『自分には関係のない遠い国の話だと思っていませんか。ですが日本も例外ではないのです』
あなたにとっては小さな一歩でも、この地球にとっては大きな前進となり――。
清潔感溢れるアナウンサーがはつらつと喋っている。気温変動で将来消える可能性がある国というのが、紙芝居式で分かりやすく紹介されていた。
次に芸能の話題に切り替わるワイドショーを背中で流し聞きながら、わたしは朝食を作るときに出た油を流しに捨てた。
(資源も話題も使い捨てのくせしてなに言ってんのさ)
寝る前にこんなssを書いたからか、悪夢の三本立てを見た。
ここ一ヶ月くらい悪夢とか変な夢続きだったけど、心臓が冷えた心地がした夢は久々だった。
布団の中であんまり変なこと考えるもんじゃないね。死んだ父が家に凸してきたり、蛇と鴨のセックス見たり、病院で手の平サイズの錠剤を無理やり飲まされてげえげえ吐き出すことになるから。じゃあ半分に割るからって、そんなんで飲めるわけねえだろ。
無機質な女の声が、俺の意識を呼び起こした。
「そろそろ起きてください」
聞き慣れた声が俺を呼んでいる。呼ばれるように目を開いた。
声の主は、この高校の養護担当の教諭だった。そこそこの美人だが年齢不詳で、たまに深い闇の色を垣間見せる。個人的には苦手な先生だが、あちらはそうでもないらしい。
「次の授業が始まるので教えただけです。寝ていたいなら、そのまま寝ていていいです」
この異色の先生は、なぜか俺にだけ優しい。俺をエコ贔屓しているのだ。
先生は本来、生徒の保健室の利用に難色を示した。仮病目的の利用は特に厳しく禁じている。
軽薄な生徒を病的に嫌っていると言ってもいい。そんなに潔癖な性質で、よくもまあ高校の養護教諭なんか勤まるもんだと思う。
俺もその軽薄で最低な生徒の一人だ。愛人の子という事実が教師や生徒に知れ渡り、教室にいるのが耐え難くなった。本妻の子がいる自宅では心休まらず、保健室しか逃げ場がない。
先生はいかにもな理由で保健室を訪ねても、笑って迎え入れてくれる。マンモス校なので千人近くいる生徒の中、ただ一人俺だけ。
それが俺には不満だった。
俺は寝起きの回っていない頭で、聡明な先生に尋ねた。
「なんで俺にだけ優しいんですか」
俺の声には、責める色が入り混じっていた。先生は間仕切りのカーテンを開け放したまま、突っ立っている。
「先生と俺がデキてるとか言う奴らもいるんですよ」
やっと先生が小馬鹿にしたように笑う。望んでいない親密さによって、すっかり見慣れた表情だ。
「言わせておけばいいんですよ。私はいっこうに困りません」
「困るんですよ、俺が。ただでさえ教室にいづらいのに」
「じゃあ卒業までずっとここにいますか」
「あのな……」
先生は飄々と交わし続ける。これではらちがあかない。
「……俺の家と、何か関係ありますか」
先生がつまらなさそうに間仕切りのカーテンを泳がせていた手をぴたりと止めた。黒い目がゆっくりと俺を射止める。
「あなたの家とは何も関係ありません。興味もないですね」
「じゃああんたが俺なんかに執着する理由はなんだ。金目的なら、弟に擦り寄ったほうが手っ取り早いぞ」
「らちがあきませんね」
どっちが。
そう言いたいのをぐっとこらえた。
先生はネイルも何も施されていない、洒落っ気のない爪を唇に当てていた。考えて、何かを口に出す前の癖だ。
短い爪がやけに目につく。綺麗に整えられている。
ふと先生は窓辺に赴くと、青無地の遮光カーテンを閉めた。部屋の中が一気に薄暗くなる。突然の薄闇によって目がびっくりさせられて、一瞬先生の居場所が分からなくなった。
「そうですね。じゃあはっきり言いますけど、前世って信じますか」
あらぬ方向から飛んできたのは、俺が知っている先生からは縁遠いメルヘンチックな言葉。
首をひねると、凄みがある微笑みを浮かべている先生がいた。加えて俺を見る先生の目つきは、尋常じゃないほど鬼気迫っている。
彼女の深い闇が垣間見えた。そして思った。この女、やっぱりおかしいと。
気がつくと、俺は女の細い手を掴んでいた。
「行くなよ。死ぬぞ」
一拍置いて、女が振り向いた。たったそれだけの動作なのに、女の切り揃えられた前髪がやけに目につく。
「私が心配ですか」
「当たり前だろう。何のために俺がここにいると思っているんだ」
「さあ、何のためでしょう」
逆に問われて、言葉に詰まる。
この女はこんなときでも冷たい笑みを崩さない。
「私が向こうへ行くことは、あなたにとっても都合がいいのではないですか? とりあえず厄介な存在はなくなると思います。当面の間は」
聞こえてくる無機質な声に、俺はただただ絶句するのみだった。それでも意地で首を振ってみせる。
「ダメだ。あの男のもとへ下ることは」
「なぜです。もう外で待ち構えていますよ」
「どうしても行くと言うなら、今、俺がお前をここで殺す」
語気を強めて言うと、女は初めて意外そうな顔をして、そして笑った。
「できないくせに」
「いいや、やる。お前があっちに行ってもここで殺しても、どうせ俺は殺されるに決まってるんだ。なんたって身分が下だからな」
自分で言っていて悲しくなってきた。思わず俯いてしまう。
そのとき、女の靴の爪先が視界に入った。女の匂いが鼻をかすめる。
顔を上げそうになると、女が小さな声で「そのままで」と俺の耳元で囁いた。
「そんな卑屈なあなただからこそ、私は選んだのです。あの人たちは屈折した心というものを知らない。いつでも自分たちこそが正しいと、まっすぐに信じている。その心こそが傲慢だというのに」
女は俺に背を向け、この空間から消えた。
結局、最後まで女の心は掴みきれないままだった。
「目を閉じてください」
にこにこと笑顔で言ったその男の言葉には乗らず、わたしはただ訝しげに目を細めた。
「なんですか、いきなり」
我ながら冷たい反応に、男が年甲斐もなく首を傾げる。
「あれ。お医者さんごっこって、なんかこんなんじゃなかったっけ」
じゃあ、と今度は我儘な子供を諭すような口調で語りかけてきた。
「服を脱いでばんざーい……」
間延びした猫撫で声に、ぞわぞわとしたものが身体中を駆け巡る。
気がつくとわたしは、全てを言い終わる前に男の頬を思い切り引っぱたいていた。