いらっしゃいませ、と気持ちのいい挨拶が店内に響き渡った。
その挨拶の主の弾けるような笑顔が目に浮かび、裏方で生地を捏ねていた自分も思わず目元が緩む。
工房まで届く明るい彼女の声に、従業員の全員が目を見合わせ微笑み合った。
ここは数年前に開いた自分の店だ。
初めの頃は新規オープンの店ということもあり地元民は遠巻きに見ていた。しかしパンを食べた客の噂が噂を呼び、おかげさまで今では午前中には朝仕込んだパンが売り切れるようになった。ちなみに一番の人気商品は、結晶のようにするりと溶け出す岩塩と香り高いバターの相性がいい塩パンである。
当時高校生だった彼女が、この店のファン第一号だった。
そしてアルバイトとして働いている今では、彼女は早くもこの店に欠かせない存在となっていた。どの客にも笑顔を絶やさず、辺りがぱっと明るくなるのだ。おまけに仕事の飲み込みも早い。
店の方を彼女に任せきりにして、自分を含む従業員たちは午後の仕込みに専念する。
だがしばらくすると、彼女が珍しく困ったように眉を下げながら、奥の工房に顔を覗かせた。
「あの……店長、ちょっと、いいですか」
いつもはつらつとした彼女の声がトーンダウンしている。そのことに、ベーカリーの責を負う立場の自分としては、一抹の不安を覚えた。
でも何が起きているにしても、まずは現状を把握するのが第一だろう。そう考えて、不安そうな従業員に笑って作業続行のサインを出しながら、工房を出た。
こぢんまりした店内は、時間的に閑散としていた。
パンやサンドウィッチのコーナーも充填が進んでおらず、空っぽのトレイが多い。牛乳やジュースなどの飲料類だけが唯一充実している。
店番をしていた彼女が頭を下げつつ、「店長をお連れしました」と恐縮したような声で言った。
彼女のこんな怯えた声音は初めて聞く。驚きながら、胸のネームプレートをかざしつつ自己紹介する。
カウンターの前に立っていたのは、子連れの母親風の女性だった。自分を爪先から頭のてっぺんまで値踏みするようにじろじろ見て、ふん、と鼻を鳴らす。
若いからと舐められることには慣れているが、こんなあからさまな態度を取られることは、ちょっと久々だった。
「あなたが店長? ああそう。じゃあ話は早いわ。この子じゃ全然通じなくって」
女性にじろりと見据えられた彼女は、両手を前に組んで身を縮こませた。
「あの、ご用件はなんでしょう?」
彼女を女性の目線から守るように、何気なく立ちはだかった。子供に目線をやっていた女性は気づくことなかった。
「お宅でベーグル、売ってるじゃない」
「ええ」
「あれ、ちゃんとアレルゲンフリーよね?」
「アレルゲンフリーと、そうでないものの二種類があります。アレルゲンフリーは、今のところブルーベリーとプレーンのみですね」
「普通の人でも食べれるベーグルに、ブルーベリーはあるの?」
「はい、ございます。普通に小麦粉を使ったベーグルはプレーン、苺、チョコレート、ブルーベリー……」
「それよ!」
は?
指折り説明していた最中、突然大声で遮られて自分も後ろに立つ店番をしていた彼女すら目が点になった。
いまいち飲み込めていない自分に、やきもきした母親らしい女性が、まだ五歳前後の子供を指さして言う。
「だから、お宅で買ったベーグルを子供に食べさせたら、アレルギーが出ちゃった理由! そっちのミスで、ブルーベリーだけ入れ替わってたのよ!」
大人たちが揃って子供を見る。
視線を一斉に受けた子供は、居心地悪そうに内股気味にもじもじとした。
「それは、こちらの不手際ですね、申し訳ありません……お身体は大丈夫でしたか?」
「ええ、まあ」
母親が子供の丸い頭を撫でながら言う。
小麦粉のアレルギーは発症すると重症化するケースも多い。店側としても些細なミスも起こさないよう、最新の注意を払っていたつもりなのだが……。
「あの、どういったアレルギー症状が出たのですか?」
「湿疹よ。今はもう治まったけど」
「どのくらいの量をお召し上がりに? 一つ丸々?」
発症の状況を具体的に掴むためにも、いくつか質問を重ねようとした。
するといったい何が気に障ったのか、母親が急に金切り声で怒りだした。
「何よ、わたしを疑ってるの? 子供を命の危機に晒しておいて、まだ足りないっていうの? ネットにこんなこと書かれてみる? この店のベーグルで殺されかけましたって。この店終わるわよ」
母親の剣幕に怖気づき、自然と足が半歩下がる。
背後にいる彼女は責任感からこの場にとどまっているが、今にも膝から崩れ落ちそうなほど怯えているのがわかった。
出来たての菓子パンや惣菜パンやサンドウィッチを詰め合わせ。
そのバスケットを手渡したら、母親は奪い取る勢いで受け取り、もはや用はないと言わんばかりの態度で店をあとにした。
店番の彼女と自分は、スキップせんばかりの母親の後ろ姿を店先から呆然と見送っていた。
彼女が小声で囁いてくる。
「店長、あの人……」
「うん、だろうね……」
げっそりとした声で、濁した答えを返す。
飲食業だから、こういうことは徹底していても起きると覚悟していたけども。しかし実際に経験してみると疲労感がすごい。
彼女が母親の子供にジュースを数本手渡すと、「ありがとう、お姉ちゃん」とやっと笑顔を見せてくれたのが唯一の救いだった。
しなしなになったさくらんぼを口に運ぶ。きつめに効かせたラム酒の風味がつんと鼻にきた。
歯が種に当たった。
種を舌先で探りだし、紙皿に吐き出す。吐き出した種に、仄かにピンク色の果肉がこびりついていた。
もったいない。紙皿の種を見やり、侘しくもそう思った。
外に設置してあるバーベキューコンロからは、焼けた肉や野菜の匂いが漂ってくる。立ち上る煙は遠くにいても目に染みた。
それを囲む数人の男女。片手にアルコール類を持ったまま、背中や腰に触れ合いながら、気軽に笑い合っている。
蚊帳の外の私は、みんなが何で笑っているのかも分からない。
空気を読んで一人用のベンチに座り、パイナップルやいちごやメロンが入ったフルーツポンチを黙々と食べるのが精一杯だ。
誰かが大量に買い込んでいたフルーツをカットし、シロップを作って、冷蔵庫の中に冷やしておいたのはわたしだった。
フルーツポンチの方も食後のデザートを想定していたようで、まさかこんなにお早い出番になるとは思いもよらなかったらしい。きんきんに冷えているとは言い難かった。
しかし何かをつまんでいなければ場が持たない。かといって、あの群れの中に分け入って肉や野菜を貰いに行く勇気も持っていない。
そこでフルーツポンチをずいぶんと早くお呼びしたわけだが、じゅうじゅうと肉が焼ける音や匂いに紛れて、一人食後のデザートをつまむわたしは、このデザートの作成者にもかかわらず義務感で食べている感じがした。
少々お酒がきつすぎたかな、と心配になった。
だがあの様子じゃメンバーの中に下戸はいなさそうだ。料理を好みの味に仕上げられるのは作った人の特権だけど、口にあわないからとひんしゅくを買うのも怖い。
メロンの玉を口に運ぶと、また洋酒の匂いが鼻から抜ける。
これから夏本番なのに、侘しい秋風のように吹き抜ける匂いだ。
「買ってきたよお、ケーキ」
無味乾燥な部屋に、底抜けに明るい声が響く。
上半身を起こしたベッドの上から月を眺めていたわたしは、声のする方を見ずに「ありがとう」と返事をする。
彼はわたしが心ここにあらずなのを慣れきっているように、ケーキの箱をテレビ台の上に置いた。
「うわあ、綺麗な三日月」
窓辺に寄った彼が、素直に感嘆の声を上げる。
「さっきまで見えなかったのよ」
教えると、彼は相変わらずの明るさで「そうなの?」と言った。言いながら、ケーキの箱の封を切っている。
彼が留守にしていた少しの間、確かに夜空に浮かぶ月はレースのカーテンのような雲に覆われており、その姿を隠していた。
けれどわたしは彼の性格を知っている。
月見を口実に食べる団子は好きだが、月自体にはそんなにこだわりを持たないことを。
取皿にケーキを取り分けた彼は、わたしにフランボワーズのムースを差しだしてきた。
淡い紅色のムースの上に、濃い紫のグラサージュがかかったそれをぼんやり眺めていると、彼がプラスチックのフォークと紙皿を落とさないようにひっしと握らさせてくる。
ブルーベリーや木いちごの載ったそれを、どうしてもおいしそうと思うことはできないまま、私の手は止まっていた。
ムースなら食べられそう。
そう言ったのはわたしだ。これはここ最近食が細いわたしのために、彼がわざわざ買ってきてくれたケーキだった。
こみ上げてくる嘔吐感から顔を背けるべく、窓の外へ目をやった。たぶん、彼にはわたしの隠したい気持ちなどお見通しなのだろう。
「……あ」
「どした?」
モンブランを頬張っていた彼が口に物を入れながら喋る。
「また見えなくなった」
自分では気づいていなかったが、明らかに落胆していたのだろう。彼に名前を呼ばれて、窓の外にやっていた目を彼に移す。
彼が指さしている先には、半分ほど食べかけたモンブランがあった。
「見てコレ。黄色いし、なんか三日月そっくりじゃね?」
本日の作業を終えた。作業灯を落とし、停泊灯を点ける。
船室に下りようとしていると、遠くから誰かに「おーい」と呼ばれた。
何だろう。
少し考えて、昼間に人魚を捕獲したことを思い出した。
俺は一応の無事を確認するために、慌ててデッキの反対側に向かう。
いまどき人魚なんて何の金にもなりやしない。人魚信仰があった昔ならともかく、それも廃れた今ではちょっと珍しい種族に過ぎない。
そんな生き物のために足を急がせているのは、見た目がほとんど人間と同じ奴らをみすみす死なせたら夢見が悪いから。
後方のデッキでは、青い鱗がびっしりと並ぶ尾びれでびちびちと水を跳ねさせながら、桶から腕だけ出している一頭の人魚がいた。
垂れ目がちな小さな顔を白い腕に載せ、今まで放置されていた不満をさっそくぶちまける。
「お腹減って死にそうだよお。あんた私を一本釣りしてからずっと放置だもん。人間って冷たいんだねー」
……いや。ほんと、見た目がモロ好みっていうわけじゃ、そういうんじゃ、ないから。価値が下がってるとはいえ、人魚の保護は漁師の任務だから。
俺は一体誰に言い聞かせているのかも分からなくなりながら、人魚が浸かっている、普段は釣った魚の保存に使用するプラスチックの桶に腰を屈めた。
「一人でこの船切り盛りしてると、あんたにかかりきりになれないんだ。わがまま言うな、群れから外れた迷子のくせに」
「迷子じゃないやい。あいつらが迷子なんだ」
黒い大きな瞳をいじけたふうに潤ませた。形のいい唇を尖らせている。外国のイメージでよくある金髪碧眼の人魚とは異なるが、日本人の理想を地で行く美少女、いや、美人魚だ。
(日本の人魚といえば、顔だけ男か女かすら分からない人間で、あと下は全部でっかい魚の化け物だもんなあ)
子供の頃、本で「これが人魚よ」と母に見せられて泣いたのを思い出した。
それが実際はどうだ。
腰辺りまで伸びた長い黒髪で、人間のものさしで測ると大きい分類に入る胸を……こう、上手い具合に隠している。
それを目の毒と思うのは、あくまでも人魚が人間と似ている見た目をしているからだ。桶に沈む下半身を見ればしっかりと魚だと分かる。
まだ人としての壁は超えていない、と謎に安心を覚えつつ、俺は機嫌を損ねた人魚に尋ねた。
「腹減ったって、あんたたち何が主食なんだ。魚か」
「バカ!」
人魚は凄まじい勢いで首を横に振った。
何をおぞましいことを言っているとでも言いたげに顔を青くさせていた。
私たちは共食いはしない、と全力で言うので、代わりに俺の常備食であるチョコがかかった棒菓子を差し出してみた。
人魚は物珍しげに匂いを嗅ぎ回って、恐る恐る一口かじる。すると青白かった顔にみるみる血の色が集まっていった。
「なにこれ! なにこれ! 人間ってこんなうまいもん普段食べてんの? ずるい! そりゃメタボにもなるわ!」
「なんでそんな人間の健康事情に詳しいんだ」
俺の疑問も意に介さず、人魚は一心不乱にチョコバーを貪り続けた。
食べカスが桶の中に溜まっていっている。
これ水を入れ替えるの俺の仕事か、と辟易としながら、俺は人魚の気持ち良い食いっぷりを眺めていた。
「人間ってクソみたいな奴ばっかだと聞いてたけど、あんたは違うのね!」
「人魚ってのは、みんな素直な性格なのか? だから絶滅危惧種まで陥ったのか?」
袋が空になると、人魚は袋をひっくり返したり下から見上げたりした。左右に振っても何にも起こらないと分かると、物欲しげな目で俺を見てくる。
しかしそのチョコバーはもともと俺の常備食だ。もうない、と首を振ると、人魚はこの世の終わりのようにしょげた顔をした。
あまりに落胆していたので、「海の中にチョコバーはない」ということで落ち着いてもらった。
「お待たせしました、ワッフルコーンのバニラとストロベリーです」
僕は両手でコーンを差し出してくる彼女の満面の笑顔に見とれつつも、気が抜けるように笑った。
「ここにまで仕事持ち込まなくていいんだよ」
「いいじゃん、アイスクリーム屋さんごっこ。これを楽しみに通い詰めるようになったんでしょ。取り返しつかないよ、そのお腹」
向かいに座った彼女が、いたずらっぽく笑いかけてくる。つられた僕も笑う。
バニラが一段目だったのは、好きなものはあとに取っておくタイプの僕を思ってのことだろうか。だとしたらこんなに嬉しいことはない。
僕一人でアイスクリームを味わっていると、ちらちらと視線を感じた。
アイスクリーム屋に来た男女二人のうち、男一人だけがアイスを食べているというのは、世間の目からはよほど異質に映るらしい。目立たない隅の方のテーブルに座っているのに、さっきから好奇の目で見られているのを感じる。
そんな視線そっちのけで、彼女は外で首だけを動かしながら縦横無尽に歩き回るハトに見入っている。
僕はたまらず「君はいいの?」と尋ねた。彼女は窓の外のハトから目を外し、肩をすくめた。
「ここで働いてりゃそりゃあね……今日だって従業員優待券の締切が今日だから、付き合ってもらってるようなもんだし」
納得がいく理由に、内心ほっと胸をなでおろした。
この男とは一緒に食事をしたくないとかだったら、本当にどうしようかと思っていたのだ。
「僕は甘いもの好きだから、いくらでも付き合うけど……でもなんか、悪いね。せっかくの休みに、仕事場に」
僕は辺りをちらりと見渡す。
この店はテレビで紹介されたとかで人気になったアイスクリーム屋で、店員の頭上に掲げられているメニューを行列をなした人々が目を輝かせながら眺めている。
店員の制服も決して派手すぎずモノトーンを基調にしたものでセンスがよい。女性が多いが中には男性の店員もいた。
人気店ということもあり常に人の波が途切れることはなく忙しそうだが、自分の恋人はこんなところで働いているのだな、と鼻が高い気分だった。
「ううん、それはいいの」
予想以上の熱量の声が返ってきてびっくりした。コーンに染み込んだストロベリーの甘さが少し吹っ飛んだ気がする。
自分でも声の大きさを自覚したらしい彼女は、ごめん、と小声で呟いた。
「うん、わかるよ。それだけこの職場が好きなんだね」
笑いながら言うと、彼女もぎこちなく笑った。
僕はぎこちない笑みを見なかったふりをして、唐突に彼女の手をとった。さっきまでアイスを食べていた僕の手のひんやりとした冷たさに、彼女が少し身を引くが、握りしめる。
「次は君の好きなところに行こう。中華? 和食? ラーメン? あは、よく考えたら君の好きなものって、僕あんまり知らないね」
「はは……」
彼女はさばけて見えて遠慮しいだ。彼女自身がどうしたいのかは、いつも答えてくれない。
「アイスも食べ終わったことだし、さあ行こうよ」
半ば無理やり彼女の手を引き、店を出ていこうとしていた僕の目には映っていなかった。
泣きそうな顔をした彼女が、男性店員と示し合わせたように頷き合っていたこと。