今夜の月からは、探しても探しても欠けたところを一片も見つけられない。満月だから、当然といえば当然だが……。
どこともしれない場所に一人立って、女は神秘性を兼ね備えた月の美しさにもはや殺意すら抱きつつあった。
睨むように見上げていた女の背後に、ふと声がかかる。低くも艶のある独特な声。
「女にもなれねえ女が、月なんか見上げていっちょ前に浸ってらあ」
滑稽極まりない、と心の底から思っているのが分かる響きだ。
どうやら男は気分がいいらしい。相手にするのが本気で嫌になる。女は見えないように溜め息をついた。
「月なんか見てないです」
「ああ?」
「空の流れを見てました。明日は晴れますね」
余裕の笑みを崩さなかった男が、ここで初めて苦い顔をした。
男の気に入る回答ではなかったらしい。が、知ったことではない。
ネットの向こうには、見知らぬ女の画像が氾濫している。肌色多めというか、モザイクを含まないとほぼ一面肌色だ。
寝ながら真剣に物色していると、背後から知っている女の手がまとわりついてきた。
「さっきからスマホばっかりね」
「んー……」
気のない返事をしてから、聞こえない程度に舌打ちをする。
お前以外にも女は星の数ほどいるんだよ。
口から出かかったけど、言わない。することしたあとのお前は特に凶暴化してるから。
「久しぶり」
信号を待っている間に声をかけてきたのは、いかにも軽薄そうな男だった。
最近見かけなくなった有線イヤホンで音楽を聞いていた私は、男の幾度の呼びかけにも数回無視をしかけた。
「いやあ、相変わらず物持ちがいいなあ」
それでも男は気分を損ねず、うっすら生えた顎鬚を撫でる。
男は信号が赤から青に切り替わると、「じゃ」と道路を颯爽と渡っていった。
私は男の消えた雑踏を眺めたまま、その場からしばらく動けなかった。
「……誰?」
信号がちかちか点滅し始めて私はようやく正気に戻り、駆け足で向こう側へ渡った。
とある魔法少女アニメの劇場版が来月公開される。
たかがアニメと侮るなかれ。子供向けアニメとは思えないアクションシーンの連続に、大人からも支持を受けている。
劇場版の宣伝の一環で、某コンビニチェーンで一番くじが販売されると知れ渡ったのは今から約一ヶ月前。
A賞は主人公である魔法少女のフィギュアはもちろんのこと、B賞、C賞にもそうそうたる顔ぶれが立体化されて並ぶ。
ここに熱狂的なそのアニメの一ファンの少女がいた。
主人公のツインテールに寄せ、自身もツインテールにするほどの主人公のファンで、放映五分前には正座して待つほどの筋金入り。
今回のくじも、おこづかいを前借りしてまでA賞を狙っていた。
少女は、走り出しそうな勢いでコンビニへ向かった。付添の母親が置いてけぼりになりそうなほど。
母娘がコンビニに赴いたのは、くじが発売されてから三日目。
いくら人気沸騰中のアニメとはいえ、たががアニメのくじ。二日三日では無くならないだろう、と少女の母親がたかをくくっていたのだ。
その見通しは甘かった。少女が意気揚々と向かった店先には、
『好評につき終了』
という店先に張り出された張り紙。
他の店にも行ってみたが、結果は同じだった。
今日で青いコンビニを何度目にしたことだろう。
母親はさすがに辟易してきたが、それより同じコンビニを転々とさまよう娘をかわいそうに思った。
そしてとうとう最後のコンビニの店に入る。すると母娘の苦労を知ってか知らずか、店員は「終了しました」とおざなりに頭を下げた。
この一帯を一周して、見事に全滅した。
母娘は天に見放されたような心地で店を出る。炎天下の下、ただただ費やした時間はいったい何だったのか。
「ごめんね、せめて私が初日に行こうって言ってれば……」
母親が半泣きの娘に謝罪すると、少女は激しく横に頭を振った。
代わりに今まで堪えていた涙を決壊させた。悲痛な叫び声を上げる。
「くじ買えなかったのも、ぜーんぶオタクのお兄さんたちのせいだー!」
「えーん!」と周囲に響き渡る少女の泣き声に、道を歩いていた一部の大人たちがビクッとした。
日を跨ぐ約一時間半前にして、ずたずたに疲れ切った身体をソファーに沈めた。
(やっと一日が終わる……)
足を上げて、膝を丸める。ドーナツ型の蛍光灯をぼんやり見上げていた。
(何もしてないのに、どうしてこんなにつかれるんだろ)
膝の間に顔を埋めたそのとき、ふいにばちばちっと火花が散るような音とともに、部屋全体が真っ暗になった。電気が切れたのだ。
でもだらけた体勢を変えず、そのまま縫い目がやぶれかぶれのソファーの上に座っていた。
このごろ一時的な停電が多い。原因が何かはわからないが、すぐ直るのでいったん放置してしまっている。
(これってやっぱどっかから漏電してるとか? ショートっていうの? やだよ、私の家から火がボッとか……ひえー)
思いつつ、行動に移さない。常に受け身で生きてきた自分の悪い癖だと分かっているけど……。
真っ暗のまま寝返りを打ったら、そばにあった箱ティッシュを尻で潰してしまった。
(なんか……潤いとか、ときめき? そういうキラキラしたものが足りないよね)
なんだかなあ、と思いつつひしゃげた箱を拾う。欲しいよー、キラキラ。
(だってさ。植物だって水と日光がなきゃ枯れるのに、人間が日々の潤いも輝きもなしにどうして生きてられるの?)
沈んでいれば気持ちいい沼をたゆたっているうちに、電気はついていた。
部屋内の明るさを取り戻したときには、何を強く切望していたのかも忘れた。