最初に惹かれたのは、彼女の額から迸る汗だった。
無色透明の雫の中に、彼女の色彩が映り込む。
当時は知るよしもなかったが、染められた黒い髪の毛はキラキラと光を乗せていた。
白帯の中を小さな体で自在に飛び回り、なびく白い体育着。
小さなスニーカーが摩擦音を鳴らすたび、紫色の靴紐が激しく踊った。
おとなしそうな顔をしておいて、ギラギラと黒い瞳に闘志を宿す。
獣のように闘争心むき出しの彼女の光彩陸離たる姿に、俺は心を奪われた。
うだるような暑さにまいっていた高校2年の夏休み。
彼女を中心に、なんでもない体育館のあらゆる色がきらめいた。
彼女に恋をし続けて10年。
ともに生涯を誓った今となっても、この思いが色褪せることはなかった。
*
懐かしい緑色のキャンディ缶をスーパーで見かけて手に取った。
缶の中には、赤色や黄色といったカラフルなフルーツキャンディが入っている。
口寂しくなったら食べるつもりでリビングのローテーブルに置いていたら、走り込みから帰宅した彼女が目ざとく見つけてきた。
今日は気温も低く風も強い。
彼女は鼻っ柱を真っ赤にしていた。
外の寒さも甘味には勝てないのか、彼女は瑠璃色の瞳をキラキラと輝かせる。
「ねえ、一個食べていい?」
「ええ。かまいませんよ」
うなずけば、彼女は上機嫌に缶を振って甘やかな音を鳴らした。
めったに食べないせいか、飴玉ひとつで目を輝かせる彼女がかわいい。
心地いい缶の音を耳にしながら、俺は夕飯の下準備を進めた。
「れーじくん」
トコトコとイタズラっ子のような含んだ笑みを浮かべて、彼女が俺の背後にくっつく。
「なんですか?」
俺の様子をうかがいながら、ワザとらしく甘えてきた。
「あーん♡ して?」
彼女は俺を見上げ、猫撫で声で頼み込む。
かわいいっ!!!!
かわいい彼女がかわいく取り繕ったらかわいいが爆発した。
「あーん♡」
彼女の意図など考えずに無条件に口を開けば、ポンッと口の中になにを突っ込まれる。
コロンと歯に当たりながら口内に転がった感触から、キャンディを差し込まれたことは想像に難くない。
ツンとした爽やかな香りが口の中に広がった。
「ハッカって苦手でした?」
「別に。気分じゃなかっただけ」
苦手ならまだしも、気分ひとつで押しつけられたのか。
彼女もずいぶんとワガママになったものだ。
丹精込めて愛情を注いできた甲斐がある。
「イチゴとかメロンとかがよかったの」
「なるほど」
もう一度、彼女は缶を振って中身を取り出す。
小さな手のひらに乗ったのは四角い形をしたオレンジ色だった。
「むぅ」
希望の味が出なかったことに、彼女はふてくされる。
手のひらに乗せるまで、なにが出てくるかわからないのも醍醐味だ。
「フルーツには変わりませんよ?」
「確かに」
軽く宥めると、あっさり納得した彼女はひょいっと飴玉を頬張る。
コロコロと口の中で飴玉を転がし、目元を綻ばせた。
「おいしい」
「それはなによりです」
彼女から缶を取り上げて、蓋を閉める。
あとから彼女が取り出しやすいように、戸棚の一番低い場所にしまった。
「あとで好きに食っていいですから、まずは風呂行ってきてください」
「はーい」
風呂に向かうため、彼女はくるりと体を翻す。
その背中を見送ったあと、俺も夕食の準備をすすめたのだった。
『雪』
『かわいい下着が入ってた』
ちょっと、タンマッ!?
事件は飲み会の最中に起こるらしい。
届いたメッセージを確認するや否や、慌てて携帯電話の画面を裏側にしてテーブルに置いた。
メッセージの差出人は彼女である。
師走前にもかかわらず、彼女が福袋を予約していたことを思い出した。
年が明けて彼女のほうも仕事が始まっている。
帰りがけに福袋を引き取りに行ったことは容易に想像がついた。
できれば一緒に中身を確認したかったが、しかたがない。
彼女が買った荷物を彼女のタイミングで開封することに文句を垂れるほど、器量は狭くないつもりだ。
問題は、今、このタイミングでそのメッセージを寄越した意図である。
俺、今日は飲み会があるって言ったよな!?
年始早々、ドデカい誘惑をぶら下げられて帰りたくなった。
しかし、他部署の人も交えた仕事の飲み会で、さすがに1次会の途中で抜けられるはずがない。
不自然にならないように離席した俺は、人目のつかない場所で再びメッセージアプリを立ち上げた。
先ほどのメッセージのほかに、数枚の画像が添付されている。
見慣れたローテーブルの上に、見慣れない華美で布面積が心許ないランジェリーが5組並べられていた。
ほかには靴下が3足と、黒とベージュのフェイクタイツが各1点、紺色のシンプルなルームウェアが1点。
ずいぶん豪華なラインナップだ。
写真が少しブレていたり、品物にフォーカスを当てすぎて背景がボヤけているから、彼女自身もご機嫌な様子が伝わってくる。
『よかったですね』
あえて福袋の中身には触れず、当たりさわりのないメッセージを送ったら、すぐに既読がついた。
『どのパンツが好き?』
普段は既読すらつけないクセして、こんなときばっかり爆速で返信が来る。
しかも言葉をぼかすことすらしなくなった。
画面越しとはいえ、逃してくれそうにない彼女からの見えない圧を感じ取る。
どれって……。
正直なところどれでもいい。
彼女は職業柄、スポーツタイプのインナーウェアを着用するのが常だ。
キラキラとしたレースや細やかな刺繍で装飾された下着を彼女が身につければ、俺の心臓は爆発するに決まっている。
『右側の白いヤツ』
ヤケクソになって、透け感に嫌な予感がしつつも、一番布面積が大きそうな下着を選んだ。
すると、すぐに彼女から電話がかかってくる。
「……なんですか?」
『めっちゃイラついてるじゃん』
1コール鳴り終わる前に出ると、クスクスと彼女の楽しそうな声が溢れた。
『10時までに帰ってきてくれたら、選んでくれたヤツ着て待っててあげる』
…………は?
魅惑的な提案に心が揺さぶられたが、ふたつ返事で食いつくには条件が厳しすぎる。
「それ、俺が今、どこにいるかわかってて言ってます?」
『新宿でしょ?』
そう。
新宿から自宅まではどうがんばっても30分はかかる。
一次会が終わるのは21時だ。
会計、二次会参加の押し問答、解散前の意味のなさない記念撮影、どう逆算しても22時に帰宅なんてできる気がしない。
『がんばってね』
言いたいことだけ言って、彼女は情け容赦なく通話を切った。
以降は、俺がどれだけ着信やメッセージを残しても、うんともすんとも反応がない。
クッッソ!?
仮に寝てたとしても着替えさせて、心ゆくまで堪能してやるからな!?
一次会を終えた俺は、速攻で家に向かった。
*
息を切らし、汗だくになりながら明かりの消えた自宅に戻った俺は、すぐに寝室に直行した。
時刻は22時2分前。
「ウソぉ!?」
間に合うと思っていなかったのか、彼女は目を丸くした。
寝室の常夜灯になった明かりを主照明に切り変え、ベッドで横たわる彼女の羽毛布団を引っぺがす。
彼女の上に跨り、パジャマの前ボタンを外していった。
「うわっ!? ねぇ、ちょっと待って……!?」
この期に及んで往生際悪く抵抗を見せるが、ズボンのウエストゴムをずり下げたらおとなしくなった。
約束通り、彼女は上下ともに画像で見せてもらった下着を身につけている。
なんだ。
間に合わなくても、待っててくれるつもりだったのか。
ホッとした俺は、奥ゆかしく膨らむ彼女の胸に触れた。
繊細にあしらわれた白いレースの上には、よく見ると雪の結晶が散りばめられている。
差し色で入っている青の細いリボンの装飾が、彼女の白くて滑らかな肌をきれいに引き立てていた。
ブラのカップやショーツのクロッチはきちんと布があてがわれているが、そのほかは目に毒なほど白く透けている。
えっろ……。
生唾を飲んで喉を鳴らした俺に、彼女はジリジリと後ずさった。
「あ、あのさ。さすがに無言で服を引っぺがすのはどうかと思う」
なんとでも言え。
身の危険を感じるには遅すぎるくらいだ。
とはいえ、彼女を怖がらせるのは本意ではない。
俺は、艶かしい緩やかなラインを描くウエストに指を這わせた。
ショーツのゴムの内側に指をかけ、散る雪の結晶の刺繍に口づける。
「美しい初雪ですね?」
「ひぇっ!?」
上ずった声を溢した彼女と目が合った。
瑠璃色の瞳に宿ったわずかな期待を、今さら俺が見逃すはずがない。
かわいい。
きれい。
好き。
愛してる。
思いつくままに彼女への気持ちを言葉にしながら、徐々に熱を孕んでいく彼女の皮膚に触れていった。
『君と一緒に』
高校時代、仲のよかったクラスメイトと、こじんまりとした同窓会を開くことになっていた。
俺自身は軽い飲み会の気分でいたのだが、同窓会が明後日に控えた今になって、規模が大きくなっていたことを知る。
参加者の中には当時の交際相手もいるようだった。
長年片思いをしていた彼女を妻に迎えて3年余り。
俺は彼女に同窓会に参加することを伝えていたし、彼女は俺を快く送り出そうとしてくれていた。
しかし、元カノが参加するとなると話は変わってくるだろう。
状況が変わり、俺は参加を取り止めようと彼女に事情を説明する。
「元カノも何人か来るみたいで……」
「何人かって……」
しまった。
動揺のあまり、正直に伝えすぎた。
案の定、彼女は眉を寄せながらソファの背もたれに体を預けて、天井を仰ぐ。
「そんな若いときから節操ないつき合い方してたわけ?」
「ぐっ」
高校2年生のときの夏休みに、俺は彼女に一目惚れをする。
あのとき、彼女には既に交際相手がいた。
幸せそうに笑う彼女を泣かせたり、浮気をさせるなんて俺にはできない。
横恋慕する勇気もなく、結果として、俺は彼女を諦めるために、何人かの女性と関係を持った。
俺なりに誠実に交際相手と向き合ったつもりだったし、いくらヤケになっていたとはいえ同時に複数、ということは誓ってしていない。
節操がない、とまで言い切られるのは腑に落ちなかった。
いや、こんなのはただの言いわけだな。
身から出た錆には変わりない。
年明け早々、不愉快な話を聞かせてしまった彼女には申しわけが立たなかった。
「すみません。飲み会は断っておきます」
「なんで? れーじくん、今日の飲み会、楽しみにしてたじゃん」
「それは、まあ」
料理も酒もうまそうな店だったから、楽しみにはしていた。
とはいえ、彼女を不安にさせてまで参加したい飲み会なんてない。
……の、だが……。
彼女が気にしているそぶりは全くなかった。
「それに、こんなドタキャンみたいなことしたら幹事に迷惑かからない?」
それどころか、もっともらしい正論で嗜められてしまう。
「それは、そうですが……」
は? なんで?
俺が彼女の立場なら発狂ものだ。
男がいる飲み会だけでも気が狂いそうなのに、俺がいないところで彼女と元カレが同じ空間にいるとか耐えられる気がしない。
というか、ちょっとくらい嫉妬しろ!?
澄ました顔であくまでも送り出そうとする彼女のクールな態度に、若干の切なさ覚えた。
彼女への愛が足りていないのだろうか、俺が知らないうちに高感度が下がってしまったのだろうかと不安に苛まれる。
ネガティブな思考を制御できずにいると、彼女が俺の左手を両手で掬い取った。
「虫除け」
薬指で光る結婚指輪を見つめたあと、すり、と頬に当てがわれる。
縋るような眼差しを受け、彼女が不器用に不安がっていることを察した。
「ちゃんとしてくれるんでしょ?」
「もちろんです」
頼りなく溢れる彼女の言葉に、俺は即答する。
ホッと口元を綻ばせて、彼女は俺の左手を離した。
「飲みすぎなければ、2次会とかも行ってきて大丈夫だから。本当に、私のことは気にしないで楽しんできてね?」
ワタワタと、少し照れくさそうに彼女は取り繕う。
俺はたまらずに彼女の体を抱き寄せた。
躊躇っていた彼女の腕が焦ったいほどゆっくりと俺の背中に回される。
一生、推す……!
絶対、推す……!
キュンキュンと胸をときめかせながら、俺は改めて、彼女を愛することを誓うのだった。
*
同窓会の当日。
程よく酒を入れつつも一次会で抜けてきた俺は、急いで自宅まで直帰した。
事前に帰宅の連絡を入れていたため、彼女が玄関で出迎えてくれる。
「戻りました」
「おかえり」
玄関先でのハグを受け入れた彼女は、意外そうにに首を傾げた。
「……って、全然酔ってないじゃん」
ハグひとつでどうしてそんな判断を下したのか甚だ疑問ではあるが、事実である。
彼女を不安にさせないように、写真を撮っては逐一、メッセージアプリに連絡を入れた。
うまい飯と酒の画像や、映り込んだ旧友の関係性だったりを伝える。
なるべく男同士で固まっていたし、これみよがしに左手を使って結婚指輪をアピールした。
「馴染みのメンツというわけでもありませんでしたし、ハメを外すような飲み方はしませんよ」
勧められた酒をかわしたり受け入れたり、不自然にならない程度に隙を見せずにやり過ごす。
自分のことは棚に上げて、酒に飲まれるような子どもじみた飲み方はしないと、念を入れて牽制もした。
「女の子たちの前でカッコつけたんだ?」
全ては彼女のためだというのに、どういう解釈をしたらそうなるのか。
彼女はワザとらしく唇を尖らせてふてくされた。
「ヤキモチですか? かわいいですね?」
彼女の意地悪な物言いがかわいくて、俺もつい同じ土俵に立つ。
「あ、本当に飲みすぎてないだけで、しっかりお酒はちゃんと入れてきたな?」
からかわれたことに気づいた彼女は、イヤそうに俺の腕から抜け出した。
「それにしても早かったね? 2次会は?」
いそいそとリビングに逃げ出す彼女を、上機嫌に追いかける。
「しますよ♡ これから♡ あなたと♡」
「は?」
エコバッグを掲げて見せると、彼女の頭上にハテナマークが浮かび上がったのが見えた気がした。
ポカンと瑠璃色の大きな瞳を瞬かせる彼女の目の前で、エコバッグに入っているリンゴの缶チューハイを取り出す。
「いや、こんな時間からお酒はちょっと」
「半分……、いえ、ひと口だけでいいんです」
普段から彼女が摂生していることはわかっていながらも、俺は俺の主張を押し通した。
「残りは俺が引き受けますから、少しだけ、つき合ってくれませんか?」
「う……」
雰囲気に流されやすい彼女は、俺があざとくお願いをすればある程度なら聞き入れてくれる。
押しつけるように彼女の目の前で差し出せば、ラベルを確認しながら缶チューハイを受け取った。
「3%か……」
アルコール度数を確認した彼女は、深くため息をついた。
プシッとその場でプルタブを立てた彼女は、乾杯の音頭もなく口をつける。
こきゅこきゅと、かわいらしい嚥下音を鳴らし、湿度のこもった目で俺を睨みつけた。
「こんなんで酔えるほど、かわいい体質してないからな?」
「かまいませんよ」
缶チューハイを持ったまま、彼女はソファに座る。
足を組み、ソファの背もたれに体を預けて、彼女は缶チューハイをあおった。
そんな彼女に俺もならう。
真横に腰を下ろし、その小さな体躯に甘えるために擦り寄った。
「酔ってほしくて飲ませているわけじゃありませんから」
「あっそ」
ローテーブルに置いたエコバッグの中から、缶ビールを取り出す。
ツンとした態度を崩さない彼女の缶口に自分の缶を当て、コチンと、軽く音をたてた。
『冬晴れ』
スーツに着替えたあと、リビングのカーテンを開ける。
ベランダの窓からは雲ひとつない青空が広がっていた。
西高東低の冬型の気圧配置が少し緩んだ今日。
連日、骨の髄まで凍えるほど吹き荒んでいた木枯らしもやんでいた。
乾燥した冷たい空気の中、穏やかに照らす太陽は暖かい。
柔らかなその光は、寒さで強張った体をじんわりとほぐしてくれた。
温度が消えた飲みかけのコーヒーをあおり、空になったマグカップをシンクに置く。
仕事用の眼鏡にかけ替え、腕時計をはめた。
鏡で身だしなみを軽く確認したあと、白と青の無地のハンカチを通勤カバンに入れる。
連休が続いていることもあり、彼女はアラームをかけていなかった。
いつもならとっくに起きてくる時間にもかかわらず、彼女はまだ寝室から出てこない。
ひと声かけるために寝室に戻ろうとしたとき、ちょうど部屋の前で彼女と鉢合わせた。
「おはよーぉ……」
「おはようございます」
彼女はブカブカと襟ぐりがよれて、毛玉にまみれた俺のトレーナーを着ていた。
余った袖をぺんぺんと遊ばせながら、彼女は俺の胸元まで擦り寄ってくる。
「またそんな格好して。いつか風邪引きますよ?」
なんて嗜めているが、ベッドの上にワザとらしくトレーナーを脱ぎ捨てていく俺も大概だ。
庇護欲を掻き立てられる衝動は、いつまで経っても慣れない。
「気をつけてるから大丈夫」
眠たそうにしながらも口答えしてきやがった彼女の生意気な太ももに、そっと手を這わせた。
引っかかりのない滑らかな肌の感触は、安定の防御力である。
「…………っ。腹と腰はきちんと温めておいてください」
「いつもれーじくんがあっためてくれるじゃん」
なんとか建前を彼女に伝えて下唇を噛むが、全く意味がなかった。
正月明けでまだ休みボケしている理性が全く仕事をしてくれない。
あー……。無理。
なんで今日、仕事なんだろ。
月曜日なんてなくなってしまえばいいのに。
迫り上がる欲を抑え込むために、胸中で悪態をつきながら彼女を引っぺがした。
「もう出るの?」
「ええ。今、ちょうど声をかけようと思っていたところです」
「そっか」
彼女の瑠璃色の瞳が妖艶に揺れ、唇が蠱惑的にきれいな弧を描いた。
「気をつけて」
そう言って、彼女は瞼を伏せながら顎を上げる。
形のいい薄い桜色の唇をわずかに窄められた。
意図して作られている彼女のキス待ちのツラがよすぎて喉が鳴る。
俺が手を出せないことを知っていて、彼女は容赦なく焚きつけてきた。
コノヤロウ。
本当に、帰ったら覚えとけよ?
開き直った俺は寝室の扉に彼女の背中を押しつける。
短い悲鳴をあげる彼女にかまうことなく、唇を塞いだ。
淫猥な水音を立てる口内と皮膚を堪能したあと、てらてらと艶を帯びた彼女の唇を指で拭う。
「あ、う……?」
へなへなと扉に体重を預ける彼女に、もう一度、唇を軽く啄んだ。
「では、いってきます♡」
彼女の火照った頬を撫でたあと、リビングを出る。
仕事をがんばるモチベーションができた俺は、軽やかな足取りで会社に向かうのだった。
『幸せとは』
朝起きれば隣に彼女がいる。
……なんて、寝汚い俺にそんな都合のいい現実はなかった。
彼女は早朝には外へ走りに行く。
自宅に戻れば作り置きされた朝食を摂り、体幹トレーニングとストレッチをこなすのだ。
休日の俺が起きたときには、彼女の温もりは既にない。
あるのはふかふかな枕に残る、甘やかな整髪剤の香りだけだった。
匂いまでかわいい……。
彼女の枕に顔を埋めて残り香を堪能する。
そのあと、俺はベッドボードに置いている眼鏡をかけて、ベッドから起き上がるのだった。
*
リビングに顔を出すと、キッチンのほうで彼女がジャムの瓶と格闘していた。
「ふんぬっ!?」
やべ。
そんなにキツく閉めたっけな?
彼女はあまりパン類を食べないから、油断していた。
瓶口にタオルまで巻いて、蓋を開けようとしているが、うまくいかないらしい。
「パンなんて珍しいですね?」
「げっ」
声をかければ、顔を上げた彼女と目が合った。
「どんなリアクションしてんですか」
眉を寄せた彼女の手からジャムの瓶を抜き取る。
キュポンッ。
瓶蓋を回せば、小気味のいい音を立てて蓋が開いた。
彼女の小さな手に瓶を乗せれば、唇を尖らせて俺を小突く。
「瓶の蓋すら開けられない面倒くさい女って思われた」
「その思考のほうがよっぽど面倒ですけどね?」
「聞こえてるからな?」
「おっと、口が滑りました」
不器用に俺にときめく彼女の額にキスをする。
ツンと顔を逸らした彼女は俺に背を向け、焼きあがったトーストにイチゴジャムを塗った。
ジャムの甘ったるい香りが食パンの上に乗せられる。
そんな彼女の代わりに、俺は冷蔵庫からサラダを取り出し、皿に盛りつけた。
サラダをテーブルに置いたあと、ついでに牛乳を注ぐ。
トーストを手にした彼女が腰をかけたとき、汁物がないことに気がついた。
インスタントのコーンスープでも用意するか。
電気ケトルに水を入れたあと彼女に声をかける。
「それより、米、足りませんでした?」
「違う。海苔がなかった」
腰をかけた彼女は、お行儀よく「いただきます」と両手を合わせた。
「あれ? 切らしてました?」
「ちょこちょこオヤツに摘んじゃってたから、食べ切ってたみたいで、なくなってたの気づかなかった」
そういえば、焼いた餅を海苔で巻いて食ってたな?
正月休みで気持ちが少し緩んでいたのか、いつもより彼女の食が進んでいた。
咎めるほど過度に暴食をしているわけでもない。
俺は彼女の貴重なもぐもぐタイムを堪能していた。
「最後の1枚を使っておいて、気づかないとかあります?」
「うるさいなあー。外箱が重たかったんだもん」
子どもっぽい言いわけをしていることは自覚しているらしく、彼女はいたたまれなさそうに俯いてしまった。
「……とにかく、あとで買ってくる」
「あ、それなら、俺も一緒に行っていいですか?」
「え? ひとりで行けるよ?」
電気ケトルのお湯が沸き、マグカップに注いだコーンスープを彼女の前に置く。
ついでに俺もコーヒーを淹れ、彼女の真向かいに腰をかけた。
「食材も減ってきたから買い足ししようかと思ってたんですよ」
「ああ、そういう? わかった。手伝う」
両手でマグカップを支えながら、彼女ははふはふとコーンスープの湯気を飛ばす。
左手の薬指のつけ根で光る真新しい指輪に、口元が緩んだ。
「ふふっ。ありがとうございます」
「なんでお礼?」
近所のスーパーで、食材や日用品の買い出しをするだけだ。
彼女の指摘はもっともなのかもしれない。
三が日はしっかり引きこもったため、冷蔵庫の中身が心許ないのは本当だ。
荷物も多くなる予定だから手伝ってくれるのもありがたい。
ただの当たり前の日常だ。
それでも、彼女と過ごす日常は俺にとって当たり前とは程遠い。
「なんとなく、言いたくなったんです」
「変なの」
穏やかに笑う彼女の眩しい笑顔に目を細めた。
本来なら、彼女は俺と交わらない世界にいる。
高嶺の花である彼女に、俺は何度も恋に落ちた。
ひとりで生きることを決めた彼女が、俺とともに人生を歩むことを選んでくれている。
これ以上の幸せなんてないのだと実感した。