「僕にはゲイの弟がいるんですけど」
わたしは口に含んでいたトマトジュースラテあんこ添えを吹いた。
その変わり種のメニュー内容のせいか、客の衰退が顕著な喫茶店の一角。
突然のカミングアウトと思えば、他人の話題である。頭がついていかない。
「だからって勘違いしないでくださいね。兄の僕まで、弟に毒されているってわけじゃないですから」
にこにこ。
貼り付けたような笑みを浮かべた彼の目が、わたしはとても苦手だった。有無を言わさない圧迫感で持って押してくる。
わたしは慌てて彼から目線を逸らす。
彼は一瞬息をするのを忘れたわたしに、気を良くしたようだった。
「そりゃ、一時期はそう思ったでもないですけど。男が寄ってくるたびに、いくらきれいな顔をしててもこいつ、ついてるんだよな、とか考えたら、やっぱり女の身体が恋しくなりました」
自分はのうのうと普通のコーヒーのカップを傾ける彼に、胸のあたりがほのかに熱くなった。この場合、この温かみは怒りだ。
わたしはグラスを置き、平静を努めながら彼の名前を呼んだ。応えるように彼もわたしを見返す。
「あなたがゲイでも何でも、どうでもいいです」
「冷たいんですね」
「だってわたしには関係ないですもん、マジで」
トマトジュースラテをずぞぞと吸い込む。決しておいしくないそれを飲み干そうとするのは、お金をドブに捨てたくない精神からだ。
「そこまで興味を示してくれないと、落ち込みます」
めんどくさいな。
わたしは接客業で培った鉄壁の表情筋で、頭によぎったことを顔に出ないようにこらえた。代わりに諦め半分の声が、力なく喉を通り抜ける。
「じゃあ別れますか?」
多少わざとらしく手をふると、彼は過剰に反応を示した。
「とんでもない。そんな悲しいこと、軽々しく言わないでください。僕、男女問わずモテますけど、愛してるのはあなただけだから」
まあ女のあなたよりモテてるかな、と付け加えられた一言で、もともと地を這っていたこの男への好感度が、底を貫いた。
毎日同じ内容の夢を見る。化物が私を追いかけてくる夢だ。
……いや、化物という言い方は語弊がある。私の過去のトラウマが、異形の形を取って現れているだけだ。
私は自分の過去と向き合えるほど勇敢ではない。だから夢につけ入る隙を簡単に見せてしまう。
でも昨日の夢はひと味違った。
病気で亡くなった祖母を、夢の中の私は屋上から突き落とした。今まで過去の影に怯えるだけだった私が、昨日は死んだ祖母の退路を塞いで追いつめていたのだ。
人を追い詰める側になるのは、思いのほか楽しかった。
弱気ですぐ泣いてしまう私はいったいどこへやら。夢の中では攻撃的な性格になり、救急車を呼ぶために電話をかけるにも快感を見出していた。
仮にも身内を、っていう罪悪感はなかった。
だって、これは夢の中の話だ。コントロールを失ってる最中で、正気に戻れという方が無理な話である。
できることなら終わらない連鎖を断ち切りたい。だけどいまさら頭は変えられない。
こうなると今日の夢にも期待してしまう。
登場人物はできれば父以外がいいな。でも夢の中なら、父も罪悪感なく殺せるのだろうか。
おやすみなさい。
「明日、週刊誌に不倫報道が出る」
帰ってくるなり、うつろな目で告知された。
特撮出身の正統派イケメンで通っている彼だから、事務所に相当揉まれたのだろう。今朝までしゃんとしていた顔が、玄関に突っ立って、なんだか衰えている。
「あのね」
私は革靴を脱ごうとしていた彼を短い一言で遮った。彼が緩慢な動きで脚を止める。
「私、あなたが不倫してること、とっくの昔に知ってた。まだ売り出し中のグラビアの子だよね。清楚系で巨乳の」
中途半端に片足立ちになっている彼の心臓の音は、無音の中、こちらまで聞こえてくる。
「何も知らないと思ってるのは、パパだけだよ」
「……そう」
つい聞き逃しそうな声で、ごめんね、と謝ってきた。いまさら謝られても遅いっていうのに。
わたしの名前は、日向。ひなたと読む。
命名当時は、読みにくい名前だとか、キラキラネームだとか、親戚からさんざん不評を買ったらしい。あいにく、わたし自身は普通の高校生に育った。
わたしには一回り年の離れた弟がいる。名前を日陰という。
〝日向〟と〝日陰〟。
別に双子でもないのに合わせる必要あるのか、と四十歳手前で出産した母に問うと、
「妹か弟ができたら、対の名前をつけるのが夢だったの」
ととろけるような笑顔で言った。
精神科にかかりきりの母親は正直当てにならない。父親は半年前に蒸発した。なので、姉のわたしがまだ小さな弟の世話を見るはめになった。
日陰はとにかくわがままな子供だった。
夜泣きはうるさいし、偏食は激しいし(卵しか食べない)、おねしょは五歳になった今でも続いている。そんなことは子供だから仕方ないと思えば、ひとまず目をつむれた。
だが愛らしい顔に秘めた暴力性が垣間見えるある出来事に、わたしは目を覚されたた。
日陰が二歳か三歳のとき、託児所に預けたことがある。通っている定時制高校が日中登校だった。
日陰を迎えに行くと、沈痛な面持ちの担当者が説明してくれた。よその子供をおもちゃのブロックで殴りつけたらしい。
もううちでは預かれません、と頭を下げる担当者に向かって、日陰は最後までふてぶてしい目つきをしていた。
「ねーちゃん」
考えに耽っていると、突然背後から聞こえてきた高い声に振り返る。澄み切った声変わり前の綺麗な声。
身内の贔屓目でなくても、女の子と見紛うほどの綺麗な男の子だと思う。こんな黄ばんだ電球の下で、菓子パン(片親パンとかいう酷い名前がつけられているらしい)を貪っているべき場合じゃない。
「漏らした」
見ると、日陰が履いているブリーフが濡れている。手に持っているズボンから、水滴がぽたぽたと垂れていた。
「仕方ないわね」
わたしは帳簿をつけていたノートを閉じた。
饐えた臭いを放つズボンをまず受け取り、洗濯用のバケツへ放り込む。
「ほら、パンツも脱いで」
「うん」
日陰もまた慣れた手つきで下着を脱ぐ。まるで早業だ。
「ねーちゃん」
「ん」
「大人になってもオシッコの処理してくれる?」
日陰は期待に満ちた目で、見上げてきた。
そのとき、冷たいものが背筋に走った。ブロックで殴られた相手の子の気持ちが、手に取るようにわかってしまったからだ。
「……どうかな」
「決まってるよ。だって俺たちは一人じゃ半人前なんだから」
浮かべた世界の闇を集約したような笑みは、とても五歳のものとは思えなかった。
銃殺刑に処された男のために捧げる祈りなんてない。
人類史上の死因の中で、最も間抜けな死因だと思う。笑うための表情筋も死んでいるが、爆笑したい気分だ。
この日のために仕立てた黒の帽子を目深にかぶる。
ラフな服装の参列者の一人が、奇異なものを見る目を向けてきた。
そうでしょう、そうでしょう。
目から黒い涙を流しているのは、さぞかし異様でしょう。