帰宅すると、彼女がリビングで俺を出迎えてくれていた。
家鍵を使うことに抵抗がなくなってきた彼女の様子にうれしくなり、テンションが爆上がりする。
しかし、彼女は形のいい眉をつり上げながら、無言で手にしていた大きな青色の紙袋を俺の前に掲げた。
あ。ヤバい。
直感的にそう察知した俺は帰宅早々、彼女の目の前で正座をした。
「どういうことかな? これは」
ボトリ、とその紙袋を落とされる。
正直に打ち開ければよかった、なんて後悔は結果論にすぎなかった。
隠していた物が見つかり、彼女が鬼と化す。
怒っても彼女の完ぺきなビジュは崩れないし、本当に怒ってるからめちゃくちゃ怖いけど鬼になってもかわいくて最高だ。
それに、今回にいたっては言っても言わなくても「それ」が家にある時点で怒られる。
「……」
まさかこんなに早く見つかるとは思わなかった。
「つーかどっから持ってきた?」
冷え切った彼女の声はどこまでも低い。
無駄な抵抗はせず、彼女の尋問に淡々と答えていくことにした。
「どこって、あなたのご実家からです」
「は!?」
紙袋の中身は、彼女の通っていた高校の制服である。
彼女の実家に通いつめ、ようやく手に入れることができたのだ。
しかし、彼女は高校卒業を機に身長を諦めて以降、本格的にウエイトアップを始めて体重が大きく変化したらしい。
あと3日、隠し通していればクリーニングに出してそのままリフォームに持って行けたのだが、予定が狂ってしまった。
「待って……。つ、ついに実家にまで不法侵……」
顔を真っ青にしてプルプル震えているが、俺は将来彼女の旦那さんになる予定だから回りくどいことをする必要はない。
正々堂々、正面玄関からピンポンしたのだ。
「物騒なこと言わないでください。お義兄様方から譲り受けたんです」
「はあぁ!? なんで!?」
彼女はギョッと目をむいたあと、瞬きを繰り返す。
なんでって、理由なんて決まりきっていた。
「ひとりでお義父様に会うのはさすがにまだ怖いです。お義父様にお会いするときはちゃんとついてきてくれないと困ります」
「違うっ! そういうことじゃないっ! いつだよっ!? いつトトとララとそんな仲良くなった!? つかよく捕まったな!?」
「別に仲良くなれたわけではないです」
キャンキャンと喚き散らす彼女は今日も元気いっぱいである。
「こんなもん持って帰ってきておいてっ!?」
彼女が3年間大切に着込んでいた制服を「こんなもん」と称するのはいかがな物だろうか。
反論したかったが彼女がまだまだ元気に怒っているから、質疑応答に徹した。
「これは勝負に勝っただけです」
「え、勝負? なんの?」
キョトンと首を傾げた彼女だが、お義兄様方と勝負することなんてひとつしかなかった。
「推しのかわいいところ選手権です」
「かわ……?」
クラァッと彼女が天を仰いだ。
大声を出しすぎて貧血になってしまったのだろうかと心配していたが、急に元気になる。
「待て待て待て待て!? 推しってまさか私のことじゃないだろうなっ!?」
「ほかに誰がいるんですか」
なにをそんなに不安がって慌てているのか。
彼女以上に推せる存在なんてこの世に存在するはずがないというのに。
「前回からレギュレーションを改訂して、新生児から未就学児時代の推しの使用は禁止にしてもらったんですよ。さすがに0〜5歳児時代の魅力を引き合いに出されると勝負にならないんで」
「そんな勝負、二度とすんな……」
大きな声を出して疲れてしまったのか、彼女からひどいことを言われてしまった。
次回はついに「推しの指先で季節と年齢を見極めろ早押しクイズ大会」を解禁することになるかもしれない。
「黒タイツ、紺ソックス、白ニーソ、ルーズソックス、黒のスポーツソックス。ネクタイ、リボンタイ、紐タイそれぞれ組み合わせた写真を贈呈することで譲り受けました。どこのスタジオを借りるかはお兄様方と現在検討中です」
「私の意思を置いていかないでくれる!?」
「イヤなんですか?」
「当たり前だがっ!?」
「ふむ」
鋭く睨みつけられてしまった。
彼女の意思は固そうなので、少しアプローチを変えてみる。
「なら仕方ないですね。俺も制服着ます」
「譲歩してやってる感を出してくるのやめれる!? なんでそんな制服着せたがるんだよ!?」
「だって、制服着てイチャイチャしたくないですか?」
「イチャッ!? は!? し、しないよっ!?」
直球ど真ん中ストレートが好みの彼女は、わかりやすく動揺して頬を染めた。
本当はきちんと準備が整うまで隠しておきたかったが、見つかってしまったものは仕方がない。
俺は頭を床に擦りつけ、ずっと言えなかったことを告げた。
「制服着て俺とイチャイチャしてくださいっ!!」
「絶対に無理ッ!!!!」
「なんでですかっ!!??」
今日一番の彼女の怒声がリビングに響いた。
あの押しに弱い彼女はどこに行ってしまったのか。
彼女の確固たる意志を前にして、俺は号泣した。
『言い出せなかった「 」』
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いたしてはいませんがいつもより肌色強めです。
苦手な方は『次の作品』をポチッとして、自衛をお願いいたします。
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放課後。
教室から出ようとすると、3人の女子に机の周りを囲まれた。
真ん中に立っていた女子が俺の机に両手を置いて身を乗り出す。
「ズバリ! 鷹梁(たかはし)って好きな人いるの?」
「いるよ」
間髪入れずに答える。
3人の少し後ろに立っている女子の肩が揺れた。
残念ながら俺は鈍いタイプではない。
全国大会常連の強豪校のレギュラーかつ1年のときから副部長を務めている俺にとって、それは初めての経験ではなかったからだ。
「え、ウソ!? 誰? だって鷹梁、年上の彼女と別れたばっかりだって言ってたじゃん!?」
つき合っていた彼女と別れたことと、好きな人がいないことはイコールにはならない。
むしろ好きな人ができたから、別れてもらったのだ。
もちろん、そんなこと当人には口が裂けても言えないが。
「内緒」
体よく煙に巻くための口上だと思われても、当然、彼女たちにも教えるつもりはない。
そして、本人にも俺の気持ちなんか知ってもらうつもりなんてなかった。
呆気に取られているクラスメイトを前に俺は立ち上がる。
「要件それだけ? 部活始まるからもう行かないと」
「え、いや。ちょ、鷹梁っ」
その声には聞こえないフリをして、俺は教室を出た。
*
甘ったるく湿度を残した寝室。
俺には少し窮屈なベッドサイズ。
柔らかすぎる枕に、上質なタオルケット。
この幸せに満ちた空間の中で、一気に熱を吐き出して気だるさを残した体を整えた。
「一生、伝えないつもりでいたんだけどな……」
「? なにを?」
声に出すつもりのなかった言葉が漏れ出る。
こんな意味深なことを呟けば、彼女に食いつかれるのは当たり前だ。
しかし、喉が潰れてしまったのか、彼女の声に音が乗っていない。
俺のせいで掠れた声を少しでも潤すために、未開封のペットボトルを渡した。
「とりあえずどうぞ」
「ありがと」
余韻を残した細い腰を支えて彼女の体を起こす。
重力に身を委ねたタオルケットが、先ほど全て暴いて汗ばんだ彼女の上半身を露わにした。
倦怠感と睡魔に苛まれている彼女の意識は、手元にあるペットボトルに向いている。
しどけない姿をガン見する俺のことなど、気にするそぶりはなかった。
ペットボトルのキャップが小気味よく音を立てたあと、口元に運ばれていく。
逆さまに向きを変えたミネラルウォーターが、トプトプと彼女の喉に通っていった。
「少しはマシになりましたか?」
「……誰のせいだと……」
「俺ですね♡」
悪びれることなく答えたら、彼女が睨みつけながらペットボトルのキャップをギチギチに閉める。
「あなたの声は腰にくるのでつい夢中になってしまいました」
「……」
からかいを含めたその言葉に、彼女は肩を揺らしたあと唇をきつく引き結んだ。
その下唇に歯を当てている気がしたから、余熱の残っているであろう耳朶を食む。
俺の想定以上に熱がこもっていたらしく、艶のある声が弾けたと同時に、手にしていたペットボトルがシーツの上に転がった。
薄い膜を張って潤んだ瞳はもう一度瞬きをすれば、涙珠となって溢れてしまいそうである。
もどかしそうに逃げ出そうとする彼女の肩を抱き寄せて、枕元に倒れ込んだ。
「ね、……もっ……」
「しませんよ。体、キツそうですし」
あからさまにホッとされると複雑ではある。
捲れたタオルケットをかけ直して彼女を抱きしめた。
「……推しにガチ恋しているくせに俺を好きになる推しは解釈違いもいいところだったし、俺を好きになるとかそういう仮説を立てている時点で妄想力もここまでくると救えないなと自己嫌悪して。そのクセ日に日に拗れていく対抗心や痛々しく膨らむ独占欲を自覚しては、なに様だよと自分の面の皮の厚さにあきれて100年くらい眠っとけと思うわけで」
「…………急になんの話?」
「あなたが好きだという話です」
「なにそれ……」
素直に照れた彼女は、俺の腕の中でグリグリと額を押しつける。
その後頭部を撫でながら、今さら信じてもらえないであろう事実を伝えた。
「これでも、本当は墓まで持っていくつもりだったんですよ?」
「説得力持ってきてからどうぞ」
案の定、彼女はクスクスと肩を揺らす。
「あなたが軽率に別れたとか言うからです」
きちんと信頼されているからとか、器の小さい男ではないとか惚気ながらごまかしてくれればよかったのに。
タチの悪いナンパが相手だった場合、あんな防御力ではペロッと食べられてしまいそうだ。
しかし……。
「……俺を好きになってくれて、ありがとうございます」
「どういたしまして」
先ほどと変わらず楽しそうに笑う彼女が俺の腕から抜け出して、枕元まで上がってくる。
「で、合ってるの? これ?」
「合ってますよ」
視線を絡めて互いに微笑んだあと、軽くキスを交わす。
欲を言えば彼女からの言葉も欲しいところだ。
しかし、俺と同じ高さになった彼女の視線。
今さら手放せる気がしないこの幸せな距離感を、今は噛みしめることにした。
『secret love』
彼女は俺への扱いは雑なクセに、物の扱いは丁寧だ。
食事の所作をはじめ、靴の揃え方、体を開いて座る割りには立ち上がるときの体幹はブレず、ひとつひとつの動作がきれいで見入ってしまう。
互いに昼食をすませたリビング。
俺はいつものように食器を片づけを始める。
一方、彼女はソファに座って本をパラパラと読み進めていた。
四六判の本をいつものように一定のリズムで刻んでいる。
だが、ページをめくる紙の音がやけにのったりとしていて軽いことに気がついた。
なに読んでるんだ?
気になって彼女の読んでいる本を凝視する。
……見えねえー。
さすがに俺の視力ではキッチンから彼女がなにを読んでいるかまではわからなかった。
諦めて食器を洗うことに集中する。
その後、リビングに戻ってソファの後ろから彼女の読んでいる本を覗き込んだ。
「なに読んでるんですか……って、うわ」
彼女が読んでいたのは用語集だった。
パラパラと1枚ずつ丁寧に紙をめくった彼女の指先が止まる。
本についているスピンを挟んで背表紙を確認した。
「なにって、ただの用語集だよ?」
ソファの背もたれに首を預けて横着に視線を合わせた彼女の額が無防備になる。
ちょいちょいと指で流れた前髪を額に乗せた。
「こういうのって引くものではないんですか?」
「んー?」
用語集とか辞典を読書の対象にする人を初めて見た。
普通なら五十音順に並んでいる言葉を目的に合わせて探すもだろう。
「表記っていう視点で言葉を見たことがなかったから楽しいよ?」
「そうでしたか。それは失礼しました」
彼女のまんまるとした頭部をそっと撫でると、彼女はくすぐったさそうに肩を揺らす。
俺が手を離したあと、それを合図と察した彼女は再び本を開いて読み耽った。
パラパラと手際よく右側に送られていく薄い用紙が、柔らかな風を孕んでゆったりとした音を立てて寝そべっていく。
ページをめくる乾いた音が空調機や、回していた洗濯機の音と混ざりって意外にも心地よく響いた。
ソファの背もたれに肘をかけて彼女の手元をぼんやりと眺める。
洗濯が終わる頃合いや夕飯の献立、スーパーのタイムセールや明日の予定を大雑把に立てていった。
*
しばらくして彼女は静かに本を閉じた。
満足そうにして膝の上に本を置いたタイミングを見て、インスタントスープを入れたマグカップを差し出す。
「どうぞ」
「ありがと。でもさ、タイミングよすぎだろ……」
「それはそうでしょう。見てたんですから」
マグカップに息を吹きかける彼女の隣に座り、膝の上に置かれた本に目をやった。
「というか、それ。満足したら買い取らせてください」
「ん? あぁ。確かにれーじくん向けかもだね?」
「はい。定価の10倍出します」
そう言い放った途端、彼女の口からマグカップが離れ、眼光が鋭く光る。
「ちょっと。なんでそんな値段が跳ね上がるんだよ?」
ローテーブルの上にマグカップを置き、彼女が臨戦態勢に入った。
怒られる覚えは全くないが、プンスコと頬を膨らませているため、弁解してみる。
「あなたの手垢や指紋が全ページにわたってつけられたんですからプレ値がつくのは当然では?」
「言い方やめてもらえる?」
苦いものでも噛み潰したかのように顔をシワクチャにした彼女は、スピンを最初のページに挿し直して用語集を俺の膝に叩きつけた。
彼女の気が変わらないうちに、即座に用語集を両腕で抱え込む。
「あなたの手垢と指紋と皮脂と手汗が染み渡った用語集をどうもありがとうございます」
「はあっ!? なんで増やしたんだよ!?」
急に声を荒げ出した彼女だが、そこまで慌てさせることを言ったつもりはない。
そもそも。
「言い方を変えろと言ったのはそっちですよ?」
「そういうことじゃないからっ! あと、お金はいらないっ!」
「なんでですか?」
「大事に使ってほしいからっ!」
「なるほど。とはいえ、俺の気はすみませんね」
現金を受けつけてくれないなら現物支給しかない。
ペアリングと婚約指輪と結婚指輪であれば彼女はどれを選んでくれるのだろうか。
俺の思考を読みきったのか、彼女が再びマグカップに手を伸ばした。
「これ。前払いでもらったから大丈夫」
「えー……」
あざと。
あきれてはいるが、上目遣いで見上げてくれるのかわいい。
しかし、不服であることには変わりなかった。
「足りないんですが」
「私がいいって言ってんだから文句言うなよ。これ以上駄々こねるなら返して」
「それは困ります」
パラ……と1枚、適当に用語集のページを開く。
彼女の温もりと実用性を兼ねそろえられた1冊なんて、なかなか入手機会もないのだ。
みすみす手放す気はない。
とりあえず俺は用語集のお返しとして、彼女をベタベタに甘やかすことを決めたのだった。
『ページをめくる』
スニーカーに片足を突っ込んだ彼女の背中に声をかける。
「忘れ物ですよ」
「え? ……えぇー……」
振り返って俺の手元を見た瞬間、彼女の顔がシワクチャになった。
「こんな格好でこんなん持ったって似合わないよ」
「似合う似合わないの問題じゃないでしょう」
なんの変哲もないシンプルな黒の日傘である。
今や安全メットと空調服を身につけた工事現場のオッサンが、新人に折りたたみ日傘の使い方をレクチャーする時代だ。
かわいい子がボーイッシュな格好で日傘を待ったところで特に違和感はない。
「こっちのほうがよかったですか? 俺のイチオシです」
「……そ、れは……」
忍ばせていたもう一本の日傘を見せる。
持ち手が木製で、生地にレース刺繍の入った白い日傘だ。
内側の薄紫の生地にはアプリコットがプリントされている。
「お気遣いどうもありがとう……」
お礼を言ってくれたから白い日傘を受け取ってくれるかと思ったら、手に取ったのは黒いほうだった。
そうか……。
残念ではあるが彼女をこれ以上、引き留めるのは忍びなかった。
気を取り直して彼女を送り出す。
「では、気をつけて行ってきてくださいね?」
「ん。行ってきます」
目元を和らげて微笑む彼女に胸が鳴る。
だが、気合いの入った隙のないメイクを崩す勇気は出なかった。
首筋に、いつもより長くキスをする。
牽制用の跡は残させてくれないから、いつものシトラスの香りの上から、少しでも濃く強く俺の体温をすり込んだ。
「ね……、長、い」
簡単に震える指先で、彼女は俺の胸を押し返す。
きっと少し速くなったであろう心音を暴きたい欲を抑えて、彼女の右手を絡め取った。
「ちゃんと俺を意識しておいてくださいね?」
「バカ……」
冗談めかして指に唇を落とせば、かわいらしい悪態が返ってくる。
「もう、行く……から。これ以上は、……ダメ……」
「……」
言葉を絞り出した彼女の唇はきつく結ばれ、熱を持った瞳を揺らした。
戸惑いがちに震えた手は縋るように俺の服に皺を刻む。
本当に、これで出かける気があるのだから驚きだ。
「……であれば、少なくともそのえっちな言い方はやめたほうがいいと思います」
「んなあっ!?」
ひとまず言葉足らずだけを指摘する。
声をあげる彼女にかまうことなく肩を掴み、体の正面が玄関に向くようにひっくり返した。
「ほら、そろそろ時間に間に合わなくなりますよ?」
「自分でけしかけておいて……」
ぶつぶつ文句を言いながらも、彼女は促されるまま家を出ていった。
*
夕方にはわずかに早い時間。
予定していた帰宅時間より1時間も早く帰ってきた。
なにかトラブルでもあったのか、ひどく不貞腐れている。
「おかえりなさい。早かったですね?」
「……ねえ、わざと?」
唇を尖らせている要因は俺らしかった。
身に覚えしかないから一旦ごまかしてみる。
「なにがですか?」
「日傘……」
「あぁ」
そっちか。
暇を持て余しすぎて15分おきに愛のメッセージを送りつけたことではなかったらしい。
日傘の違和感に気づいてくれるとは思わず、つい目元を緩めてしまった。
「ちゃんと差してくれたんですね?」
日傘にジェラシーをひと振り忍ばせたことを、彼女は気づいてくれたようだ。
しかも帰宅して気が緩んだのか、彼女は本格的に照れている。
「もしかして、少しドキドキしてくれたりしましたか?」
「だ、だって。外ではこんな……近くない、し……」
自分の唇に指を当てがう仕草はひどく蠱惑的だ。
ギュ、と胸をきつく締めつけられる。
「キスも……」
行きがけにキスをしなかったのは、彼女がおろしたてのリップをさしていたからだ。
妖艶に乗せた赤を崩す代わりに、焦らすように首筋にキスを置く。
俺をもっと意識してほしくて、手渡した日傘の内側に、俺が使っているコロンをひと振りしたのだ。
鈍い彼女がここまで意識してくれるとは思わずに、自然と口元が弛緩する。
「我慢できなくて、帰ってきちゃったんですか?」
「そういうことでは、ない」
まだ素直になりきれない彼女をどう焦らしていこうか下心と相談しようとしたとき、彼女がわずかに俺との距離を詰めた。
「……けど、友だちと別れたあと……急いで帰ってきたのは、そう……」
視線を逸らして歯切れ悪く紡いだ彼女の本音に、ゾクゾクと背筋に昂りが走る。
「じゃあ、それ。もう崩してもいいですか?」
赤く引かれた唇の輪郭に触れないように肌に触れた。
泳がせた視線は交わることなく伏せられる。
「いいよ……っ、あ……」
うつむき加減でうなずいた彼女のあごをさらって、唇を重ねた。
朝から時間をかけて煮詰めた彼女の唇は熱を持って柔らかい。
丁寧に日々を過ごして月をまたいだ。
昼も夜も蒸し暑く、過ごし方も装いもなにひとつ変わらない日常。
それでも、カレンダーの日付だけは着実に夏の終わりを告げていく。
置き忘れた夏を取り返すように、彼女の熱を求めて、奥深くまで探っていくのだった。
『夏の忘れ物を探しに』
カレンダーの月末、8月31日に赤ペンでチェックが入っている。
余剰スペースには午後5時とだけ書かれていた。
大抵の月末には同じ印がついている。
ただの締め切りだ。
毎月のデッドラインが月末の午後5時。
今月の末日は日曜日だから、29日の金曜日に締め切りは前倒しされていた。
締め切り前になんとか原稿を渡す。
単なる俺の書き間違えで、今日は予定なんてなにもなかった。
世間が夏休みということもあり、夏は執筆作業が増える。
溜まりに溜まった眼精疲労を少しでも回復するべく目を閉じた。
今日は1日中、ベッドの中でゴロゴロと自堕落に過ごしている。
今月の締め切りから抜けただけで、明日の9月に入れば9月の締め切りに追われるのだ。
日々締め切りに追わ続ける生活が嫌にならないといえば嘘になる。
だが、今はそれから逃れようとは思わなかった。
彼女への想いが言葉として溢れてどうしようもないうちは、俺はきっと締め切りと対峙するのだろう。
今日で夏が終わる。
残暑はしばらく続くだろうし、日が落ちてもまだまだ蒸し暑かった。
それでも期待せずにはいられない。
むせ返るような暑さのなか太陽よりも強くきらめいた彼女の笑顔が、秋という季節にはどんな表情に移り変わっていくのか、と。
『8月31日、午後5時』