「鬼道と呼ばれる魔術を操るという、卑弥呼殿にお会いしたい」
「邪馬台国としても、遠路はるばる来た大陸からの使者を無下にしたくありません。ですがあいにく卑弥呼女王は、限られた人にしかそのお顔を見せませんので」
「聞いていると思うが、大陸は現在三つに割れている。この倭国に及ぶ影響もゼロではないのだ。邪馬台国には邪馬台国のやり方があるだろう。だが今回のところは我が皇帝の直筆の書状に免じて、女王との面会の許可をくれないか」
「はて、困りましたね。これで書状は三枚目です。面会以前に、女王はどの国に味方すればよいのでしょう」
「それは、軍事力も経済力も他の二国に引けを取らない我が国だ。皇帝の治世はもちろん、皇帝を支える人材の政治力がすばらしい。あなた達の邪馬台国がそうであるかのように」
「ありがとうございます。倭人風情にへりくだって、あなたは漢人らしくないですね。こんな仕事を押し付けられるくらいですから、お人好しなんでしょう」
「……」
「決めました。あなたの国にします」
「! それは……卑弥呼女王が我が国と共に戦ってくれるということで相違ないか?」
「はい」
「ありがたい話だが……いきなりなぜ」
「漢人らしくないあなたに心惹かれたということにしておきましょう。今まで書状を携えてきた二国は、二国とも態度が横柄極まりなかったです。卑弥呼は自分に反逆してきた者を許しはしない」
「だが、卑弥呼は既に老齢だと聞く。長い船旅に耐えられるか」
「私です」
「は?」
「私が、邪馬台国の女王卑弥呼です。鬼道使いとか言われていますが、あんなのはただのインチキです。いわば洗脳と同じです」
それでもいいですか。
巫女装束で無表情に迫ってくる、老齢というにはあまりに若い女。
純粋な漢人ではなく、血筋だけで出世してきた自分にとって、あまりにも得体のしれない女だった。生まれた国も推測できない。
初め自分のほうが上にあったはずの立場が、だんだん逆転しつつあった。
(町井式卑弥呼)
今までろくに鳴き声すら発さなかった俺の猫が、いきなり明確な意思を持った女の声で喋り始めた。
「身の回りの障害物を排除して排除して、その先に一体なにが見えましたか?」
猫の毛並みのいい頭を撫でていた俺は、完全にリラックスモードだった。つまり油断していた。
しばらくあぜんとしていたが、すぐにこれは夢と分かった。自分の息が上がっていたからだ。激しい呼吸と同時に、胸が上下していた。
寝間着代わりのTシャツがじっとり汗ばんでいる。身体を起こそうとするが、力が入らない。
猫の喉を介した女の言葉を思い出し、つい唇を噛む。
(見たじゃねえか。いや、見せてやった)
うっとうしい他人など蹴落としてきた。人の背中をさんざん踏みつけにしてきた。頂上からの眺めは最高だった。まさに極彩色の景色だった。
(お前だって汚いマネやってきたじゃねえか。何で俺だけ責められなくっちゃならないんだ、ええ)
俺は爪で皮膚が傷つくのも構わず髪の毛をぐしゃりと掴んだ。夢で聞いた抑揚のない女の声が、いつまでも頭の中にこびりついて離れない。
今夜の月からは、探しても探しても欠けたところを一片も見つけられない。満月だから、当然といえば当然だが……。
どこともしれない場所に一人立って、女は神秘性を兼ね備えた月の美しさにもはや殺意すら抱きつつあった。
睨むように見上げていた女の背後に、ふと声がかかる。低くも艶のある独特な声。
「女にもなれねえ女が、月なんか見上げていっちょ前に浸ってらあ」
滑稽極まりない、と心の底から思っているのが分かる響きだ。
どうやら男は気分がいいらしい。相手にするのが本気で嫌になる。女は見えないように溜め息をついた。
「月なんか見てないです」
「ああ?」
「空の流れを見てました。明日は晴れますね」
余裕の笑みを崩さなかった男が、ここで初めて苦い顔をした。
男の気に入る回答ではなかったらしい。が、知ったことではない。
ネットの向こうには、見知らぬ女の画像が氾濫している。肌色多めというか、モザイクを含まないとほぼ一面肌色だ。
寝ながら真剣に物色していると、背後から知っている女の手がまとわりついてきた。
「さっきからスマホばっかりね」
「んー……」
気のない返事をしてから、聞こえない程度に舌打ちをする。
お前以外にも女は星の数ほどいるんだよ。
口から出かかったけど、言わない。することしたあとのお前は特に凶暴化してるから。
「久しぶり」
信号を待っている間に声をかけてきたのは、いかにも軽薄そうな男だった。
最近見かけなくなった有線イヤホンで音楽を聞いていた私は、男の幾度の呼びかけにも数回無視をしかけた。
「いやあ、相変わらず物持ちがいいなあ」
それでも男は気分を損ねず、うっすら生えた顎鬚を撫でる。
男は信号が赤から青に切り替わると、「じゃ」と道路を颯爽と渡っていった。
私は男の消えた雑踏を眺めたまま、その場からしばらく動けなかった。
「……誰?」
信号がちかちか点滅し始めて私はようやく正気に戻り、駆け足で向こう側へ渡った。