僕は妹に恋をした――。
だなんて、フィクションの出来事だと思っていた。美しい役者たちが、自分たちの血の繋がりゆえに葛藤する役柄を演じるからこそ、より映えるのだと。
自分は十人並の容姿だと自覚している。
不細工でもないが、美男子でもない。その自分の身に映画や漫画の中の話が降りかかってくると、苦笑いしか出てこなかった。
「兄妹でそんなことしちゃいけないのよ」
分かってる。分かってるよ。分かってるけどさ。
俺よりも激情的な妹がテーブルを叩いて、感情をあらわにした。
事情を知ってしまった両親の生温い目が何よりも痛い。俺たちは両親の目を揃って見ないようにした。
お兄ちゃんから何かないの、と母親が穏やかな顔で急かしてきた。
でも俺からは何も言えない。俺は妹と関係を持ったことを、後悔はしてないからだ。
(……マジでどこから話が漏れたんだろ)
あいつ? それともあいつ?
自分たちの落ち度を棚に上げて友達に責任転嫁する俺は、最低の自覚を持っていなかった。
銀の灰皿から煙がくすぶっていた。
同棲している男が喫煙者なので、何の不思議もない。
それにしても様子がおかしい。男の愛飲している煙草の匂いとは違うのだ。まったくの無臭。
近づいて灰皿の中身を覗いてみる。
(消し炭……?)
よく見ると燃え残りの部分に、手書きの文字が見て取れる。
まだ熱を残している燃えかすを拾うと、それは見覚えのある筆跡だった。差出人の彼の文字は、丸みを帯びた線が女の子みたい。
そのとき、ふと煙草の匂いが配後から香ってきた。私にとっては少し辛いそれは、同居人が愛飲する銘柄の匂いで間違いない。
振り向くと、想像通り同居人の男がいた。
白い壁にもたれかかってこちらを見ていた。いつになく空虚な目をしている。
部屋が汚れるのを嫌い、いつもベランダで煙草を吸う男にしては珍しく、室内で吸っている。
「何かお探しかい」
男は挑発とも無関心とも取れる調子で言った。
灰皿に近づいてきた男は、消し炭の上からさらに、煙草の先をぎゅっと押し付ける。焼け残りの部分が完全に焼けた。
「わりいな。てっきりいらねえもんかと思って、燃やしちまったぜ」
てか、いまどき文通って。
私の私物を灰にした男は、無邪気にそう言ってのけた。
約五畳の空間の扉が閉められた。
部屋には未だくすぶる煙と、立ち上る煙を眺める私だけが取り残される。煙を吸い込んで派手に咳き込んだ。
「……ごめんなさい。一文字も読めなくって」
か細い謝罪も、くゆる煙と共に天井に向かって消えた。
「僕にはゲイの弟がいるんですけど」
わたしは口に含んでいたトマトジュースラテあんこ添えを吹いた。
その変わり種のメニュー内容のせいか、客の衰退が顕著な喫茶店の一角。
突然のカミングアウトと思えば、他人の話題である。頭がついていかない。
「だからって勘違いしないでくださいね。兄の僕まで、弟に毒されているってわけじゃないですから」
にこにこ。
貼り付けたような笑みを浮かべた彼の目が、わたしはとても苦手だった。有無を言わさない圧迫感で持って押してくる。
わたしは慌てて彼から目線を逸らす。
彼は一瞬息をするのを忘れたわたしに、気を良くしたようだった。
「そりゃ、一時期はそう思ったでもないですけど。男が寄ってくるたびに、いくらきれいな顔をしててもこいつ、ついてるんだよな、とか考えたら、やっぱり女の身体が恋しくなりました」
自分はのうのうと普通のコーヒーのカップを傾ける彼に、胸のあたりがほのかに熱くなった。この場合、この温かみは怒りだ。
わたしはグラスを置き、平静を努めながら彼の名前を呼んだ。応えるように彼もわたしを見返す。
「あなたがゲイでも何でも、どうでもいいです」
「冷たいんですね」
「だってわたしには関係ないですもん、マジで」
トマトジュースラテをずぞぞと吸い込む。決しておいしくないそれを飲み干そうとするのは、お金をドブに捨てたくない精神からだ。
「そこまで興味を示してくれないと、落ち込みます」
めんどくさいな。
わたしは接客業で培った鉄壁の表情筋で、頭によぎったことを顔に出ないようにこらえた。代わりに諦め半分の声が、力なく喉を通り抜ける。
「じゃあ別れますか?」
多少わざとらしく手をふると、彼は過剰に反応を示した。
「とんでもない。そんな悲しいこと、軽々しく言わないでください。僕、男女問わずモテますけど、愛してるのはあなただけだから」
まあ女のあなたよりモテてるかな、と付け加えられた一言で、もともと地を這っていたこの男への好感度が、底を貫いた。
毎日同じ内容の夢を見る。化物が私を追いかけてくる夢だ。
……いや、化物という言い方は語弊がある。私の過去のトラウマが、異形の形を取って現れているだけだ。
私は自分の過去と向き合えるほど勇敢ではない。だから夢につけ入る隙を簡単に見せてしまう。
でも昨日の夢はひと味違った。
病気で亡くなった祖母を、夢の中の私は屋上から突き落とした。今まで過去の影に怯えるだけだった私が、昨日は死んだ祖母の退路を塞いで追いつめていたのだ。
人を追い詰める側になるのは、思いのほか楽しかった。
弱気ですぐ泣いてしまう私はいったいどこへやら。夢の中では攻撃的な性格になり、救急車を呼ぶために電話をかけるにも快感を見出していた。
仮にも身内を、っていう罪悪感はなかった。
だって、これは夢の中の話だ。コントロールを失ってる最中で、正気に戻れという方が無理な話である。
できることなら終わらない連鎖を断ち切りたい。だけどいまさら頭は変えられない。
こうなると今日の夢にも期待してしまう。
登場人物はできれば父以外がいいな。でも夢の中なら、父も罪悪感なく殺せるのだろうか。
おやすみなさい。
「明日、週刊誌に不倫報道が出る」
帰ってくるなり、うつろな目で告知された。
特撮出身の正統派イケメンで通っている彼だから、事務所に相当揉まれたのだろう。今朝までしゃんとしていた顔が、玄関に突っ立って、なんだか衰えている。
「あのね」
私は革靴を脱ごうとしていた彼を短い一言で遮った。彼が緩慢な動きで脚を止める。
「私、あなたが不倫してること、とっくの昔に知ってた。まだ売り出し中のグラビアの子だよね。清楚系で巨乳の」
中途半端に片足立ちになっている彼の心臓の音は、無音の中、こちらまで聞こえてくる。
「何も知らないと思ってるのは、パパだけだよ」
「……そう」
つい聞き逃しそうな声で、ごめんね、と謝ってきた。いまさら謝られても遅いっていうのに。