しぎい

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最前列で見よう、などと言った過去の私が恨めしい。

ショーが開始する三十分前の私は、ほんの軽い気持ちでその提案を持ちかけたのかもしれない。だがその軽い気持ちが、結果的に惨状を生み出している。
水族館の非日常の空気に乗せられて言動が行き過ぎてしまった自分の浅慮さをどうしようもなく呪った。

イルカを舐めていなかった、と言ったら嘘になる。
テレビのバラエティ番組でも罰ゲームに利用されてたけど、大げさなリアクションもあってそれらのだいたいがヤラセだと思っていた。

そういえばショーの開始前に、係員が雨具のレンタルを執拗に勧めてきた。私はそれを内心しつこいなと断った。雨具のレンタル代だって、今は馬鹿にならないから。
あのとき、ほんの数百円をケチっていなければこんなことには……。

髪から滴り落ちる水滴が地面に吸われていくのをぼんやりと眺める。
ふと好きだったバンドのある歌の歌詞を思い出す。

「濡れた髪はもう乾かないさ……」

ゆっくりとした曲調のそれを試しに口ずさんでみると、気持ちはさらに暗い闇に沈んだ。

この日のために新調したフリルスカートの現状も、私の気持ちを淀ませる一つの要因だった。
フリルがしぼんでボリュームがなくなるどころか、重みを増したスカートが肌にへばりつきまるで拘束を受けているように動きにくい。
購入当初は花みたいだと思ったフリルも、今は生地に水分を必要以上に含ませるお荷物でしかない。
明るかった水色も全体的に濃い青色に変色し、心なしかどんよりとして見える。

その場を離れていた今日一緒に水族館来ていた恋人が戻ってきた。タオルを買いに売店へ行っていたのだ。
購入したタオルをスリーブから外してから手渡してくれる。ありがたいけど、気落ちしているせいかまずどこから拭けばいいのかすら頭が回らない。

『髪や身体や服が濡れたから拭く』
そんな当たり前の行為も、予想を上回るアクシデントが起こるとすっかり抜けて思いつかないものなのだ。デフォルメされたイルカがプリントされたタオルを鷲掴みながら、ぼうぜんとそう思った。

とうとう痺れを切らしたのか、今まで何も言わず私を見ていた彼が、私の手からタオルを取り返した。

私の頭をおもむろに抱え込んだ彼は、まるで小さい子相手にするように、甲斐甲斐しく濡れた髪を拭いてくれた。
彼の体温に包まれると、冷え切った芯まで届くような心地がする。

彼は今回、雨具を着用していなかったが、彼は間一髪のところで被災を逃れた。隣で観賞していたはずなのに、偶然とはいえこの差はずるい。
私がその辺りをむにゃむにゃと糾弾すると、彼は首を傾げてから笑った。

「大丈夫、眼福だから。もうしばらく乾かないでほしいくらい」
「いつまでも乾かなかったら低体温症になるよ」
「じゃあ俺の体温分けてあげるよ。寒いときは人肌が一番だろ」

そう言いながら、彼は私の髪から水が垂れない程度に拭くと、作業を終了した。
彼の手が離れていくのを名残惜しく感じながら、私たちはせっかく水族館に来たのに滞在時間約三十分でそこを切り上げて帰った。

5/4/2025, 4:13:18 AM