気がつくと、俺は女の細い手を掴んでいた。
「行くなよ。死ぬぞ」
一拍置いて、女が振り向いた。たったそれだけの動作なのに、女の切り揃えられた前髪がやけに目につく。
「私が心配ですか」
「当たり前だろう。何のために俺がここにいると思っているんだ」
「さあ、何のためでしょう」
逆に問われて、言葉に詰まる。
この女はこんなときでも冷たい笑みを崩さない。
「私が向こうへ行くことは、あなたにとっても都合がいいのではないですか? とりあえず厄介な存在はなくなると思います。当面の間は」
聞こえてくる無機質な声に、俺はただただ絶句するのみだった。それでも意地で首を振ってみせる。
「ダメだ。あの男のもとへ下ることは」
「なぜです。もう外で待ち構えていますよ」
「どうしても行くと言うなら、今、俺がお前をここで殺す」
語気を強めて言うと、女は初めて意外そうな顔をして、そして笑った。
「できないくせに」
「いいや、やる。お前があっちに行ってもここで殺しても、どうせ俺は殺されるに決まってるんだ。なんたって身分が下だからな」
自分で言っていて悲しくなってきた。思わず俯いてしまう。
そのとき、女の靴の爪先が視界に入った。女の匂いが鼻をかすめる。
顔を上げそうになると、女が小さな声で「そのままで」と俺の耳元で囁いた。
「そんな卑屈なあなただからこそ、私は選んだのです。あの人たちは屈折した心というものを知らない。いつでも自分たちこそが正しいと、まっすぐに信じている。その心こそが傲慢だというのに」
女は俺に背を向け、この空間から消えた。
結局、最後まで女の心は掴みきれないままだった。
1/24/2025, 2:47:54 PM