「人を食べたことってありますか?」
いつになく神妙な態度で発された問いに、凍りついた。キーボードを叩いていた手を離し、恐る恐る隣に座る男に目を向ける。
彼は通常通り欠けたところのない、非常にバランスの取れた笑みを浮かべていた。
この笑顔を見ていると、こんなことを聞いてくる彼を異常だと思ってしまうわたしの方が異常なのだと錯覚させられそうになる。
「まあ、僕はないんですけどね」
彼はのほほんとした声色で「おいしいらしいですよ。知らないけど」と付け足した。目の前の顔をひっかいてやりたくなった。
「で、どうですか」
彼が続けて尋ねてきた。何やらそわそわした様子で。
「はあ……何がですか?」
平坦な声で無難な返答をすると、彼は「察しが悪いな」と言わんばかりに盛大な溜め息をついた。
「僕といっしょに、世界のカニバリズム文化を体験する旅に出かけませんか?」
食べて、食べて、たまに少し食べられて、また食べて……。彼は目を閉じて、少し口元を緩めて話す。
会社の備品であるキーボードを叩き割りそうになった。沸騰寸前の鍋みたいに指先がぐらぐらと震える。
――今、この男は何と言った? カニバリズム文化を体験?
頭を振った。そんな文化、体験したくない。人の肉をかけらでも食べるなら、一週間裸族体験するほうがマシだ。
逡巡ののち、最初の言葉の重大さにようやく気がつく。同行者が、この男……?
うぶ毛までもが総毛立った気がした。
冗談にしても、面白くないを通り越して不愉快極まりない……!
「ぜーったいに、い・や・で・す!」
思わず腹から力を出して叫んでしまった。一字一字刻みながら。
今まで適度なざわめきを保っていたオフィスがしんと静まり返った。同僚たちの視線が突き刺さる。
わたしは羞恥心から一気に身を縮こませた。元凶はこの男なのに、何か理不尽だ。
ちらと隣に目をやると、彼は涼しい顔でかかってきた内線電話を取っていた。
「はい福祉課ですう」じゃないよ。あんたが一番いちゃいけない課だっつーの。ていうかあなたこの仕事向いてないよね。
2/9/2025, 4:34:13 AM