半年に一度、大学時代の女友達数人で集まる。
ホームパーティとも呼べないが、それを気取ったものを開くのが恒例だった。
小規模だし、テレビで見るような豪華なものに比べれば劣る。でも懐かしい顔に久々に会えると思うと、それなりに心躍った。
人数分の取り皿を並べている最中、黒髪の彼女の手が目についた。
手の甲に、赤色が沈殿して淀み固まったような痕を見つけた。
「前から気になってたんだけど、手に……痣? あるよね。なんなの?」
大学在籍中には手のことを尋ねても、のらりくらりと交わされた。だからそのことについてはタブーなのかと思い、しばらく触れなかった。もういい加減時効だろう。
私が興味津々なのを知った彼女は、諦め半分、そしてなぜか愛おしむように手の甲を撫でながら、あっさりと答えた。
「ああ、これ。元カレに熱々のヤカン押し付けられてできた火傷」
和やかに進んでいた下準備の空気がぴたりと止まる。
恋人にヤカンで手を焼かれたという彼女の視線の先には、ちょうどキーキー悲鳴を上げ始めたヤカンがあった。
アメリカからの留学生は、その大きな青い瞳をキラキラと輝かせて言った。
「日本のkawaii文化について教えてください!」
「え? なに? カワイイ? え?」
混乱する私をよそに、留学生の彼女は得意げに説き始める。
「ハラジュクファッションkawaiiです。日本のキモノもkawaiiです。kawaiiは世界共通です」
常に流行を先取りしている海外の女の子にかかれば、日本の伝統的な着物も『kawaii』のローマ字に変換されるのか……。
一方、私は中学高校といわゆるオタク女子というやつ。だから先進的なその子のいう『かわいい』が理解できなかった。
そんな私が、迷いに迷って絞り出した言葉は――。
「えっとねえ……『BL』って知ってる?」
向かいの革張りのソファに座っている男が、私の一挙一動に目を光らせていた。おかげで瞬きをするのにもいちいち迷って、少し眼球が乾燥している。
「恨むんなら、軽々しく保証書にサインした過去の自分を恨むんだな」
それはもうすでにした。頭の中でもう何百回はタコ殴りにした。
「まずあんた、保険に入ってないな。保険をかける。たんまりとな」
「え。つまりそれって、死ねってこと……」
目に見えてうろたえだすと、男は面倒臭そうに手を振った。この手の反応はもう見飽きているのだろう。
「大丈夫。一人で死ぬのは色々と手間がかかるだろうから、手伝ってやるよ」
「な、なにを……?」
「なにをって、そんなの決まってるじゃねえか。その道の業者を雇ったりだとか、諸々の書類捏造する専門家雇ったりだとか」
ちなみに費用は会社持ちだ、と誇らしげに付け加えた男は、懐から取り出した煙草をくわえた。
「安くはない。決して安くはないけど、困ってる人をほっとけないだろう」
煙草をくわえたまま口を釣り上げる。だが男の口ぶりは、どうにもやるせないという感じだ。
(人助け言うんなら、保証人の借金は全部チャラにしてくれよ)
もしかしたら自分でも気が付かないうちに、軽蔑の目つきで見ていたかもしれない。
すると私の浅い考えを読み取ったように、男が「あのね」と急にこちらを見た。黒目がさらに不気味に光る。
「借主がウチから金を借りてる記録だけは消えないんだよ。たとえ元の借金主が逃げようと、だったら保証人のあんたに払ってもらうだけ。今のあなたに人権はないぜ」
ほら、証拠としてここにきっちりあなたのサインが残ってますからね。
底知れない笑みを浮かべた男が書類片手に迫ってくる。
歯ブラシ、シャンプー、あとスリッパ……。
二泊三日の入院に必要なものを、ぽいぽいとボストンバッグの中に詰め込んでいく。
どうにも気が乗らないのは、この行為が入院の準備だからだろう。
だがこうしていつまでもだらだらと準備をしていたら、進むものも進まない。
見かねた同居人の彼が横から口を挟んできた。
「見てていらいらするんだよ」
私からバッグを奪い取った彼は、代わりにタオルや洗面用具やらをせっせと詰め込み始める。
「だって、入院いやなんだもの」
「たかが一泊二日の検査入院だろうが。その間堂々と仕事休めるじゃねえかよかったな」
替えの下着に目を通しながら、全く心のこもっていない棒読みで言われる。下着を見る目の方がよほど真剣なくらいだ。
「ちっともよくない。お腹に針刺されて、中身を少し採取されるなんて……」
言ったあとで処置中の惨劇をリアルに想像してしまい、後悔した。ひいと小さく悲鳴を上げてしまう。
彼はあくまでも飄々とした態度で笑った。
「大丈夫だって、腹に穴開けられるくらいどうってことないって。俺も同じ検査したことあるけど、寝てるうちにすぐ終わったよ」
「検査を受けたことは知ってるわよ。元はあなたの病気なんだもの」
「またそれ、いやみったらしい……」
口を曲げる彼に、私はまるで当てつけるように言った。
「私は繊細なのよ」
私は未知の行事にめまいを起こして今にも倒れそうなのに、彼はというと、のんきにルービックキューブで遊んでいる。入院中の暇つぶしにと準備していたそれを、私は苦々しげに睨んだ。
「入院はやっぱり不安だし、処置中は何が起こるか分からないし。でもあなたは一日中家にいるくせに、付き添いにも来てくれないって言うし……」
私のぼやきに一瞬動きを止めた彼だったが、結局は立方体の謎に立ち向かいにいった。私はルービックキューブ未満の女、と半ば虚しくなった。
漫画喫茶で疲れた身体を折り曲げながら、一夜を明かした。
始発から近い電車に乗って、ほうぼうの体で自宅のマンションに帰り着く。十分に足を伸ばせなかったせいか、いつもより膝にガタが来ている。
(あのとき終電に乗ってさえいれば……)
過ぎたことを考えても仕方ないと分かっている。でもどうしても悔しい。
自分の階でエレベーターを降り、曲がり角に差し掛かる。
直後、身体が硬直した。角を曲がった瞬間見えた太陽の眩しさにではない。毎日昇る太陽より恐らく希少だと思われる男の姿に。
長身のその男の第一印象は、身体が長い蛇といった感じだった。
白無地のビンテージ物のシャツを着ているから、何となく白蛇のイメージ。けど白蛇がもたらすという幸福のイメージは微塵もなく、むしろ毒性が強い黒蛇である。
その蛇っぽい男は、共同廊下の欄干に腕をかけ、煙草の煙をくゆらせていた。
よく見ると左腕の目立つところに、槍に刺し貫かれて絶命した蛇のタトゥーが彫られている。
(こんなところにも蛇発見)
蛇の身体から真っ赤なお花が咲いたようなデザインが、印象的といえば印象的だ。だが全く意味は分からない。
下は普通に二本ラインが入ったジャージだった。なのにそれが不思議とダサくないのは、履いている男の脚が長いからだろう。
(あんな強烈な住人、ここにいたか?)
僕は謎に背中に食いこんでくる男の視線を無視しながら、鍵を鍵穴に差し込んで、回す。
ガチャッと鍵が開いた音が辺りに響いたとき、男が突然「待った」と低い声を飛ばしてきた。僕はとっさに反応を返そうとするが、
「はいっ?」
と、間抜けに声が裏返ってしまったのは仕方ない。なんせこの男、雰囲気からして年齢不詳感がある。
男は噛んで含めるような態度で言って聞かせてきた。
「今、部屋に帰らねえほうがいいぜ」
男がくわえていた煙草をプッと吐き出す。燻っている火種ごと、地面にサンダルで擦りつける。
男が小さく舌打ちを漏らした。
「ったく。間の悪いときに帰ってくるんだからよ」
は、と反応を返す間も与えず、男は気怠げなサンダルの足音と共ににじりよってくる。ざりざりという音がいやに耳についた。
がさがさ、ごそごそ。
自分の部屋から、何かを物色しているような物音がする。
何だか知らぬ間に、五感が研ぎ澄まされていた。
けど僕は中の気配を探るのに夢中で、背後にまで気を配れなかった。いつのまにか男が間近にまで近づいていることにすら、気がつけなかった。
気がつくと、男は僕を遥かにしのぐ背丈で僕を見下ろしていた。男の身体と鉄製のドアに挟まれて、身動きが取れない。
次の瞬間、男の凄まじい力によって、僕は突然部屋の中に突き飛ばされていた。
そのとき一瞬、部屋の奥に見えた。パン切り包丁を手にしてこちらを凝視している女が――。
(――いや、なんでパン切り包丁?)
そこで僕の思考は途切れた。