しぎい

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壁に両手をつき、そっと耳を押し当てる。
すると薄い壁だから、たちまち聞こえてくるのだ。隣に住んでいる男女の会話や、生々しい生活音とかが。

僕が盗み聞きなんてはしたない真似をするようになったのは、半年前、隣の部屋にその男女が越してしたことが発端だった。

引っ越して当日の夜からさっそく、夜道を最速で走るバイクのような爆音が壁を突き抜けて聞こえてきた。
何事かと耳を澄ますと、お互いに論理がめちゃくちゃな主張を喚き散らしていた。酔っているのか、二人とも日本語もまともではない。

あなたのせい。いやお前のせいだ。
喧嘩するほどとはいうけど、あの荒れ模様は度が過ぎている。

ところが、僕の偏った頭は歓喜していた。
もっと喧嘩しろ。もっと荒れろ。そして別れろ。ついでに世界中の美男美女カップルが消えろ。中の上、もしくは中の中たまに下の下くらいの顔が世間にあふれれば、僕はもっと生きやすくなる。

コンプレックスの塊の思考の中、ふと思った。あの女性は一体どんな風に怒りを表すのだろうか――。

そのとき、女性の甲高い悲鳴が耳をつんざいた。
髪を鷲掴みにされた上、床に引き倒されたらしい。やっぱり。知能でも力でも女は男に劣るから。

だが次の瞬間、男の低い呻き声が聞こえてきた。色っぽい声ではない。苦痛を伴う声だ。その上に、女の荒い息遣いが重なる。

僕はラジオのスポーツ中継でも聞いているような気分で、自然に男の方に感情移入して応援していた。

(がんばれ! 女なんかに負けるな!)

そのとき僕の頭の中には、黒髪を振り乱し、凄まじい形相で怒りまくる日本人形の姿があった。だって家具の搬入のときに一度だけ見かけた新顔の女性が、日本人形そのものだったから。

僕は昔見たアニメに出てきた日本人形と、隣の女性を重ねていた。
その人形は肘や肩や腰や膝の関節を、めちゃくちゃな位置で折り曲げながら迫ってくる。当時子供だった僕は恐ろしさにぞっとした。

だがそのアニメが、僕に何かを目覚めさせるきっかけでもあった。
そして今隣の部屋では、とても信じられないがあのアニメとまるで同じ現象が起きている。
壊されそうになりながらも、あの日本人形は最後の力を振り絞って――。

二人の喧嘩がフィニッシュを迎える頃には、寝酒にと用意していた熱燗はすっかり冷たくなっていた。

2/8/2025, 5:37:44 AM