「人を食べたことってありますか?」
いつになく神妙な態度で発された問いに、凍りついた。キーボードを叩いていた手を離し、恐る恐る隣に座る男に目を向ける。
彼は通常通り欠けたところのない、非常にバランスの取れた笑みを浮かべていた。
この笑顔を見ていると、こんなことを聞いてくる彼を異常だと思ってしまうわたしの方が異常なのだと錯覚させられそうになる。
「まあ、僕はないんですけどね」
彼はのほほんとした声色で「おいしいらしいですよ。知らないけど」と付け足した。目の前の顔をひっかいてやりたくなった。
「で、どうですか」
彼が続けて尋ねてきた。何やらそわそわした様子で。
「はあ……何がですか?」
平坦な声で無難な返答をすると、彼は「察しが悪いな」と言わんばかりに盛大な溜め息をついた。
「僕といっしょに、世界のカニバリズム文化を体験する旅に出かけませんか?」
食べて、食べて、たまに少し食べられて、また食べて……。彼は目を閉じて、少し口元を緩めて話す。
会社の備品であるキーボードを叩き割りそうになった。沸騰寸前の鍋みたいに指先がぐらぐらと震える。
――今、この男は何と言った? カニバリズム文化を体験?
頭を振った。そんな文化、体験したくない。人の肉をかけらでも食べるなら、一週間裸族体験するほうがマシだ。
逡巡ののち、最初の言葉の重大さにようやく気がつく。同行者が、この男……?
うぶ毛までもが総毛立った気がした。
冗談にしても、面白くないを通り越して不愉快極まりない……!
「ぜーったいに、い・や・で・す!」
思わず腹から力を出して叫んでしまった。一字一字刻みながら。
今まで適度なざわめきを保っていたオフィスがしんと静まり返った。同僚たちの視線が突き刺さる。
わたしは羞恥心から一気に身を縮こませた。元凶はこの男なのに、何か理不尽だ。
ちらと隣に目をやると、彼は涼しい顔でかかってきた内線電話を取っていた。
「はい福祉課ですう」じゃないよ。あんたが一番いちゃいけない課だっつーの。ていうかあなたこの仕事向いてないよね。
壁に両手をつき、そっと耳を押し当てる。
すると薄い壁だから、たちまち聞こえてくるのだ。隣に住んでいる男女の会話や、生々しい生活音とかが。
僕が盗み聞きなんてはしたない真似をするようになったのは、半年前、隣の部屋にその男女が越してしたことが発端だった。
引っ越して当日の夜からさっそく、夜道を最速で走るバイクのような爆音が壁を突き抜けて聞こえてきた。
何事かと耳を澄ますと、お互いに論理がめちゃくちゃな主張を喚き散らしていた。酔っているのか、二人とも日本語もまともではない。
あなたのせい。いやお前のせいだ。
喧嘩するほどとはいうけど、あの荒れ模様は度が過ぎている。
ところが、僕の偏った頭は歓喜していた。
もっと喧嘩しろ。もっと荒れろ。そして別れろ。ついでに世界中の美男美女カップルが消えろ。中の上、もしくは中の中たまに下の下くらいの顔が世間にあふれれば、僕はもっと生きやすくなる。
コンプレックスの塊の思考の中、ふと思った。あの女性は一体どんな風に怒りを表すのだろうか――。
そのとき、女性の甲高い悲鳴が耳をつんざいた。
髪を鷲掴みにされた上、床に引き倒されたらしい。やっぱり。知能でも力でも女は男に劣るから。
だが次の瞬間、男の低い呻き声が聞こえてきた。色っぽい声ではない。苦痛を伴う声だ。その上に、女の荒い息遣いが重なる。
僕はラジオのスポーツ中継でも聞いているような気分で、自然に男の方に感情移入して応援していた。
(がんばれ! 女なんかに負けるな!)
そのとき僕の頭の中には、黒髪を振り乱し、凄まじい形相で怒りまくる日本人形の姿があった。だって家具の搬入のときに一度だけ見かけた新顔の女性が、日本人形そのものだったから。
僕は昔見たアニメに出てきた日本人形と、隣の女性を重ねていた。
その人形は肘や肩や腰や膝の関節を、めちゃくちゃな位置で折り曲げながら迫ってくる。当時子供だった僕は恐ろしさにぞっとした。
だがそのアニメが、僕に何かを目覚めさせるきっかけでもあった。
そして今隣の部屋では、とても信じられないがあのアニメとまるで同じ現象が起きている。
壊されそうになりながらも、あの日本人形は最後の力を振り絞って――。
二人の喧嘩がフィニッシュを迎える頃には、寝酒にと用意していた熱燗はすっかり冷たくなっていた。
私は衝動的な奇声を発しながら、スマホを壁に投げつけた。
がごががん。スマホはテレビ台やテーブルの間を転々と落ちて、物が壊れるときの不吉な音をさせて沈黙した。
耳鳴りがして、我に返った。
何も聞こえなくなれと呪いをかけていた耳が、本当に何も聞こえなくなったような気がした。何か分からないが、涙がじわりと溢れてくる。
ご老体のスマホに無体を働いてしまった。罪悪感らしきものが私の中に一瞬よぎる。
でも、このスマホだって悪いのだ。右利き優位のアプリばかり寄せ集めてきて、私の劣等感を煽ってくるこのスマホが!
無限の可能性を映し出してくれるスマホは、もはや私の世界そのものなのに!
……世界のほうは、私に優しくないけど。
今も昔も、どこだって右利き優先だ。スマホで何かを保存するにも、✕が異様に小さい広告を消すにも。
あのメモアプリも、その画像保存アプリも……ああ、あの執筆アプリもそうだ。何度保存し損ねて、辛酸を舐めさせられたことか。連ねていったらきりがない。
スマホだってそうなのだから、現実世界はもっと冷たい。
バスの乗降口では必ずもたつくし、駅の改札だって。階段の手すりはほぼ右側についている。
そのたびに仕方ないって分かっちゃいるけど、叫びたくなる。〝ああもう……死ね!〟って。
特にスマホの片手打ち(それに左手)なんて、もう笑ってしまうくらいにもう行き場所がないのだ。
しかも手のひらサイズのスマホは年々消滅して、ポケットからはみ出るほど大きいスマホがもてはやされる時代である。
(前に友達の新しいスマホ試しに触らせてもらったけど、落としちゃって怒られたな)
考え事をしていると、怒りは波のように引いていった。スマホは逝ったが、代わりに行き場のないやるせなさが残る。
今からスマホの残骸を直視しなければならない。私がスマホを死に至らしめたという現実と向き合わなければならない。
罪悪感がはっきりした形でどっと押し寄せてきて、なんだかさらに泣けてきた。
私は目尻に浮かんでいた涙を指で拭った。意を決して、部屋の片隅で静かに転がっていたスマホを拾い上げる。
――二〇二五年、二月七日。だいたい午前一時頃。(スマホが時計代わりだったのでよく分からない)
およそ七年間酷使し続けてきた私のスマホ様が、画面にヒビが入られたお姿で天に召されました。南無。
私は正座して、スマホを私の目の高さくらいの棚に置いた。スマホスタンドを使ったら、ちょうど遺影みたいになった。
故スマホ様を拝んでご冥福をお祈りしているうちに、いつのまにか寝落ちしてしまっていたらしい。
いつも朝の四時くらいに起きる父が、スマホに向かって深く礼をしている私を見て、腰を抜かしそうになったという。
「何かの儀式かよ……」
父がそう呟いているころ、私は新しいスマホを買ってはしゃぐ夢を見ていた。
新品のスマホは画面が大きくて、ポケットに収まりきらなかった。
彼女が淡い声色で尋ねてきた。
「せっけん、買っておいてくれた?」
俺は彼女の舌足らずの問いに対して、否定もしなかったが頷きもしなかった。他のことに夢中だったからだ。
だが吐息が「うん」に聞こえたらしい。彼女は俺の反応を見届けると、満たされた表情を浮かべて目を閉じた。
後日、自分の早とちりだと判明すると、彼女はせっけんの買い置きをしなかった俺を責めた。
「せっけんなんてどうでもいいだろうが。普通のでいいだろ、普通ので」
洗面台の前に立ち歯を磨きながら、適当にあしらう。すると彼女はしばらく口を閉ざし、「だってあのとき、うん、って言った」と渋い顔で言い募った。
まだ不機嫌そうに仕事に出かけた彼女を見届けたあと、ノートパソコンでほぼ常連の通販サイトを開いた。
(ああ、ああ。心ここにあらずだった俺も確かに悪いよ。でもベッドの中の会話をいちいち気に留めてるやつがどこにいるよ。本当は洗顔用だったのなんて、俺が知るかよ)
頭の中に不満をまき散らしながら、ネットの海を彷徨う。
一気に目に流れ込んでくる化粧品の情報。スクロールしてもスクロールしても、商品一覧はえんえんと続いて終わる気配がない。
(……クレンジング? 敏感肌用? よく分からんが、まあ高けりゃいいだろう)
いいかげん辟易して、手早く片を付けようとした。適当に目をつけた、高級保湿洗顔クレンジングオイルをワンクリックで購入する。
ご機嫌取りの意味もあった。だがこれがよくなかった。
――やはり後日、届いた商品を見て「これじゃない!」とヒステリックに喚く彼女と、壁に穴が開くほどの本気の喧嘩になった。
(not) heart to heart
食事時は、家族が心通わせるひとときだという。だが僕たち家族に限ってはそうじゃなかった。
「母さん。僕、東京へ行きます」
母の「ああ、そう」という極めて淡白な返事を、どうやら僕は一生忘れられそうにない。
自分を含めた母と弟の三人で、広い食卓を囲んでいる最中のことだった。
別に勇気を振り絞ったというわけでもない。でもこれを言う前に軽い深呼吸は一回した。
少食の母は早々に食卓を立ち、それから取ってつけたように言った。
「あなたはこの家を背負って立つ者です。がんばりなさい」
母から僕への餞の言葉に、弟が白飯を喉に詰まらせる気配がした。
昔から弟は周囲の空気の変化に敏感だった。というより、僕に比べて母がかけてくるプレッシャーに弱い。
見るといつの間にか食欲をなくしたのか、弟が皿の上におかずを残したまま箸を置いていた。
これから弟を苛むであろう苦難に、僕は笑顔で蓋をした。