お題【一年後】
『反芻』
「金魚ってさ、自分の糞を食べて、それから吐き出すんだよ。知ってる?」
夏休みの終わりの、あのぬるい風が吹く放課後だった。
理科室の前の廊下。
瑞希(みずき)は、自分の足元に落ちた消しゴムの屑を、爪先で細かく踏み潰しながら言った。
白漆喰の壁には、夕日がべっとりと、まるでトマトソースをこぼしたみたいに赤く張り付いていた。
古い校舎特有の、埃とワックスと、それから誰かの生乾きの雑巾が混ざったような匂いが、鼻の奥をツンと刺す。
僕はその匂いを吸い込むたびに、自分が薄いガラスの層に閉じ込められているような錯覚に囚われる。
「吐き出すの? 汚いな。」
「汚くないよ。確認してるだけ。食べられるか、食べられないか。それを何度も何度も、繰り返すんだ。」
瑞希の声は、いつもどこか湿っている。
彼の手首には、夏だというのに白いサポーターが巻かれていた。
日焼けした肌に、その白さはひどく不自然で、目を背けたくなるほどに眩しかった。
誰もが通る、ただの不器用な階段。
大人たちは僕たちの立ち止まりを、成長痛とか、思春期とか、そんなありふれた言葉の箱に押し込めて安心したがる。
でも、この胸の奥で四六時中鳴り響いている、ブリキの玩具が壊れたような不協和音を、彼らはとうに忘れて、知らない。
朝、目が覚めた瞬間に、心臓のあたりがじっとりと冷たくなっているあの感覚。
世界から僕という存在の輪郭が、じわじわと滲んで消えていくような、あの底なしの静けさ。
「ねえ、匠海(たくみ)。君は『ヴィヨンの妻』って知ってるか。」
瑞希が、不意に顔を上げて僕を見た。
彼の瞳は、濁った泥水の底に沈むガラス玉のようだった。
「太宰の?」
「そう。最後にさ、夫が、人非人でもいい、私たちは生きていさえすればいいのよ、って言われるやつ。あれ、嘘だと思う。」
「嘘?」
「生きてるだけでいいなんて、そんなの、生きてる側の傲慢だよ。」
廊下の端から、吹奏楽部のトロンボーンの音が、間の抜けた音程で響いてきた。
ぷつ、ぷつ、と、思考が途切れる。
長い沈黙。
短い呼吸。
心臓が動く音がうるさい。
やめてほしい。
生きているというだけで、どうしてこれほど大量の義務と、視線と、期待を、呼吸のたびに吸い込まなければならないのだろう。
肺が、まるで裏返しのタワシで擦られているみたいに、ちくちくと痛む。
明日が来るのが、ただ、ただ、怖い。
「僕、もうすぐ消えるよ。」
瑞希は、自販機で買ったぬるい緑茶のペットボトルを、額に押し当てながら笑った。
「冗談やめろよ。」
「冗談に見える?」
緑茶のボトルに、細かな水滴がじわりと浮き出て、彼の頬を伝って落ちた。
涙の代わりに、プラスチックが泣いているみたいだった。
その時、僕たちの間を通り抜けた風は、完全に秋の匂いがした。
冷たくて、乾いていて、どこか全てを諦めさせるような、あの拒絶の匂い。
あれから、季節がめぐった。
秋が、世界を黄色く染め上げて、それからすべての葉を落とした。
冬が、僕たちの吐く息を白く凍らせて、足元の土を石のように硬くした。
春が、頼みもしないのに桜の死骸を街中に撒き散らし、新しい制服を着た見知らぬ誰かを連れてきた。
そして、また。
あの、じっとりと肌にまとわりつく、湿った夏がやってきた。
一年後。
世界は驚くほど、何一つ変わっていなかった。
瑞希がいなくなった理科室の前の廊下には、今も同じようにトマトソースのような夕日が張り付いている。
セミの声が、鼓膜を針で突くようにミンミンと五月蝿い。
僕は相変わらず、薄いガラスの中にいた。
瑞希の席は、別の誰かの机になり、彼が好んで使っていた図書室の片隅の椅子は、背もたれが少し傾いたまま放置されている。
人間が一人消えるということは、水槽に一滴のインクを落とすようなものだ。
最初は激しく濁るけれど、やがてかき混ぜられて、薄まって、何事もなかったかのように透明に戻る。
その透明さが、僕には耐え難く冷たい。
「あ、匠海くん。またここにいた。」
声をかけてきたのは、クラスの学級委員の女の子だった。
名前は、確か、真悠(まゆ)。
彼女の手には、配り忘れたプリントの束が握られていて、カサカサと乾いた音を立てていた。
彼女の首筋を、一筋の汗が流れていく。
それを見て、僕は強烈な吐き気を覚えた。
生きている。
みんな、当たり前に、汗をかいて、息をして、明日を疑わずに生きている。
僕だけが、底の抜けたバケツみたいに、生きるためのエネルギーをどこかへ垂れ流し続けている。
「うん。ちょっと涼んでただけ。」
「嘘ばっかり。ここ、一番暑いよ。エアコン効かないもん。」
真悠は、プリントの束で自分の顔をパタパタと煽った。
彼女からは、微かに、安っぽい石鹸の匂いがした。
「ねえ、匠海くん。」
「なに。」
「瑞希くんのこと、まだ考えてる?」
心臓が、ドクンと跳ねた。
冷たい氷の塊を、無理やり喉の奥へ押し込まれたような痛みが走る。
「……別に。忘れてたよ。」
「そっか。みんな、もう言わないもんね。」
真悠は、窓の外の校庭を見下ろした。
部活の掛け声が、遠くで、まるで地鳴りのように響いている。
「私さ、昨日、瑞希くんの夢を見たんだ。」
「どんな?」
「普通の夢。瑞希くん、自転車に乗ってて、坂道をすごい勢いで下りていくの。私が危ないよって叫んでも、全然聞こえてないみたいで、そのまま笑って消えちゃった。」
例え話にもならない、ただの退屈な夢の話。
でも、その退屈さが、僕の胸をナイフのように切り裂いた。
瑞希は、僕たちの記憶の引き出しの中で、少しずつ、都合のいい形に変形させられていく。
苦悩も、あの手首の白いサポーターも、理科室の前の湿った声も、すべては可哀想な男の子の思い出という綺麗なラベルを貼られて、整理されていく。
それが、たまらなく恐ろしい。
僕がもし、今ここでこの窓から飛び降りたら、一年後の真悠は、僕のどんな夢を見るのだろう。
「匠海くんの夢も、いつか見るかな。」
「見ないよ、僕のは。」
僕は、ポケットの中で、瑞希から昔もらった、角の丸くなった消しゴムを強く握りしめた。
指先に、僕の体温ではない、別の冷たさが残っているような気がした。
希望なんて、この世界のどこを探しても落ちていない。
足元を見ても、空を見上げても、あるのはただ、繰り返される季節の、残酷なまでの正確さだけだ。
金魚は、今日も水槽の底で、自分の糞を吐き出している。
それが生きるということなら、僕は。
「ねえ、匠海くん、もう帰ろ?」
手首のサポーターを触る癖だけが、僕の右手に、冷たく、静かに、残っていた。
5/13/2026, 1:12:19 PM