彼女が道端に咲いているタンポポなんかに目を奪われている。多分、季節外れの物珍しさからだろうが。
僕は呆れて言葉も出ないかわりに、自然にため息がふうと出た。だがタンポポに夢中な彼女はそれにも気づかない。おまけにタンポポに気を取られ、足取りも危ない。
(なんて無防備なんだ。これじゃ道路の溝か何かにつまづいてこけてしまうかも。なんせこの人はちょっと抜けている。そうだ、助けてあげよう。怪我の理由がタンポポに見惚れてたじゃ浮かばれない)
――ああ、僕ってなんて優しいんだ。
僕はぷらぷらと揺れる彼女の手を、タイミングを見図って捕まえた。そのときの気分はレスキューに駆けつけた消防隊員さながらで、思いのほか悪くなかった。
人のために何か行動を起こすのは心地いい。人に感謝されるのもいい。意中の相手ならなおさら。
「ぎゃあっ」
その直後、悲鳴を上げた彼女に手を振り払われたけど。
「い、いきなりなに!?」
彼女は火が出そうな勢いで、僕に握られた右手をいつまでもさすっている。
「だって、こけそうだったよ」
「あんたに関係ない!」
癇癪気味に喚き散らす彼女とあくまでも冷静を装う僕に、行き交う人の視線が突き刺さる。
「手が冷たいからいや、とは言わないんだ」
「は?」
「僕はね、あなたの手があたたかくてあいつまでも握っていたかったよ」
念入りに髪をとき、一回瞬きしてから鏡を見た。
化粧台に腰掛けた私が、無表情でこちらを見ている。髪は完璧に整えられているのに、下は寝間き姿というちぐはぐな格好をした私が。
私がじっと動かずにいると、あちら側の私も頑なに動かないので、何とか言葉をひりだしてみる。
「……嫌い」
『僕の気持ちです』
シンプルな文面の手紙が添付された箱。綺麗なラッピングが施されたそれを、わたしは手紙ごとゴミ箱に突っ込んだ。
持った感触から、中身は食べ物と推測できる。だけど、たとえ食べ物を無駄にすることになっても、こいつからの贈り物を受け取りたくなかった。何を混入させているか知れない。
「あー、やだやだ。くわばらくわばら」
ひしゃげた箱を二度と見向きもしなかった。
『子供への虐待の容疑で自称専業主婦の女が逮捕されました。女は父子家庭で育ち――』
夕食の時間帯に、父親の連れ子を殴り捕まった女のニュースが流れた。
女の過去までつまびらかにするそれを、私は見るでもなく見ていた。けど食べている里芋の煮物の味はしない。
炊きたての白米を碗にたっぷりとよそってきた母が、ニュースを見ながら喚く。
「また虐待? 最近多いわね」
愛されていなかったのね、と一人でうなずきながら、母も食卓についた。テレビではまだ逮捕された女の話題が続いている。
今さらチャンネル変えるのもなんだし、早く終わらないかな。私はテレビから意識をそらすように、母から受け取った白米を夢中で箸で運んでいた。
「麻里衣は?」
一心不乱で白米にがっついていた箸が止まる。
白米を口いっぱいにおさめたまま、ゆっくりと顔を上向けた。母はにこにこと笑っている。
「麻里衣はそんなことしないわよね?」
なんてことのない母の声が、蝋のように私にどろりと垂れてくる。
私は白米を口いっぱいに頬張ったことを後悔した。緊迫感におされて、唾液も出てこない。
白米は無味を通り越して、もはや砂の味に変わっていた。
幼い子供は、基本的に子供体温のはず。
なのにこの子は布団に入っていても脚が冷たい。使い古された言い回しをするなら、まるで氷のよう。
お医者さんいわく、この子の内臓は死んでいる。だから。
私はこの子の冷たい脚に少しでも熱を与えようとした。自分の足を絡めすり合わせる。露骨に嫌がられて、さっと避けられる。
そっぽを向いてしまった背中を見ながら、頭の中で反芻する。
内臓が死んでいる。定年間際の先生から言われた言葉が、いつまでも頭から離れなかった。