私は衝動的な奇声を発しながら、スマホを壁に投げつけた。
がごががん。スマホはテレビ台やテーブルの間を転々と落ちて、物が壊れるときの不吉な音をさせて沈黙した。
耳鳴りがして、我に返った。
何も聞こえなくなれと呪いをかけていた耳が、本当に何も聞こえなくなったような気がした。何か分からないが、涙がじわりと溢れてくる。
ご老体のスマホに無体を働いてしまった。罪悪感らしきものが私の中に一瞬よぎる。
でも、このスマホだって悪いのだ。右利き優位のアプリばかり寄せ集めてきて、私の劣等感を煽ってくるこのスマホが!
無限の可能性を映し出してくれるスマホは、もはや私の世界そのものなのに!
……世界のほうは、私に優しくないけど。
今も昔も、どこだって右利き優先だ。スマホで何かを保存するにも、✕が異様に小さい広告を消すにも。
あのメモアプリも、その画像保存アプリも……ああ、あの執筆アプリもそうだ。何度保存し損ねて、辛酸を舐めさせられたことか。連ねていったらきりがない。
スマホだってそうなのだから、現実世界はもっと冷たい。
バスの乗降口では必ずもたつくし、駅の改札だって。階段の手すりはほぼ右側についている。
そのたびに仕方ないって分かっちゃいるけど、叫びたくなる。〝ああもう……死ね!〟って。
特にスマホの片手打ち(それに左手)なんて、もう笑ってしまうくらいにもう行き場所がないのだ。
しかも手のひらサイズのスマホは年々消滅して、ポケットからはみ出るほど大きいスマホがもてはやされる時代である。
(前に友達の新しいスマホ試しに触らせてもらったけど、落としちゃって怒られたな)
考え事をしていると、怒りは波のように引いていった。スマホは逝ったが、代わりに行き場のないやるせなさが残る。
今からスマホの残骸を直視しなければならない。私がスマホを死に至らしめたという現実と向き合わなければならない。
罪悪感がはっきりした形でどっと押し寄せてきて、なんだかさらに泣けてきた。
私は目尻に浮かんでいた涙を指で拭った。意を決して、部屋の片隅で静かに転がっていたスマホを拾い上げる。
――二〇二五年、二月七日。だいたい午前一時頃。(スマホが時計代わりだったのでよく分からない)
およそ七年間酷使し続けてきた私のスマホ様が、画面にヒビが入られたお姿で天に召されました。南無。
私は正座して、スマホを私の目の高さくらいの棚に置いた。スマホスタンドを使ったら、ちょうど遺影みたいになった。
故スマホ様を拝んでご冥福をお祈りしているうちに、いつのまにか寝落ちしてしまっていたらしい。
いつも朝の四時くらいに起きる父が、スマホに向かって深く礼をしている私を見て、腰を抜かしそうになったという。
「何かの儀式かよ……」
父がそう呟いているころ、私は新しいスマホを買ってはしゃぐ夢を見ていた。
新品のスマホは画面が大きくて、ポケットに収まりきらなかった。
彼女が淡い声色で尋ねてきた。
「せっけん、買っておいてくれた?」
俺は彼女の舌足らずの問いに対して、否定もしなかったが頷きもしなかった。他のことに夢中だったからだ。
だが吐息が「うん」に聞こえたらしい。彼女は俺の反応を見届けると、満たされた表情を浮かべて目を閉じた。
後日、自分の早とちりだと判明すると、彼女はせっけんの買い置きをしなかった俺を責めた。
「せっけんなんてどうでもいいだろうが。普通のでいいだろ、普通ので」
洗面台の前に立ち歯を磨きながら、適当にあしらう。すると彼女はしばらく口を閉ざし、「だってあのとき、うん、って言った」と渋い顔で言い募った。
まだ不機嫌そうに仕事に出かけた彼女を見届けたあと、ノートパソコンでほぼ常連の通販サイトを開いた。
(ああ、ああ。心ここにあらずだった俺も確かに悪いよ。でもベッドの中の会話をいちいち気に留めてるやつがどこにいるよ。本当は洗顔用だったのなんて、俺が知るかよ)
頭の中に不満をまき散らしながら、ネットの海を彷徨う。
一気に目に流れ込んでくる化粧品の情報。スクロールしてもスクロールしても、商品一覧はえんえんと続いて終わる気配がない。
(……クレンジング? 敏感肌用? よく分からんが、まあ高けりゃいいだろう)
いいかげん辟易して、手早く片を付けようとした。適当に目をつけた、高級保湿洗顔クレンジングオイルをワンクリックで購入する。
ご機嫌取りの意味もあった。だがこれがよくなかった。
――やはり後日、届いた商品を見て「これじゃない!」とヒステリックに喚く彼女と、壁に穴が開くほどの本気の喧嘩になった。
(not) heart to heart
食事時は、家族が心通わせるひとときだという。だが僕たち家族に限ってはそうじゃなかった。
「母さん。僕、東京へ行きます」
母の「ああ、そう」という極めて淡白な返事を、どうやら僕は一生忘れられそうにない。
自分を含めた母と弟の三人で、広い食卓を囲んでいる最中のことだった。
別に勇気を振り絞ったというわけでもない。でもこれを言う前に軽い深呼吸は一回した。
少食の母は早々に食卓を立ち、それから取ってつけたように言った。
「あなたはこの家を背負って立つ者です。がんばりなさい」
母から僕への餞の言葉に、弟が白飯を喉に詰まらせる気配がした。
昔から弟は周囲の空気の変化に敏感だった。というより、僕に比べて母がかけてくるプレッシャーに弱い。
見るといつの間にか食欲をなくしたのか、弟が皿の上におかずを残したまま箸を置いていた。
これから弟を苛むであろう苦難に、僕は笑顔で蓋をした。
僕は妹に恋をした――。
だなんて、フィクションの出来事だと思っていた。美しい役者たちが、自分たちの血の繋がりゆえに葛藤する役柄を演じるからこそ、より映えるのだと。
自分は十人並の容姿だと自覚している。
不細工でもないが、美男子でもない。その自分の身に映画や漫画の中の話が降りかかってくると、苦笑いしか出てこなかった。
「兄妹でそんなことしちゃいけないのよ」
分かってる。分かってるよ。分かってるけどさ。
俺よりも激情的な妹がテーブルを叩いて、感情をあらわにした。
事情を知ってしまった両親の生温い目が何よりも痛い。俺たちは両親の目を揃って見ないようにした。
お兄ちゃんから何かないの、と母親が穏やかな顔で急かしてきた。
でも俺からは何も言えない。俺は妹と関係を持ったことを、後悔はしてないからだ。
(……マジでどこから話が漏れたんだろ)
あいつ? それともあいつ?
自分たちの落ち度を棚に上げて友達に責任転嫁する俺は、最低の自覚を持っていなかった。
銀の灰皿から煙がくすぶっていた。
同棲している男が喫煙者なので、何の不思議もない。
それにしても様子がおかしい。男の愛飲している煙草の匂いとは違うのだ。まったくの無臭。
近づいて灰皿の中身を覗いてみる。
(消し炭……?)
よく見ると燃え残りの部分に、手書きの文字が見て取れる。
まだ熱を残している燃えかすを拾うと、それは見覚えのある筆跡だった。差出人の彼の文字は、丸みを帯びた線が女の子みたい。
そのとき、ふと煙草の匂いが配後から香ってきた。私にとっては少し辛いそれは、同居人が愛飲する銘柄の匂いで間違いない。
振り向くと、想像通り同居人の男がいた。
白い壁にもたれかかってこちらを見ていた。いつになく空虚な目をしている。
部屋が汚れるのを嫌い、いつもベランダで煙草を吸う男にしては珍しく、室内で吸っている。
「何かお探しかい」
男は挑発とも無関心とも取れる調子で言った。
灰皿に近づいてきた男は、消し炭の上からさらに、煙草の先をぎゅっと押し付ける。焼け残りの部分が完全に焼けた。
「わりいな。てっきりいらねえもんかと思って、燃やしちまったぜ」
てか、いまどき文通って。
私の私物を灰にした男は、無邪気にそう言ってのけた。
約五畳の空間の扉が閉められた。
部屋には未だくすぶる煙と、立ち上る煙を眺める私だけが取り残される。煙を吸い込んで派手に咳き込んだ。
「……ごめんなさい。一文字も読めなくって」
か細い謝罪も、くゆる煙と共に天井に向かって消えた。