友達を殺してしまった。
奪われる痛みを誰よりも知っているはずの僕が。
僕は友達の物言わぬ死体を前に、一歩、二歩、ゆっくりと後ずさった。
よりにもよって開眼したまま絶命してくれた友の目が、「どうして俺を殺したんだ」とえんえんと僕を責め立てている。
「違う。違うんだ。でも、うう……」
細い嘆願の声は、血の匂いが充満する部屋に吸い込まれた。
僕はただ、お前と落ち着いて話をしたかっただけなのに……。
心の中でぽつりと呟くと、まるで僕の心を読んだように、友の目がぐるりと回った。
当然そんなことはなく、恐慌状態だった僕の精神状態が見せた幻に過ぎないのだが、そのときの僕に分かるはずもない。
「何はともあれ、これで晴れて殺人鬼の仲間入りだな」
彼の瞳が訴えかけている。僕はそれを当然の糾弾として受け入れた。
ついさっきまで息をしていた彼を、その人間性でさえ、僕はピンナップにして終わらせたのだ。
最前列で見よう、などと言った過去の私が恨めしい。
ショーが開始する三十分前の私は、ほんの軽い気持ちでその提案を持ちかけたのかもしれない。だがその軽い気持ちが、結果的に惨状を生み出している。
水族館の非日常の空気に乗せられて言動が行き過ぎてしまった自分の浅慮さをどうしようもなく呪った。
イルカを舐めていなかった、と言ったら嘘になる。
テレビのバラエティ番組でも罰ゲームに利用されてたけど、大げさなリアクションもあってそれらのだいたいがヤラセだと思っていた。
そういえばショーの開始前に、係員が雨具のレンタルを執拗に勧めてきた。私はそれを内心しつこいなと断った。雨具のレンタル代だって、今は馬鹿にならないから。
あのとき、ほんの数百円をケチっていなければこんなことには……。
髪から滴り落ちる水滴が地面に吸われていくのをぼんやりと眺める。
ふと好きだったバンドのある歌の歌詞を思い出す。
「濡れた髪はもう乾かないさ……」
ゆっくりとした曲調のそれを試しに口ずさんでみると、気持ちはさらに暗い闇に沈んだ。
この日のために新調したフリルスカートの現状も、私の気持ちを淀ませる一つの要因だった。
フリルがしぼんでボリュームがなくなるどころか、重みを増したスカートが肌にへばりつきまるで拘束を受けているように動きにくい。
購入当初は花みたいだと思ったフリルも、今は生地に水分を必要以上に含ませるお荷物でしかない。
明るかった水色も全体的に濃い青色に変色し、心なしかどんよりとして見える。
その場を離れていた今日一緒に水族館来ていた恋人が戻ってきた。タオルを買いに売店へ行っていたのだ。
購入したタオルをスリーブから外してから手渡してくれる。ありがたいけど、気落ちしているせいかまずどこから拭けばいいのかすら頭が回らない。
『髪や身体や服が濡れたから拭く』
そんな当たり前の行為も、予想を上回るアクシデントが起こるとすっかり抜けて思いつかないものなのだ。デフォルメされたイルカがプリントされたタオルを鷲掴みながら、ぼうぜんとそう思った。
とうとう痺れを切らしたのか、今まで何も言わず私を見ていた彼が、私の手からタオルを取り返した。
私の頭をおもむろに抱え込んだ彼は、まるで小さい子相手にするように、甲斐甲斐しく濡れた髪を拭いてくれた。
彼の体温に包まれると、冷え切った芯まで届くような心地がする。
彼は今回、雨具を着用していなかったが、彼は間一髪のところで被災を逃れた。隣で観賞していたはずなのに、偶然とはいえこの差はずるい。
私がその辺りをむにゃむにゃと糾弾すると、彼は首を傾げてから笑った。
「大丈夫、眼福だから。もうしばらく乾かないでほしいくらい」
「いつまでも乾かなかったら低体温症になるよ」
「じゃあ俺の体温分けてあげるよ。寒いときは人肌が一番だろ」
そう言いながら、彼は私の髪から水が垂れない程度に拭くと、作業を終了した。
彼の手が離れていくのを名残惜しく感じながら、私たちはせっかく水族館に来たのに滞在時間約三十分でそこを切り上げて帰った。
「性教育よ」
母はそうのたまった。
だが無理やり俺の手を引っ張って、自分の裸の胸に押し当てた母の顔は、どう見たって教育者の顔じゃなかった。
母が死んで二十年近く経つ今も、トラウマものの苦い思い出だ。
自慢じゃないが、俺は頭が良くない。学校のテストでも常に赤点で、母に「次があるじゃん」とくたびれた顔で励まされると、いつも泣きそうになったものだ。
そんな俺が今さら母の思い出をいい方向ヘ昇華させようとしても、思いつく策といえばろくなものじゃない。
思えば今までここに明記できないようなことばかりしてきた。それをしてるときだけは母のことを忘れられる。
けれどいつも効果は一瞬だけ。朝が来たら持続時間は切れてしまう。
人肌の儚さを何度も思い知らされた。仲良くしていた人間は俺から離れていった。
もういっそ洗濯機か板で頑固にこびりついた母という汚れを俺の記憶から綺麗さっぱり落としたいが、何度洗ったってしょせん頑固汚れはやっぱり残る。
本当の意味での孤独になり、悲しみに暮れた俺は、そこでふと思い至った。
「俺はあの人のことが……好きだったのか?」
自分の正気すら疑うような考えだった。
だが今でも未練を捨てきれないということは、つまりはそういうことだろうか。
もしそうだとしたら、全て俺に都合がよく事が運ぶ。拷問のような日々でしかなかったはずの記憶は、母と温かく暮らしていたころの優しい思い出にすり替わる――。
子供の頃に触った母の肌の感触を思い出して、俺は知らず知らずのうちに笑っていた。
ふ、と風を感じた。店内は季節柄空調が落とされ無風のはずなのに、なぜか口笛を至近距離で吹かれたような冷たい風。
(見られている)
感じる。俺を射殺さんばかりの目を。それまで食事に集中していた俺を、まるで糾弾するような熱視線だ。
豪華な食事が並べられている食卓を越え、視線のもとを辿る。向かいの席には、不敵な笑みを浮かべて俺を見ている男がいた。
俺はどこか世間離れしている男に気づかれないように息を吐く。
出来の悪い俺の――弟。
弟の白目がやけに青光りする眼光は、はっきり言って食事時にお見せするものではなかった。澄んだ綺麗な目をしているはずなのに、どうにも爽やかではない。その目を見ているだけで食欲が減退する。
(小物が)
ワインをひとくち口に含みつつ、漏れかけた舌打ちも飲み込んだ。
弟はいつも俺を露骨に挑発してくる。周囲の人間に俺のデマを吹聴したり、頭の出来が悪いのに、俺を蹴落とす算段だけはよく思いつくようだ。
よくもそんなに他人を呪うための余計なエネルギーを消費できるもんだな、とほとほと呆れる。改めて弟の幼稚さに嘆息した。
もうすでに空に近い俺の皿にくらべ、弟の皿はちっとも減っていない。パスタをフォークで巻き取る動作を繰り返しているだけだ。
「食事も満足にできないって、犬以下かよ」
俺は高慢たらしく口元を吊り上げてみせた。弟の目にできるだけ不遜に映るように、弟の神経を逆撫でるように。
俺は弟のことは嫌いだが、弟が癇癪を起こしたときに上げる甲高い声だけは、グラスハープのようで気に入っているのだ。
やはりみるみるうちに底光りする目を見開かせていく弟。限界まで晒された眼球は尋常ではなく、火の粉を帯びていた。
「何言ってんだよ。非常識だけ俺に押しつけて、兄貴が全部いいとこ取りしてったくせに。返してよ、俺のマナーとかモラルとか常識一式ちゃんとリボンつけてさあ!」
パスタの油にまみれて鈍く光るフォークを、こちらに目がけて振りかざしてくる俺の弟。
突然響き渡った怒声に一定の喧騒が続いていた店内が静まり返える。乱闘の気配を早々に察知した店員によって退店を要求されることは、俺から挑発した時点である程度予測できていた。
非情な人間こそが上に行くものだと信じてここまで来た。
出世のためなら何だって利用して切り捨てる冷徹さがこの国では好まれると教えられてきた。現に俺はたった一人の妹を交渉の切り札に使ってまでこの地位を得た。
だが快進撃がそう長く続くわけもない。
後日、妹を下衆な金持ち相手に売ったことが明るみとなり、その代償として、今度は俺自身が闇オークションに出品されることになった。
俺は顔がそこそこ知れていたから、その日出品された商品の中では最も高額な値から始まった。
最初は周囲の雰囲気を確かめながら、金額がじわじわと上がっていく。けれどだんだん白熱して金額が吊り上がり、いよいよ終了の合図が鳴らされようとしたとき突然、桁違いの金がぽんと落とされた。表示されている画面の桁数にざわめく周囲。
俺を競り落としたのは、俺を憎んでも憎みきれないはずの妹だった。
人道支援団体の手により監禁から救われていたことは知っていた。だが自分を陥れた俺を落札する妹の心も、そもそもどうやってそんな大金を工面したのかもわけがわからなかった。
オークション参加者の中にはえげつない嗜好の持ち主と評判の金持ち連中もいた。俺に大枚を叩かずにいれば、妹が一瞬でも味わわされた屈辱を晴らせただろうに。
満身創痍の身体で「なぜ」と尋ねる。しばらくまともな声を発さなかった喉は俺の言うことを聞かなかった。自然、短い問いかけになる。問われた妹は自分の行動が分からないように首を傾げた。
「放っとけばよかったんだけど」
聞けば俺を買った金は、妹が離婚した夫と住んでいた家と両親の遺産の実家、その二つの土地を売って作った金だったらしい。それも全部俺を落札するのに使ったと言う。ということは、俺はもちろん妹もこれから先無一文の、しかも宿なしということになる。
妹は首輪の締め付けをさらに強めた。
「許したわけじゃないから。そこだけは勘違いしないでね。あくまでも私に買われた奴隷なんだから」
兄妹二人きりの生活。しばらくは屋根なしの生活が続くだろうが、それも悪くない。
夢想しながら、俺は想像以上の力強さに半分意識を飛ばしながら「ああ、わかってるよ」と囁いた。