「元気?」
そう言って入院先の病院に数年ぶりに顔を出したのは、高校時代の私の数少ない女友達だった。
入院してるんだよ元気なわけねーだろ、と言えたらどんなによかったか。
私はこみ上げてくる汚い言葉を必死に抑え込んで、笑顔で「元気だよ」と返した。来てくれて嬉しい、と心にもないことまで。
(かわいい顔、昔から変わらないんだ。見るだけで引っかき回したくなる)
でも私にさらに本格的なダメージを食らわしたのは、その後ろからついてきた男の存在だった。
初恋だったのだ。叶いっこないってわかっていたけど。
笑う男は、やがて女と共に病室に入ってきた。
「大丈夫? 入院したって聞いて。でもってなんの病気なん?」
「え、多分貧血」
とっさにごまかした私に、「うっそー、貧血でこんなチューブとかつける?」と周囲の医療器具を無造作に触るお人形女。ばれないように睨みつける。
(こいつらが出てってくれるまで耐えてくれるかな、私の心臓)
「僕もこれからそっちに行くよ、うん」
がらんとした部屋で、スマホの中で微笑む彼女に向かって話しかける。照れながらウェディングドレスを試着する彼女は、贔屓目抜きに見ても美しい。
「だけど僕、まだやることがあるから」
ネットに流れていた、通り魔の男の護送時間が迫る。僕は立ち上がった。手には自作の拳銃。
「だからごめんね。向こうで盛大な結婚式を挙げよう」
悪夢に悩まされ続け、ここ一週間くらいろくに眠れていない。
そんな私に、彼が一輪挿しの菊のプレゼントをくれた。
「なに? 遠回しに死ねってこと?」
据わった目で彼を見やると、彼は手をぶんぶんと振り慌てた感じで否定した。
「違うよ。かけ算でもマイナスにマイナスをかけるとプラスになる。これ小学生でも知ってる常識でしょ」
「それでいじめの代表格みたいな縁起が悪い菊の……しかも一輪挿し?」
「気分が落ち込んでるときって、さらに拍車をかけるみたいに暗い曲が聞きたくなるだろ。それと似た感じ」
ていうかそのいじめのイメージ古くない? そうのたまう彼を私は無視した。
ラベルが剥がされただけの瓶から突き出る菊を、端から端までじっくり眺める。適当に家にある瓶で間に合わせたのだろう。ほのかにごま油の香ばしい匂いが残っている。
水底に沈む茎の切り口がやけに巧妙だった。
そういえば、彼の実家は花道の家元だったと思い出す。現在の放蕩っぷりからは想像もつかないが、かつては窮屈な上級世界で和の心をびしばしと叩き込まれたのだろうか。
「それとこれとは別。でもまあ……ありがと」
どういたしまして、と彼が屈託のない明るさで笑う。
その眩しさで私を殺せそうなくらいだ。くらと身体が傾く。でも油臭い瓶だけは落とさないように、ぎゅっと握りしめていた。
引っ越しあるあるだけど、初めて行くスーパーマーケットの買い物の帰りに、案の定迷子になった。
自慢じゃないが私は方向音痴だ。それも超とかドがつくほどの。
だから徒歩三分圏内のスーパーマーケットからの帰り道も分からず、かといってまだ馴染まない土地の人に道を尋ねる勇気もなく、ずっと周辺をうろうろしていた。道を尋ねるにしろ、まず何をどう尋ねていいのかすらわからない。
両手に重たいビニール袋を持って途方に暮れていた私の横に、黒い車が横付けされた。
止まるスピードはゆっくりだったが、前面や側面はもちろん、後部座席の窓にもスモークが施されている車の不審さに私は驚いた。思わず一歩身を引く。
運転席の窓がすーっと音もなく下りる。そこから顔を覗かせたのは、黒いマスクをした年齢不詳の男。
男は私を頭の先から爪の先まで舐めるように見た。そして目を細めた。笑ったのだ。
蛇に睨まれた蛙のようになっていた身体を何とか叱咤して、その場から逃走を図る。それと男が後部座席に何かの合図を飛ばしたのは同時だった。
後ろのドアが勢い良く開け放たれ、男たち二人が私に立て続けに襲いかかってきた。マスクで顔を隠しているが、その男たちのマスクは運転席の男のものと違い、多く流通している一般的なものだ。
羽交い締めにされ、そのまま車に連れ込まれそうになる。
もう三日分の食料なんて知るか、と私は質量があるビニール袋を男たちの顔面にぶつけようとした。遠心力を生かした買い物袋は残念ながら一つは空振ったが、もう一つはヒットした。当てられたほうの男が怯む。
拘束が緩んだすきに逃げ出そうとした私の視界を、何か大きいものが阻む。見ると黒マスクの男だった。いつのまにか運転席から出てきている。
「ひでえなあ。俺たちはあんたが迷ってるみたいだったから、道案内ついでにドライブにでも連れてってあげようとしただけなのに」
そういえば。
引っ越し当初に役所の職員に言われた言葉をぼんやりと反芻する。
――最近この町に越したてで慣れない住民狙いの犯罪多発してるから、気をつけてね。特に奥さん方向音痴でしょ。この街の細かい地図あげようか?
あらわになった凶悪な笑みを伴った相貌を前に、私は顔を青ざめさせるすきもなく意識を失った。
校舎裏をひとり歩いてた。
すると自分の名前を呼ぶ声が頭上から聞こえてきた。反射的に上を見上げる。
瞬間、視界が白で染まった。とたん、顔面にびしゃりと打ちつけられる顔面にぬるい液体。春先に浴びせかけられるにはまだ冷たい。
止めていた息を再開すると、生臭く、どこか懐かしい匂いがした。
数拍置いて、僕はそれがようやく牛乳だと気がついた。中学校の給食以来とんと縁がなかったので忘れていた。
口の中にも少し入ってしまった。
何を入れられてるのか分からないのに、そんなときに行儀とか気にしていられない。地面に白い唾を吐いた。
ついで元凶を睨みあげる。そこにはやはり、潰した牛乳パックを逆に持ち、恍惚とした浮かべる女がいた。
「あー、その絶対殺してやるって目いい。好き。もっとそういう目で見て。てかいっそ殺して」
清楚な女子高生のお手本みたいなその女は、だらしなく相好を崩壊させながら、牛乳パックを持っていない片手を頬に添えている。
僕が一つ盛大な舌打ちを漏らすと、女は甲高い奇声を発し窓ガラスをばんばんと叩いた。
湿り気と臭いを髪だけならず制服にもまとわりつかせながら、僕は全学年共同の水道に向かった。
水圧をマックスにしてもちょろちょろとしか出てこない水道に殺意を覚えつつも、何とか頭に降り掛かった牛乳は洗い流せた。濡れた髪は自然乾燥しかない。
「好きだったのになあ」
次は制服を脱いでごしごし水洗いしているその間、僕は気がつくと不満顔になってぼやいていた。
「ていうかあのハイとローの谷間のジェットコースターみたいな性癖なければ好きなんだよ、今も」
問題は、その性癖を人に押し付けないでほしいな。いったん口に出してしまうと、自然こする力が強くなる。
きゅっと蛇口をひねって濡れたシャツを絞り、適当なところで切り上げる。上着を着ていなくて助かった。
「そもそもなんで僕があいつの欲望のために我慢しなきゃいけないんだよ。好きだって言ってきたの向こうだっつーのに」
それで「僕も好きだよ」と言ったら、「私に優しくしないで! もっと憎んで! 蔑んで!」と逃げられたことがある。じゃあどうしろと。
どうにもうまくいかない、とまだ濡れたシャツを羽織る。
「好きだよ、殺したいくらい……だめか」
第一そんなことを言ったら、本当にそうしてくれると期待した彼女がナイフやロープを持ってきそうだ。
そんなのじゃなくって。
――僕はただ、君と健全な付き合いがしたいだけなんだ。
「これでいくか……?」
次の一手をもんもんと考えながら、僕はチャイムが鳴っている校舎に戻った。