わたしの名前は、日向。ひなたと読む。
命名当時は、読みにくい名前だとか、キラキラネームだとか、親戚からさんざん不評を買ったらしい。あいにく、わたし自身は普通の高校生に育った。
わたしには一回り年の離れた弟がいる。名前を日陰という。
〝日向〟と〝日陰〟。
別に双子でもないのに合わせる必要あるのか、と四十歳手前で出産した母に問うと、
「妹か弟ができたら、対の名前をつけるのが夢だったの」
ととろけるような笑顔で言った。
精神科にかかりきりの母親は正直当てにならない。父親は半年前に蒸発した。なので、姉のわたしがまだ小さな弟の世話を見るはめになった。
日陰はとにかくわがままな子供だった。
夜泣きはうるさいし、偏食は激しいし(卵しか食べない)、おねしょは五歳になった今でも続いている。そんなことは子供だから仕方ないと思えば、ひとまず目をつむれた。
だが愛らしい顔に秘めた暴力性が垣間見えるある出来事に、わたしは目を覚されたた。
日陰が二歳か三歳のとき、託児所に預けたことがある。通っている定時制高校が日中登校だった。
日陰を迎えに行くと、沈痛な面持ちの担当者が説明してくれた。よその子供をおもちゃのブロックで殴りつけたらしい。
もううちでは預かれません、と頭を下げる担当者に向かって、日陰は最後までふてぶてしい目つきをしていた。
「ねーちゃん」
考えに耽っていると、突然背後から聞こえてきた高い声に振り返る。澄み切った声変わり前の綺麗な声。
身内の贔屓目でなくても、女の子と見紛うほどの綺麗な男の子だと思う。こんな黄ばんだ電球の下で、菓子パン(片親パンとかいう酷い名前がつけられているらしい)を貪っているべき場合じゃない。
「漏らした」
見ると、日陰が履いているブリーフが濡れている。手に持っているズボンから、水滴がぽたぽたと垂れていた。
「仕方ないわね」
わたしは帳簿をつけていたノートを閉じた。
饐えた臭いを放つズボンをまず受け取り、洗濯用のバケツへ放り込む。
「ほら、パンツも脱いで」
「うん」
日陰もまた慣れた手つきで下着を脱ぐ。まるで早業だ。
「ねーちゃん」
「ん」
「大人になってもオシッコの処理してくれる?」
日陰は期待に満ちた目で、見上げてきた。
そのとき、冷たいものが背筋に走った。ブロックで殴られた相手の子の気持ちが、手に取るようにわかってしまったからだ。
「……どうかな」
「決まってるよ。だって俺たちは一人じゃ半人前なんだから」
浮かべた世界の闇を集約したような笑みは、とても五歳のものとは思えなかった。
銃殺刑に処された男のために捧げる祈りなんてない。
人類史上の死因の中で、最も間抜けな死因だと思う。笑うための表情筋も死んでいるが、爆笑したい気分だ。
この日のために仕立てた黒の帽子を目深にかぶる。
ラフな服装の参列者の一人が、奇異なものを見る目を向けてきた。
そうでしょう、そうでしょう。
目から黒い涙を流しているのは、さぞかし異様でしょう。
『自分には関係のない遠い国の話だと思っていませんか。ですが日本も例外ではないのです』
あなたにとっては小さな一歩でも、この地球にとっては大きな前進となり――。
清潔感溢れるアナウンサーがはつらつと喋っている。気温変動で将来消える可能性がある国というのが、紙芝居式で分かりやすく紹介されていた。
次に芸能の話題に切り替わるワイドショーを背中で流し聞きながら、わたしは朝食を作るときに出た油を流しに捨てた。
(資源も話題も使い捨てのくせしてなに言ってんのさ)
寝る前にこんなssを書いたからか、悪夢の三本立てを見た。
ここ一ヶ月くらい悪夢とか変な夢続きだったけど、心臓が冷えた心地がした夢は久々だった。
布団の中であんまり変なこと考えるもんじゃないね。死んだ父が家に凸してきたり、蛇と鴨のセックス見たり、病院で手の平サイズの錠剤を無理やり飲まされてげえげえ吐き出すことになるから。じゃあ半分に割るからって、そんなんで飲めるわけねえだろ。
無機質な女の声が、俺の意識を呼び起こした。
「そろそろ起きてください」
聞き慣れた声が俺を呼んでいる。呼ばれるように目を開いた。
声の主は、この高校の養護担当の教諭だった。そこそこの美人だが年齢不詳で、たまに深い闇の色を垣間見せる。個人的には苦手な先生だが、あちらはそうでもないらしい。
「次の授業が始まるので教えただけです。寝ていたいなら、そのまま寝ていていいです」
この異色の先生は、なぜか俺にだけ優しい。俺をエコ贔屓しているのだ。
先生は本来、生徒の保健室の利用に難色を示した。仮病目的の利用は特に厳しく禁じている。
軽薄な生徒を病的に嫌っていると言ってもいい。そんなに潔癖な性質で、よくもまあ高校の養護教諭なんか勤まるもんだと思う。
俺もその軽薄で最低な生徒の一人だ。愛人の子という事実が教師や生徒に知れ渡り、教室にいるのが耐え難くなった。本妻の子がいる自宅では心休まらず、保健室しか逃げ場がない。
先生はいかにもな理由で保健室を訪ねても、笑って迎え入れてくれる。マンモス校なので千人近くいる生徒の中、ただ一人俺だけ。
それが俺には不満だった。
俺は寝起きの回っていない頭で、聡明な先生に尋ねた。
「なんで俺にだけ優しいんですか」
俺の声には、責める色が入り混じっていた。先生は間仕切りのカーテンを開け放したまま、突っ立っている。
「先生と俺がデキてるとか言う奴らもいるんですよ」
やっと先生が小馬鹿にしたように笑う。望んでいない親密さによって、すっかり見慣れた表情だ。
「言わせておけばいいんですよ。私はいっこうに困りません」
「困るんですよ、俺が。ただでさえ教室にいづらいのに」
「じゃあ卒業までずっとここにいますか」
「あのな……」
先生は飄々と交わし続ける。これではらちがあかない。
「……俺の家と、何か関係ありますか」
先生がつまらなさそうに間仕切りのカーテンを泳がせていた手をぴたりと止めた。黒い目がゆっくりと俺を射止める。
「あなたの家とは何も関係ありません。興味もないですね」
「じゃああんたが俺なんかに執着する理由はなんだ。金目的なら、弟に擦り寄ったほうが手っ取り早いぞ」
「らちがあきませんね」
どっちが。
そう言いたいのをぐっとこらえた。
先生はネイルも何も施されていない、洒落っ気のない爪を唇に当てていた。考えて、何かを口に出す前の癖だ。
短い爪がやけに目につく。綺麗に整えられている。
ふと先生は窓辺に赴くと、青無地の遮光カーテンを閉めた。部屋の中が一気に薄暗くなる。突然の薄闇によって目がびっくりさせられて、一瞬先生の居場所が分からなくなった。
「そうですね。じゃあはっきり言いますけど、前世って信じますか」
あらぬ方向から飛んできたのは、俺が知っている先生からは縁遠いメルヘンチックな言葉。
首をひねると、凄みがある微笑みを浮かべている先生がいた。加えて俺を見る先生の目つきは、尋常じゃないほど鬼気迫っている。
彼女の深い闇が垣間見えた。そして思った。この女、やっぱりおかしいと。