卒業論文を早々に片づけた彼女は、残りの大学生活を練習にあてていた。
そこに俺が待ち伏せ……もとい、偶然彼女と鉢合わせて一緒に帰宅する。
がたん、ごとん。
電車は定刻通り、彼女が降りる駅に向かって走る。
夕方という時間帯にもかかわらず、車内は比較的空いていた。
俺たちは横並びに座り、特段会話を弾ませるわけでもなくゆったりと電車に揺られる。
最寄駅のひとつ前の駅名がアナウンスされ、別れを惜しむ心に区切りをつけた。
瞬間、彼女の頭部が肩に触れ、俺は夏の湿度を食む。
あとひと駅。
その安心感から、急に眠気が襲ってきたのだろうか。
伸ばしていたはずの彼女の背筋がたわんだ。
俺の耳にしか届かない小さな寝息。
規則正しく刻まれる呼吸の心地よさに、胸の奥はこそばゆく刺激された。
徐々に電車が速度を落とし始めたから、彼女の名前を呼ぶ。
小さく肩が跳ねた慣性で彼女の右手の甲が俺の太ももに触れた。
「ん……。あ、れ?」
ぼんやりと視線を揺蕩わせる彼女の右手を握ると、駅名を知らせるアナウンスとともに電車が停止する。
「着きましたよ」
「ああ、……うん。ありがと」
まだほうけている彼女の足取りを促して、俺たちは電車を降りた。
*
改札口を振り返った彼女は、しょんもりと肩を落とす。
「ごめん。寝ちゃうつもりは、なかった……」
「いえ。乗り過ごさなくてよかったです」
「そうだけど、だからって、……一緒に降りてこなくてもよかったじゃん」
どのみち俺は彼女の自宅とは方向が逆だ。
改札を出ても出なくても差し支えはない。
「結局、つき合わせちゃった」
「かまいませんよ。暗くなる前に帰りましょう」
「ここまででいいよ。悪いし。それに……余計に名残惜しいというか、寂しくなるというか……」
取り繕うことのない胸の内を、彼女はぽつぽつと吐露していく。
初々しい遠慮は彼女の右手の体温を連れ去ろうとした。
「奇遇ですね。俺も離れがたいと思ってたところなんです」
ひとりになろうとする右手を逃すまいと指に力を入れる。
そして、彼女の戸惑いに揺れた瞳の奥をとらえた。
気持ちが重なっているのに、わざわざ離れる必要なんてないはずだ。
ただでさえ彼女とは物理的に距離が開くことのほうが多い。
「あなたに甘えられると、もっともっと甘やかしたくなるんですよ」
甘えたつもりなんてなかったのだろう。
わずかに頬を染め、きまり悪そうに首を横に振った。
「あれは、……違うの」
その自覚のない行動に、俺がどれだけ自惚れているか、きっと彼女は知らないだろう。
にやけそうになる口元を引き締めて、彼女を見つめた。
「でも、俺が相手だから安心してくれたんでしょう?」
「安心、というか……」
彼女の頭が寄りかかったタイミング。
あの柔らかな温もりを俺から手放さなければいけないと、頭のどこかではわかっていた。
このまま彼女の自宅までついていけば、彼女に無理を強いることになる。
そんなことは、わかりきっていた。
だけど、できなかった。
できるはずがなかった。
繋いでいた彼女の右手の指を絡め、距離も詰める。
たったそれだけで、彼女の視線は落ち着きなく揺れた。
華やかに色づく頬の朱はさっきの比ではない。
ふるふると、なにか言いたそうに唇は震えていた。
何度も何度も、彼女は夏の湿度を食む。
「ただ、す、好きだなって思っただけ……」
夏風に乗った小さな音を、俺はたまらず抱きしめた。
『タイミング』
7/29/2025, 11:41:10 PM