気がつくと、俺は女の細い手を掴んでいた。
「行くなよ。死ぬぞ」
一拍置いて、女が振り向いた。たったそれだけの動作なのに、女の切り揃えられた前髪がやけに目につく。
「私が心配ですか」
「当たり前だろう。何のために俺がここにいると思っているんだ」
「さあ、何のためでしょう」
逆に問われて、言葉に詰まる。
この女はこんなときでも冷たい笑みを崩さない。
「私が向こうへ行くことは、あなたにとっても都合がいいのではないですか? とりあえず厄介な存在はなくなると思います。当面の間は」
聞こえてくる無機質な声に、俺はただただ絶句するのみだった。それでも意地で首を振ってみせる。
「ダメだ。あの男のもとへ下ることは」
「なぜです。もう外で待ち構えていますよ」
「どうしても行くと言うなら、今、俺がお前をここで殺す」
語気を強めて言うと、女は初めて意外そうな顔をして、そして笑った。
「できないくせに」
「いいや、やる。お前があっちに行ってもここで殺しても、どうせ俺は殺されるに決まってるんだ。なんたって身分が下だからな」
自分で言っていて悲しくなってきた。思わず俯いてしまう。
そのとき、女の靴の爪先が視界に入った。女の匂いが鼻をかすめる。
顔を上げそうになると、女が小さな声で「そのままで」と俺の耳元で囁いた。
「そんな卑屈なあなただからこそ、私は選んだのです。あの人たちは屈折した心というものを知らない。いつでも自分たちこそが正しいと、まっすぐに信じている。その心こそが傲慢だというのに」
女は俺に背を向け、この空間から消えた。
結局、最後まで女の心は掴みきれないままだった。
「目を閉じてください」
にこにこと笑顔で言ったその男の言葉には乗らず、わたしはただ訝しげに目を細めた。
「なんですか、いきなり」
我ながら冷たい反応に、男が年甲斐もなく首を傾げる。
「あれ。お医者さんごっこって、なんかこんなんじゃなかったっけ」
じゃあ、と今度は我儘な子供を諭すような口調で語りかけてきた。
「服を脱いでばんざーい……」
間延びした猫撫で声に、ぞわぞわとしたものが身体中を駆け巡る。
気がつくとわたしは、全てを言い終わる前に男の頬を思い切り引っぱたいていた。
家に不審なものが届いた。というより玄関先に置かれていた。赤い包装紙で包まれたそれは、正方形でスイカ大の大きさ。
郵便物をチェックしに外に出たら、門柱の上に赤い箱が置かれていたのでびっくりした。いっときそれと目が合う。
迷ったが、なまものだったらいけないので、ひとまず得体の知れないそれを家の中に入れた。
箱を持ち上げたとき微かに鼻をついたのは、吐き気を誘うような酸っぱい臭い。波乱の予感がしたが、それの中身を思うといても立ってもいられなかった。
送り主が不明ということは、直接そこに置いていった者がいるということ。
こんな手の込んだ嫌がらせをする相手に、実は心当たりがないでもない。だがそれを認めるのも癪なので、今は送り主については考えないことにした。
部屋に臭いがつくのも嫌なので、風呂場で開封することにした。
両手に箱を持ってひたひたと移動する。フローリングの床がいやに冷たい。
――開けるな!
これを見つけたときから、がんがんと警鐘が打ち鳴らされ続けている。訴えかけてくる本能の声に蓋をして、私は紐の結び目に指をかけた。生臭い紐がするすると解けていくたびに、私の手も汚れていく感じがする。
(酷い男。この私にも犯罪の片棒を担がせようだなんて)
彼女が道端に咲いているタンポポなんかに目を奪われている。多分、季節外れの物珍しさからだろうが。
僕は呆れて言葉も出ないかわりに、自然にため息がふうと出た。だがタンポポに夢中な彼女はそれにも気づかない。おまけにタンポポに気を取られ、足取りも危ない。
(なんて無防備なんだ。これじゃ道路の溝か何かにつまづいてこけてしまうかも。なんせこの人はちょっと抜けている。そうだ、助けてあげよう。怪我の理由がタンポポに見惚れてたじゃ浮かばれない)
――ああ、僕ってなんて優しいんだ。
僕はぷらぷらと揺れる彼女の手を、タイミングを見図って捕まえた。そのときの気分はレスキューに駆けつけた消防隊員さながらで、思いのほか悪くなかった。
人のために何か行動を起こすのは心地いい。人に感謝されるのもいい。意中の相手ならなおさら。
「ぎゃあっ」
その直後、悲鳴を上げた彼女に手を振り払われたけど。
「い、いきなりなに!?」
彼女は火が出そうな勢いで、僕に握られた右手をいつまでもさすっている。
「だって、こけそうだったよ」
「あんたに関係ない!」
癇癪気味に喚き散らす彼女とあくまでも冷静を装う僕に、行き交う人の視線が突き刺さる。
「手が冷たいからいや、とは言わないんだ」
「は?」
「僕はね、あなたの手があたたかくてあいつまでも握っていたかったよ」
念入りに髪をとき、一回瞬きしてから鏡を見た。
化粧台に腰掛けた私が、無表情でこちらを見ている。髪は完璧に整えられているのに、下は寝間き姿というちぐはぐな格好をした私が。
私がじっと動かずにいると、あちら側の私も頑なに動かないので、何とか言葉をひりだしてみる。
「……嫌い」