滅している。
君の言う純粋な生なんて、この世界には最初から、どこにもなかった。
あるのは、この、泥にまみれて、他人の目を気にして、道化を演じて、それでも明日を生きなければならない、みっともない「俗」だけだ。
君はその俗を拒絶して、神様の領域へ逃げ込んだ。
卑怯者。
でも、悔しいけれど、僕は今、君のその卑怯さに、どうしようもなく魅了されている。
君のいない世界は、驚くほど静かで、そして、退屈だ。
誰も、僕の前髪を払ってはくれない。
誰も、僕の皮膚の匂いを、そんなに烈しく求めてはくれない。
手紙を、ライターの火で炙る。
紙の端から、黒く、丸まりながら、文字が消えていく。
「さようなら」が、灰になる。
その灰が、夜の風に浚われて、僕の頬を、ちくりと刺した。
冷たかった。
でも、もう、騙されない。
君は、完成した。
そして僕は、また、明日を、汚く生きる。
風は、ただの空気の移動だ。
5/14/2026, 12:40:22 PM