しぎい

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2/26/2025, 3:01:00 PM

向かいの革張りのソファに座っている男が、私の一挙一動に目を光らせていた。おかげで瞬きをするのにもいちいち迷って、少し眼球が乾燥している。

「恨むんなら、軽々しく保証書にサインした過去の自分を恨むんだな」

それはもうすでにした。頭の中でもう何百回はタコ殴りにした。

「まずあんた、保険に入ってないな。保険をかける。たんまりとな」
「え。つまりそれって、死ねってこと……」

目に見えてうろたえだすと、男は面倒臭そうに手を振った。この手の反応はもう見飽きているのだろう。

「大丈夫。一人で死ぬのは色々と手間がかかるだろうから、手伝ってやるよ」
「な、なにを……?」
「なにをって、そんなの決まってるじゃねえか。その道の業者を雇ったりだとか、諸々の書類捏造する専門家雇ったりだとか」

ちなみに費用は会社持ちだ、と誇らしげに付け加えた男は、懐から取り出した煙草をくわえた。

「安くはない。決して安くはないけど、困ってる人をほっとけないだろう」

煙草をくわえたまま口を釣り上げる。だが男の口ぶりは、どうにもやるせないという感じだ。

(人助け言うんなら、保証人の借金は全部チャラにしてくれよ)

もしかしたら自分でも気が付かないうちに、軽蔑の目つきで見ていたかもしれない。
すると私の浅い考えを読み取ったように、男が「あのね」と急にこちらを見た。黒目がさらに不気味に光る。

「借主がウチから金を借りてる記録だけは消えないんだよ。たとえ元の借金主が逃げようと、だったら保証人のあんたに払ってもらうだけ。今のあなたに人権はないぜ」

ほら、証拠としてここにきっちりあなたのサインが残ってますからね。

底知れない笑みを浮かべた男が書類片手に迫ってくる。

2/25/2025, 3:39:25 PM

歯ブラシ、シャンプー、あとスリッパ……。
二泊三日の入院に必要なものを、ぽいぽいとボストンバッグの中に詰め込んでいく。

どうにも気が乗らないのは、この行為が入院の準備だからだろう。
だがこうしていつまでもだらだらと準備をしていたら、進むものも進まない。

見かねた同居人の彼が横から口を挟んできた。

「見てていらいらするんだよ」

私からバッグを奪い取った彼は、代わりにタオルや洗面用具やらをせっせと詰め込み始める。

「だって、入院いやなんだもの」
「たかが一泊二日の検査入院だろうが。その間堂々と仕事休めるじゃねえかよかったな」

替えの下着に目を通しながら、全く心のこもっていない棒読みで言われる。下着を見る目の方がよほど真剣なくらいだ。

「ちっともよくない。お腹に針刺されて、中身を少し採取されるなんて……」

言ったあとで処置中の惨劇をリアルに想像してしまい、後悔した。ひいと小さく悲鳴を上げてしまう。
彼はあくまでも飄々とした態度で笑った。

「大丈夫だって、腹に穴開けられるくらいどうってことないって。俺も同じ検査したことあるけど、寝てるうちにすぐ終わったよ」
「検査を受けたことは知ってるわよ。元はあなたの病気なんだもの」
「またそれ、いやみったらしい……」

口を曲げる彼に、私はまるで当てつけるように言った。

「私は繊細なのよ」

私は未知の行事にめまいを起こして今にも倒れそうなのに、彼はというと、のんきにルービックキューブで遊んでいる。入院中の暇つぶしにと準備していたそれを、私は苦々しげに睨んだ。

「入院はやっぱり不安だし、処置中は何が起こるか分からないし。でもあなたは一日中家にいるくせに、付き添いにも来てくれないって言うし……」

私のぼやきに一瞬動きを止めた彼だったが、結局は立方体の謎に立ち向かいにいった。私はルービックキューブ未満の女、と半ば虚しくなった。

2/24/2025, 3:37:38 PM

漫画喫茶で疲れた身体を折り曲げながら、一夜を明かした。
始発から近い電車に乗って、ほうぼうの体で自宅のマンションに帰り着く。十分に足を伸ばせなかったせいか、いつもより膝にガタが来ている。

(あのとき終電に乗ってさえいれば……)

過ぎたことを考えても仕方ないと分かっている。でもどうしても悔しい。

自分の階でエレベーターを降り、曲がり角に差し掛かる。
直後、身体が硬直した。角を曲がった瞬間見えた太陽の眩しさにではない。毎日昇る太陽より恐らく希少だと思われる男の姿に。

長身のその男の第一印象は、身体が長い蛇といった感じだった。
白無地のビンテージ物のシャツを着ているから、何となく白蛇のイメージ。けど白蛇がもたらすという幸福のイメージは微塵もなく、むしろ毒性が強い黒蛇である。

その蛇っぽい男は、共同廊下の欄干に腕をかけ、煙草の煙をくゆらせていた。
よく見ると左腕の目立つところに、槍に刺し貫かれて絶命した蛇のタトゥーが彫られている。

(こんなところにも蛇発見)

蛇の身体から真っ赤なお花が咲いたようなデザインが、印象的といえば印象的だ。だが全く意味は分からない。

下は普通に二本ラインが入ったジャージだった。なのにそれが不思議とダサくないのは、履いている男の脚が長いからだろう。

(あんな強烈な住人、ここにいたか?)

僕は謎に背中に食いこんでくる男の視線を無視しながら、鍵を鍵穴に差し込んで、回す。
ガチャッと鍵が開いた音が辺りに響いたとき、男が突然「待った」と低い声を飛ばしてきた。僕はとっさに反応を返そうとするが、 

「はいっ?」

と、間抜けに声が裏返ってしまったのは仕方ない。なんせこの男、雰囲気からして年齢不詳感がある。
男は噛んで含めるような態度で言って聞かせてきた。

「今、部屋に帰らねえほうがいいぜ」

男がくわえていた煙草をプッと吐き出す。燻っている火種ごと、地面にサンダルで擦りつける。

男が小さく舌打ちを漏らした。

「ったく。間の悪いときに帰ってくるんだからよ」

は、と反応を返す間も与えず、男は気怠げなサンダルの足音と共ににじりよってくる。ざりざりという音がいやに耳についた。

がさがさ、ごそごそ。
自分の部屋から、何かを物色しているような物音がする。

何だか知らぬ間に、五感が研ぎ澄まされていた。

けど僕は中の気配を探るのに夢中で、背後にまで気を配れなかった。いつのまにか男が間近にまで近づいていることにすら、気がつけなかった。

気がつくと、男は僕を遥かにしのぐ背丈で僕を見下ろしていた。男の身体と鉄製のドアに挟まれて、身動きが取れない。

次の瞬間、男の凄まじい力によって、僕は突然部屋の中に突き飛ばされていた。
そのとき一瞬、部屋の奥に見えた。パン切り包丁を手にしてこちらを凝視している女が――。

(――いや、なんでパン切り包丁?)

そこで僕の思考は途切れた。

2/23/2025, 3:25:40 PM

「鬼道と呼ばれる魔術を操るという、卑弥呼殿にお会いしたい」

「邪馬台国としても、遠路はるばる来た大陸からの使者を無下にしたくありません。ですがあいにく卑弥呼女王は、限られた人にしかそのお顔を見せませんので」

「聞いていると思うが、大陸は現在三つに割れている。この倭国に及ぶ影響もゼロではないのだ。邪馬台国には邪馬台国のやり方があるだろう。だが今回のところは我が皇帝の直筆の書状に免じて、女王との面会の許可をくれないか」

「はて、困りましたね。これで書状は三枚目です。面会以前に、女王はどの国に味方すればよいのでしょう」

「それは、軍事力も経済力も他の二国に引けを取らない我が国だ。皇帝の治世はもちろん、皇帝を支える人材の政治力がすばらしい。あなた達の邪馬台国がそうであるかのように」

「ありがとうございます。倭人風情にへりくだって、あなたは漢人らしくないですね。こんな仕事を押し付けられるくらいですから、お人好しなんでしょう」

「……」

「決めました。あなたの国にします」

「! それは……卑弥呼女王が我が国と共に戦ってくれるということで相違ないか?」

「はい」

「ありがたい話だが……いきなりなぜ」

「漢人らしくないあなたに心惹かれたということにしておきましょう。今まで書状を携えてきた二国は、二国とも態度が横柄極まりなかったです。卑弥呼は自分に反逆してきた者を許しはしない」

「だが、卑弥呼は既に老齢だと聞く。長い船旅に耐えられるか」

「私です」

「は?」

「私が、邪馬台国の女王卑弥呼です。鬼道使いとか言われていますが、あんなのはただのインチキです。いわば洗脳と同じです」

それでもいいですか。

巫女装束で無表情に迫ってくる、老齢というにはあまりに若い女。

純粋な漢人ではなく、血筋だけで出世してきた自分にとって、あまりにも得体のしれない女だった。生まれた国も推測できない。

初め自分のほうが上にあったはずの立場が、だんだん逆転しつつあった。



(町井式卑弥呼)

2/22/2025, 2:02:50 PM

今までろくに鳴き声すら発さなかった俺の猫が、いきなり明確な意思を持った女の声で喋り始めた。

「身の回りの障害物を排除して排除して、その先に一体なにが見えましたか?」

猫の毛並みのいい頭を撫でていた俺は、完全にリラックスモードだった。つまり油断していた。

しばらくあぜんとしていたが、すぐにこれは夢と分かった。自分の息が上がっていたからだ。激しい呼吸と同時に、胸が上下していた。

寝間着代わりのTシャツがじっとり汗ばんでいる。身体を起こそうとするが、力が入らない。

猫の喉を介した女の言葉を思い出し、つい唇を噛む。

(見たじゃねえか。いや、見せてやった)

うっとうしい他人など蹴落としてきた。人の背中をさんざん踏みつけにしてきた。頂上からの眺めは最高だった。まさに極彩色の景色だった。

(お前だって汚いマネやってきたじゃねえか。何で俺だけ責められなくっちゃならないんだ、ええ)

俺は爪で皮膚が傷つくのも構わず髪の毛をぐしゃりと掴んだ。夢で聞いた抑揚のない女の声が、いつまでも頭の中にこびりついて離れない。

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