旅路の果てに
鎌倉駅に入り、江ノ島を目指した。交通カードをどこに入れたか、持ってきたのか、忘れてしまったため、切符を買うことにした。ホームに入ると、通過列車と英語のアナウンスが耳に刺さり、嫌気が刺したため、とりあえずの電車に乗りこんだ。一難去ってまた一難。電車の中では、観光客の、中国か、韓国か、どちらともつかない様な言語が飛び交い、これにも嫌気が刺し、耳に蓋をするようにワイヤレスイヤホンをつけた。イヤホンからは、なんだか、古臭いようなギターの音が聞こえた。
電車のアナウンスを待つも、そもそも、目的の場所を決めていないことに気がついた。路線図を見ると、由比ヶ浜、という所が目に付いたため、そこで降りた。勿論、駅を降りてすぐ砂浜では無いため、スマートフォンのマップを頼りに歩いた。
砂浜近くのコンビニで緑茶と弁当を買った。財布には交通カードが入っていた。リュックサックに緑茶を入れようとした際、切符が2枚と、折り畳み傘、水筒、ハンドクリームの他に、紙の切れ端が入っていた。
その紙には、私は健忘症です。江ノ島を目指しています。と書かれていた。
気味が悪くなり、それを捨てようとしたが、思いとどまった。私は本当に健忘症なのかもしれない。でなければ切符は2枚もないし、訳も分からず砂浜に座っていることも無いだろう。私はただ、砂浜を走った。只管走った。私の居場所がわからなくなるまで。
あなたに届けたい
葬式は昼頃に終わった。私は弟と昼食を済まし、特にすることもないため久しぶりに近所を歩いてみることにした。小学生の頃よく遊んでいた空き地は二階建ての一軒家になっていた。親とよく行ったコインランドリーはローソンになっていた。それに対してネガティブな感情は湧かず、むしろ思い出が誰にも邪魔されなくなったようで、誇らしかった。そう思うようにした。
母が交通事故で亡くなったと知ってからまだ数日も立っていなかった。弟は感情がまだ追いついていないようで、空虚な目でどこか、遠くの方を見つめていた。私は親族のどうともつかない雰囲気に嫌気が刺したため息抜きに外へ出た。昔、兄弟で釣りをした川に着くと、ふと母の笑顔が脳裏に過り、涙が零れた。
不器用だったあなたに届けたい。あなたが手を切りながら作った肉じゃがを、あなたが作った味の濃い味噌汁を、私は愛していました。あなたが育てた恥ずかしがり屋は、あなたに感謝を伝え忘れました。
あなたに届けたい。あなたに届けたい。
I LOVE…
私はですね、私は、自分が、この私が、好きでいるものさえ、疑ってしまう性分にありまして、それは、読んで字のごとく、私の性にありまして、私は親から、愛を受けたものの、この世界に対する、信頼のしかたを、その重要なプロセスを、どうにも教えて貰えなかったもんでして、毎日、毎時毎分毎秒、疑って参った所存でありまして、それと私は、生まれながらにして、コミカルな立ち回りを、使ってこねばならなかったわけで、私の口から出る言葉なぞ、十二分に笑ってもらって構いませんが、私が私を疑うことも、好きなことを疑うことも、今現在、あなたのことを疑っていることも、全て真実でありまして、それに就いて、困っているだとか、緊張感のある話にするつもりはありませんが、ご理解の上、喋らせていただいたいのです。
私が田舎の町を出たとき、いや、それは遡り過ぎているので、もう少し近頃の、会社で働いていた時のこと、私は今のように、訛っていて、田舎者が節々から感じられる訳ですから、それがどうにも可笑しいらしく、同僚には笑われてきたのですが、確かその頃から、私はロックンロールを聞くのを辞めました。
それは別に、同僚のせいだとか、意思の弱い私のせいだとか、言いたいわけでもなくて、私は元来、平和主義でありますから、犯人探しが目的な訳ではなくて、私が真に言いたいのは、私がロックンロールを聞くのを辞めたのは、その曲に、私の悪いイメージが着いてしまうような気がして、私が好きだったロックンロールまで、私のようになってしまう気がして、聞くのを辞めたんです。
ただこれも、今に始まった話じゃなくて、先程も申しましたが、田舎っぺだなんだと、笑われてきましたから、好きなものは、隠すべきものだと、学んでいたもんですが、この件に関しては、ロックンロールを聞くのを辞めた時、今までの、狭い家ん中で、たっくさんジャンプして、たっくさん頭を振ってた時の自分を、否定しているような気分になりまして、それがなんだか、いや、おおきなとっかかりでは無いのですが、喉に刺さった、魚の骨みたいに、時々私を傷つけるんです。
でも、悪いなんか言いたいんじゃないんです。
一緒にジャンプして、信じてみたかったんです。
街へ
日暮れ頃から電車に乗り、窓に反射した影を眺めた。揺れの激しい小田急線は、私の門出を拒んでいるようだった。川の近くを通る駅を適当に降り、自動販売機で水を買った。特に口にする訳でもないが、手癖のように蓋を開けた。枯れ草が飛び出す道の先には、河川敷があった。好奇心から降りてみることにした。夕日のよく映る川の前、細かい石が沢山あるところに座り、ペットボトルの水を口にした。それも確か、喉は乾いていなかった気がする。ふと、川をずうっと先に行った、どこか遠くのことを思い、ポケットにあるライターを流してみた。恐らくどこか、途中で石に引っかかるだろうが、気分は晴れた。日も落ち、すっかり夜になったが、ビルは明るかった。窓の光が、川辺に居る私を見下しているようだった。帰りの時に見た反射した自分は、行きのときよりもはっきりとしてみえた。
優しさ
アメリカのどこかで、大規模な火災があったらしい。火元となる家には6歳の娘と、犬が2匹居て、両親は外出中。通報を受けて駆けつけた消防士のうち、最も歴の長いものが率先して火災の中に飛び込んだという。通報が早かったこともあり、娘と犬は無事に保護され、火傷こそあったものの、命に別状はなかった。火災の発生源は現在も特定できておらず、放火の可能性もあるとして警察は捜査中だという。
私と同じ言語を使っているならば、それは恐らく、優しさとは、分け与えてあげるものだ、と絵本で学んだだろう。このニュースのコメントには、勇気のある消防士に敬意を持った等のありがちなコメントがされていた。ただ、もしも通報が遅かったら、消防士まで火災に巻き込まれていたかもしれないし、娘や犬は火傷では済まなかったかもしれない。もしも私がその事件の近くに住んでいたら、周りの家に火が移るかもしれないから消火を優先しろ、と思っていたかもしれない。もしもこれが放火で、私が両親だったら、私たちの大事な娘たちを救ってくれてありがとう、と思うかもしれない。もしも私が放火犯だったら、犯行現場を荒らしてくれてありがとうと思うかもしれない。
優しい勇敢な消防士のおかげで、助かった命があると考えると、不思議な感覚になる。
もう少し遠回りでも、私の行動で、人の命が助かるのなら、それ以上の事は無いのかもしれない。