漫画喫茶で疲れた身体を折り曲げながら、一夜を明かした。
始発から近い電車に乗って、ほうぼうの体で自宅のマンションに帰り着く。十分に足を伸ばせなかったせいか、いつもより膝にガタが来ている。
(あのとき終電に乗ってさえいれば……)
過ぎたことを考えても仕方ないと分かっている。でもどうしても悔しい。
自分の階でエレベーターを降り、曲がり角に差し掛かる。
直後、身体が硬直した。角を曲がった瞬間見えた太陽の眩しさにではない。毎日昇る太陽より恐らく希少だと思われる男の姿に。
長身のその男の第一印象は、身体が長い蛇といった感じだった。
白無地のビンテージ物のシャツを着ているから、何となく白蛇のイメージ。けど白蛇がもたらすという幸福のイメージは微塵もなく、むしろ毒性が強い黒蛇である。
その蛇っぽい男は、共同廊下の欄干に腕をかけ、煙草の煙をくゆらせていた。
よく見ると左腕の目立つところに、槍に刺し貫かれて絶命した蛇のタトゥーが彫られている。
(こんなところにも蛇発見)
蛇の身体から真っ赤なお花が咲いたようなデザインが、印象的といえば印象的だ。だが全く意味は分からない。
下は普通に二本ラインが入ったジャージだった。なのにそれが不思議とダサくないのは、履いている男の脚が長いからだろう。
(あんな強烈な住人、ここにいたか?)
僕は謎に背中に食いこんでくる男の視線を無視しながら、鍵を鍵穴に差し込んで、回す。
ガチャッと鍵が開いた音が辺りに響いたとき、男が突然「待った」と低い声を飛ばしてきた。僕はとっさに反応を返そうとするが、
「はいっ?」
と、間抜けに声が裏返ってしまったのは仕方ない。なんせこの男、雰囲気からして年齢不詳感がある。
男は噛んで含めるような態度で言って聞かせてきた。
「今、部屋に帰らねえほうがいいぜ」
男がくわえていた煙草をプッと吐き出す。燻っている火種ごと、地面にサンダルで擦りつける。
男が小さく舌打ちを漏らした。
「ったく。間の悪いときに帰ってくるんだからよ」
は、と反応を返す間も与えず、男は気怠げなサンダルの足音と共ににじりよってくる。ざりざりという音がいやに耳についた。
がさがさ、ごそごそ。
自分の部屋から、何かを物色しているような物音がする。
何だか知らぬ間に、五感が研ぎ澄まされていた。
けど僕は中の気配を探るのに夢中で、背後にまで気を配れなかった。いつのまにか男が間近にまで近づいていることにすら、気がつけなかった。
気がつくと、男は僕を遥かにしのぐ背丈で僕を見下ろしていた。男の身体と鉄製のドアに挟まれて、身動きが取れない。
次の瞬間、男の凄まじい力によって、僕は突然部屋の中に突き飛ばされていた。
そのとき一瞬、部屋の奥に見えた。パン切り包丁を手にしてこちらを凝視している女が――。
(――いや、なんでパン切り包丁?)
そこで僕の思考は途切れた。
2/24/2025, 3:37:38 PM