子供の寝顔を見ていると、なんだかこっちまで眠たくなってくる。
襲い来る眠気を振り払い、私は子供部屋を出た。いつもはなんだかんだ言ってぐずるのに、今日はすんなり寝てくれたな。
兄弟が二つ所有しているうちのもう一つの子供部屋から、私が出てくるのとほぼ同時に夫の信行が出てきた。信行はとたんに疲れた顔をして、「寝た?」と尋ねてきた。私も表情を崩し「寝たよ」とごくゆるい言葉のキャッチボールをする。
信行がリビングにあるソファーに深く座りこむと、はあー、と長いため息をついた。私はそれを背中で聞きながら、二人分の晩酌の用意をする。酒のつまみに最高なキムチやイカはあるけど、明日は私も信行も仕事だから控え、代わりに夕食時に子供達が余らせたおかずを二つの缶ビールと一緒に盆に載せた。
私が持ってきた盆の内容を見た信行が、庵の上少し顔を曇らせる。
「なんかもう少しないの、チーズとか……」
「今日買い物行けてないから。ピーマンと挽き肉だって最後だったんだよ」
「だからって、ピーマンだけってねえ」
信行が箸でピーマンをぺらりとつまむ。ピーマン自体は肉厚だが、肉抜きのそれは確かに物悲しかった。私は久々に家族揃った夕食時の光景を思い浮かべた。
「あのねえ、そもそもあなたが甘やかすから……」
「あー、はいはい」
私の言葉を遮り適当に流した信行が、コショウの下味しかついていないピーマンを一口で平らげた。缶ビールのプルタブを開けて、あっという間に半分くらい飲み干す。だから飲むスペース早いって。
私も缶のプルタブを開けつつ、事実を突きつけるように聞く。
「ていうか肝臓の数値そろそろやばいんじゃないの」
信行が酒くさい息をはきながら腹のあたりを叩く。
「だいじょーぶ、休肝日つくってるから」
「休肝してるとこみたことないけど!?」
大声を出すつもりはなかったのに、思わず怒鳴るような口調になってしまった。
信行はいわゆるイケメンではないし、そろそろ頭皮の方もヤバい。デリカシーもないからモラハラ寸前のことを平気で言ったりもする。仕事が忙しい人だから、予定していた家族の行事をほっぽりだされることも珍しくない。
でもたまにまとまった休みが取れた日には、外国旅行に連れて行ってくれる甲斐性と、家族を気遣ってくれる優しさの持ち主であることを私は知っている。こっちが身体の心配をしているのに飲酒や喫煙をしたり、仕事の忙しさにかまけて家族を軽んじていても、最終的には身体も心も私のところに帰ってくると分かっているから、別れられない。
「今度からはビールじゃなくてワインのほうがいいかな……」
「ああ、ワインのほうがビールよりプリン体が少ないって言うなあ」
信行が缶をぐるっと回し見ながら、ぷりんたい……、と漢字になっていないような発音で言う。私も、プリン体って何が語源なんだろうね? あのプリンじゃあるまいし、とろくに回っていない頭で笑う。
っていう夢を見た。
今日、デリバリーで牛丼を頼んだ。
私が愛用する最寄りの店は、店舗のほうがかきいれ時になると、いつもデリバリーでの注文を打ち切る。
時計を見ると十八時過ぎ。店舗に実際行ったことがないので具体的にいつごろ忙しくなるのか分からないが、そろそろ急いで決めなければならなければならない時間帯だった。でもなかなかどうして決められない。
プレーン、おろしポン酢、チーズ、キムチ、ビビンバなどの味の種類から、小盛並盛大盛特盛などのサイズを選べる。あとサイドメニューの有無も。
おいしそうな画像をさらにおいしそうに見せるための煽るための文言に、目が迷って迷って、十分間くらいスマホのデリバリーサイトのメニューとにらめっこしていた。今日はがっつりの気分だからチーズ?ビビンバ?でも牛丼自体がこってりしてるからおろしポン酢?
やがて悩むのにも疲れ、スマホを手に持ちながら、半ば放心してしまった。「……どうすればいいの?」とはまさに今日の私の心の悲鳴である。
こんなことばっかりだ。普段から優柔不断な私は人を待たせる。何か映画を見たくてネットフリックスを開いたはずなのに、見たい映画を探すのに疲れて見るのをやめる。なにかきっかけがないとやりださない。どうすればいいの?
ちなみに牛丼はおろしポン酢にした。なんかカロリー低そうなので。牛丼の時点で低いわけないんだけど。今日はガッツリの気分と言っておきながら、ころころ変わるのもなんだかなあ……。
髪は女の命だという。
周りを見渡せば、長い黒髪をそのまま流したり、束ねたりしている女の子がたくさんいる。規則がきかない学校の外に目を配れば、茶色や金色やピンクの髪の女の子がいるのだろう。染髪された髪は好きではなかったが、最近ようやく好きになった。
髪が綺麗な女の子は総じてかわいい。たとえおばあちゃんでも、白髪は美しい。
「ねえ、君もそう思わない」
背中に気配を感じて振り向いた先にいた女の子は、シャンプーのCMに出ている女優も真っ青なくらい、綺麗な黒髪の女の子だった。
「髪が綺麗なら、顔はどうでもいいわ、私」
私の言ったことに、思わずはっとするほど黒髪が美しい子は、怒りながら反論してくる。
「そんなのおかしいよ。私は断然顔派。イケメンとか美人だったら、どんなに髪が荒れていてもいい」
「そう? 私たちって、とことん合わないね。ないものねだりって感じ」
ぶわっと風が吹き、その見事な黒髪が乱される。すぐに風は止み、するとすとんと一瞬で元通り。今、本当にシャンプーのCMみたいだった。
顔を覆うくらい伸ばしている前髪を整えながら、その子はぽつりと呟いた。
「……その綺麗な顔、大切にしてよ」
髪が綺麗な人は、心根まで綺麗だ。
爪に火をともすろくでなし
玲子さんが結婚して以来、お兄ちゃんは徐々に外出する機会が増えていった。見るからに不良の男の子たちとつるみ始め、帰宅時間も遅くなった。
近所に住む年上の玲子さんのことを好きだったお兄ちゃんは、初めて経験する失恋に傷ついて、要するにグレた。
私はそんなお兄ちゃんを見ていられずに、知らんぷりをした。
あのときお兄ちゃんを優しく励ましていれば、今ごろ私達の兄妹の関係は冷え切らないで済んだのに、と今でも後悔している。
「出てくる」
家から出ていこうとするお兄ちゃんを、キッチンから聞こえてくる「またあ?」というお母さんの声が引き止めた。
「昨日もだったじゃない。中学生がこんな時間に出歩くもんじゃないよ」
何か話しかけても聞く耳を持たないお兄ちゃんに、お母さんが深いため息をつく。
私は出ていこうとするお兄ちゃんにわざと水を差すことにした。
「どうせ悪いおともだちのところでしょ」
薄笑いながら言うと、お兄ちゃんがきつい目を返してきた。その反応すら嬉しい私はいろいろと終わっている。
「うっせー、ブス」
「おめーに言われたくない、ブス」
私とおにいちゃんの間に立たされたママの仲裁によって、ぴりぴりとした空気がどこかに散った。
お母さんが私を見て言った。
「花、下品な言葉を使わない。分かった?」
「……はあい」
「優は帰り何時になるの?」
靴紐を結んでいたのを立ちあがり、仕上げにダウンジャケットのファスナーを上げる。そんな仕草がやけに様になってると思う。
「……十時か十一時くらい」
お兄ちゃんは素直に答えると、着ぶくれした身体を、扉の隙間に潜りこませるようにして出ていった。
お兄ちゃんが消えていった玄関の扉を眺めながら、ママが感慨深げにしみじみと言う。
「不良になったように見えても、変なとこ律儀なのよね」
お母さんと並んで玄関扉を眺めていた私は、「ただバカなだけだよ」と色んな意味で遠のいていく背中に対して、声に出してつぶやく。
そんなの嘘。弱虫なんて言ってごめん。行かないで。ここにいて。
たったひとりの妹の心の叫びに気づかないお兄ちゃんは、本当に馬鹿だ。
私は寂しさを紛らわすため、爪に綺麗にネイルが施す。お兄ちゃんの帰りが遅くなるので、すっかり根付いてしまった習慣だった。
色とりどりに光沢を帯びた爪が、暗い部屋の中で発光する。まるで爪に火が灯ったようだった。
私は心を極限まで切り詰めながら、今日も健気に兄の帰りを待つ。
たくさんの想いで
脳のゴミ